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飯高城は匝瑳市の中央北の方、東総広域農道を国道296号から5kmほど入ったところの北側の丘陵にあって、最後の城主平山刑部少輔が小田原合戦後の天正十九年(1591年)に城域をすべて寄進したことで、いま市内きっての観光地となっている飯高檀林がひらかれたという。
城の来歴は定かでないが、中世を通じて千葉一族の飯高氏がこのあたりを本貫地としており、かれらの手による築城といわれる。すぐ近くに飯高砦飯高天神砦などを従えていることから戦国時代にはこれらと連携して機能していたと考えられている。

小田原合戦は千葉氏とともに北条方に属していたようで、合戦の後に廃城とされたらしい。

 

この日は朝駆けした多古町の久保城が駐車場難で敗退したが、その後の飯高、天神の2つの砦を首尾よく押さえた勢いで突入💨


現在位置(Googleマップで) 

城の東すぐ隣の飯高天神砦から向かった。

砦の前の細い道を西に向かって登ってゆくと、峠のように高くなったすぐ先が総門。

この周辺は道が狭いうえに観光客が多いので、車で乗り付けずに南北にある駐車場を利用するのが良い。

総門は階段の上に見えている。


総門から少し西の方に、往時の虎口らしい竪堀状が口を開けているが、ここからの立ち入りは禁止。
素直に総門から登ろう。

前日から何ヶ所かの城や砦を歩いたりしているだけで疲れが来たか😅重たくなった足を引っ張り上げて登る。

門を入ると、名刹らしい美しい森の中に参道が伸びる。


左右が曲輪らしいが、マムシ警戒で立入禁止😢

ワタシにとっては日常の光景だが、ここは観光地。

ここは中世の城内に寺をたてて壇林にしていたところらしい。
これが千葉県の指定史跡。


しばらく歩いていると、左側が狭くなってきて斜面が近くなっていたので、端っこギリギリから覗き込んでみる。
このあたりの城でよく見られるような絶壁ではないようだ…

下に水の手とか、ありそうな感じ…?


さらに進むと、「空堀跡」という標柱が立っている。 

参道は土橋状になり、右に廟所への道が出ている。

その空堀寄りに、これは土塁だろう✨


空堀は、このあたりの他の城のやつよりも相当にデカく、幅10メートルを超えそうなぐらいある。

これは戦国時代まで使われてた城の空堀だな✨


参道の渡る土橋状は、幅5メートルぐらいある。

城郭のそれではないな…


空堀跡を過ぎると、ふたたび同じような平坦な中をカーブを描きながら進む。


奥の曲輪は一段低くなっていて、境い目がハッキリとした段になっている。


この曲輪に天正年間に日統上人が談所を開いたのが飯高壇林の始まりで、明治以降他所に移転し立正大学に発展したとのことで、ここは立正大学発祥の地とされているとのこと。


碑の後ろには題目堂が立っているが、だいぶ傷んでるな…


奥の曲輪との間には土塁があったようだが、断片的になってるみたい…


その先の曲輪には、巨大な本堂が立っている。

曲輪をいっぱいに埋め尽くすようなデカさで、すでに中世の城の面影は無い。

ここは八日市場きっての観光地でもあり、すっかり観光気分になってきた😂


それでも境内の東の端から下を見ると、それなりの広さのある帯曲輪が見える。


帯曲輪はしばしば切岸加工で出てきた残土を積んで築かれるので、これは城の名残りとみて間違いないだろう。

その切岸も…


なかなかの鋭さ😮

まだまだ、探せば城の面影は残してくれているな😊

 

せっかくなので、本堂の裏のぼたん園で牡丹の花を鑑賞✨

すっかり観光客モード😅


この城の主郭は北端の方になるが、ちょうどお手洗いの裏になる。

何しろ山林内立入禁止だし、観光客も多いのでガサガサ突っ込んで行くわけには行かない。

お手洗いの横から眺めるだけにした。


南側は土塁で仕切られているようだ。


全体的にはこのあたりに多く残っている小さな城郭と同じように、入り組んだ形の台地を城に取り込み、南北に長い天端に東西方向の空堀や土塁を何本か入れて仕切り、曲輪を1列に並べた典型的な連郭式の城ということになるか。

ともかくも規模が大きく、小田原合戦の頃まで使われていたのも頷ける。


すっかり古刹の森、人の訪れも多い観光地の雰囲気だが、よく探せばそこかしこに城郭時代の名残を見つけ出すことが出来て楽しい。 

 

★飯高城

千葉県匝瑳市飯高

南と北に壇林見学者用の大きな駐車場がある。

丘城

 

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(2024年5月7日 記)