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造海城の北端の方にある郭1、郭2へは水堀方面からのアクセスが出来ない。

主郭部の3面並ぶ曲輪の真ん中と北端の間に伸びる土橋状から、1段下の帯曲輪に降りて北に進む。

一応、道のようなものが続いている。

だいぶ、なで肩ではあるけど…🥶

(2020年3月28日撮影)

それを辿ってゆくと、郭2の北側に回り込んでゆく。

(2020年3月28日撮影)

一見したところ、ふつうに岩盤の山が鋭く立ち上がっているだけのように見えるが…

なんか、裾が抉れてるんだけど…💦
(2020年3月28日撮影)

何だこりゃ〜?😮
(2020年3月28日撮影)

明治馬車道〜?😮
(2020年3月28日撮影)

もちろん、明治馬車道の切通しなどではない😮
れっきとした堀切✨
底に土や落ち葉、岩屑などが転がっているが、矩形の断面がクッキリやね〜😮

さらに北端の郭1を目指す。
郭2との間は、わずかにクボになった中に、土橋状が設えられていた😮

先にある郭1は、まるで岩のドームのように盛り上がっていた😮
こんなキレイなドーム状も、なかなか見られないだろう😮
(2020年3月28日撮影)


これじゃ、てっぺんも丸いのかと心配になるが、ちゃんと削平されている。

🌿🌿はかなり強盛だったけど…😅

(2020年3月28日撮影)

郭1の先にも降りることが出来る。
曲輪の裾には横堀が伸びている。
西の方は、東京湾に向かって竪堀となって落ちていた。

東の方は、三日月堀のようになって切岸の裾を這っていたが、だいぶ崩れているようだ…💦

郭1へ登るところは、元は土橋だったんだろうが、崩れて分からなくなっていた…😢

さて、撤収して南の方に行くぞぇ💨
この城はまだ南の方に曲輪が残ってるんだ〜

というワケで、主郭部への入口の下、井戸跡の上あたりまで来た。
東京湾に向かって、こんな曲輪が伸びたりしているが…
(2020年3月28日撮影)

井戸跡はほぼ垂直なガケの下にあって、アプローチ出来なかった。
気を取り直して、南西の郭6、郭7を目指して進む。
郭7には、幕末に設置された砲台の遺構が残っているという事だったが、ワタシはまだ見たことがなかった😅
ほぼ2年後に見事攻略した。
その時の様子はコチラの記事で。

最初に現れる郭5の上の方には、岩盤の削り残しらしい石塁が残っていた。

郭5にも。
上の曲輪との段が、岩盤の垂壁になっていた😮

北の方は横堀や堀切が印象的だが、こっち側は石塁や切岸が特徴的らしい。

ここから先の郭6へは、曲輪の北側に付けられた坂虎口状の道を下ってゆき、先の方で左に曲がると虎口がある。
その前に、郭6外側の尾根外側を確かめておこうと直進しようとした、その時だった。
先頭を歩いていた若い衆が見つけた、コレ…

何だこのガケ😧

ワタシはヘタレだったので、これ以上近づけなかった😅
若い衆は、ホントの際まで寄ったらしい🥶

後でこの写真をよ〜く見てみると、ガケの切削面には斜めに入った痕の他、数十センチの間隔で水平の線が入っているように見えた。
どうもコレ、元名の房州石の丁場にもあった、平場掘りの痕と同じじゃないか?🤔
ナゼ、ラピュタの壁がある金谷でなく元名?😳
それはいずれ…💦

…って事は、コレは石丁場の跡?
…こりゃ、確かめに行かなきゃいけませんナ

かくて、追試に行くことが確定したのだった😨
落第じゃん😳

さて郭6に入る。
この見事な虎口から入ってくる。

砲台のある郭7は、高さ10メートルはある斜面を降りた下だった。
動線のようなものは刻まれておらず、仕方なく斜面を直降りして行った。

そして…

この丸い土盛りが数基並んでいる、コイツが砲座の跡😮

ここは『竹ヶ岡砲台』の跡で、ペリー来航を受けて築かれたものとの事。
西陽を浴びる砲座を見ていると、かつて城であったこの地で海防の任に当たった兵士たちの喧騒を妄想してしまう…

過去2度の登城で辿り着けなかった竹ヶ岡砲台跡まで見ることが出来て、大満足の登城だった。

しかし、郭6裏のガケだけが、アタマから離れなくなったのだった…💦


上総 造海城 謎の石丁場遺構?  に続く)


★造海城

千葉県富津市竹岡

灯篭坂大師の駐車場を利用できる。

山城

 

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(2021年12月27日 記)