この瞬間を抱きしめる―目覚めた人生の生き方 [単行本(ソフトカバー)]
レナード・ジェイコブソン (著), 今西礼子 (翻訳)

P66・67

思考との正しい関係より

思考を認めましょう。

思考それ自体が表現することを認めましょう。

思考それ自体の信念、概念を認めましょう。

しかし、そのいずれも信じ込んではなりません。

中略

幻想と共存する正しい態度とは、どのような点であっても幻想に賛成も反対もしないことです。

ただ、幻想をあるがままに観つめましょう。


P216

わたしが神について語るときは、

マインドによって知り得る神について語っているのではありません。

今この瞬間が明らかにする神について語っているのです。

この瞬間に存在するすべての、まさにその真髄に存在する、

沈黙した実在(プレゼンス)の神について語ってるのです。

あなたの内なる沈黙の、まさにその真髄に存在している、

あなたと切り離されていない神について語っているのです。

永遠なる本質そのものの神について語っているのです。

純粋意識としての神について語っているのです。

万物が生じては戻っていく源としての神について語っているのです。

万事万物であり、無でにある神について語っているのです。

始まりでもあり、終わりでもある神について語っているのです。

わたしのマインドからではなく、神秘の内側から神について語っているのです。


P274-判断を下すことのない人生

判断をくだすことを超越したいのであれば、

判断を知るようにならなくてはならないでしょう。

判断を下すものとしてのあなた自身を知りましょう。

判断を下された物としてのあなた自身を知りましょう。

判断のあらゆる形態をじっと観つめ続けましょう。

判断のあらゆる偽装ををじっと観つめ続けましょう。

日常で判断が生じる度に、判断ををじっと観つめ続けましょう。

あなたが判断を知るようになり、判断を下すことなくそのまま判断を受け容れると、

判断は溶け始めるでしょう。

判断はあなたの人生から完全に姿を消すでしょう。

判断を下すことのない人生をあなたは体験するようになるでしょう。


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ラメッシュはマハラジに出会って覚醒した人ですが、マハラジの「私は在る」よりはるかに解りやすく教えを説いています。

難解なマハラジから読み始めた時には少し混乱がありましたが、、、マハラジやラマナなどの基本を押さえたのは結果良かったのかも知れません。

私の意図なんかありませんが、それ(覚醒本を読み続けている)が起こっているのは、つまり「この遊びが楽しい」と私のブループリントに書かれているからに過ぎないのですね。




チューリップ教えを忘れる

教えを忘れなさいと言うわけは、「誰」が教えを覚えていたがるのか?というのが問題だからです。

中略

エゴが自分の絶滅に手を貸したいと思うでしょうか。

中略

教えが忘れられれば、エゴも忘れられ、教えがひとりでに働くようになります。

教えを読み続けているわけは、知識がほしいわけではなくて自分(エゴ)に催眠術を解く催眠をかけているようなものなんです。

「奇跡のコース」ワークブックもそのようにデザインされているような気がします。

自分に合ったやりかたが、教えを読み続けるという方法で、それが一番楽しめるという訳です。



チューリップバクティ(帰依)から教えを始める

「御心のままに」と言うとき、あなたは実際、神の意思が常になされている、ということだと、私は理解しています。

神の意思以外がなされるということは、不可能だということですね。



チューリップ教えの基本

意識が存在するすべてである。

つまり「誰」もどんな行為もしていない。

神の意識がなければ、何ごとも起こらない」

ただ、神の行為が起こっているだけなんですね~





チューリップ明晰さあるいは混乱より

「私に明け渡しなさい。そうすれば、自分が犯してしまったと考えざるをえないすべての罪から、おまえを救ってやろう」

中略

ここでのジョークとは、明け渡すそのものも、あなたがコントロールできることではない、ということです。

なぜなら「私は明け渡す」という個人がいるかぎり、明け渡す人がいるのでありそれは個人のエゴだからです。

中略

その解釈はこうです「私はなんの罪も犯していない、なぜなら何の行為もしていないから。行為をしていないのに、どうして、私に罪を犯すことができるだろう」

あるがままにいても、なんら問題ないのですね。


チューリップ聖なるジョーク

質問者 エゴを消滅させたいという欲望こそが、まさにエゴを生かし続けることになるのですね。

ラメッシュ 何しろ冗談です。聖なるジョークなのですよ。

中略

エゴとは単に「自分は行為者であり、この体を支配している分離した存在である」という聖なる催眠を通して生まれた感覚のことです。

そこに存在しているのは、ただ肉体精神機構とその中を流れるエネルギーだけです。

中略

もし電気器具に催眠術をかけられているとしたら電気器具は自分がトーストを作っているとか 中略 考えるでしょう。

神がエゴを創造し、またあるときは、エゴの消滅を徐々におこなっていくのも神をいうわけです。


チューリップ二元性と二元論

二元性の基本的な分裂は、意識そのものの中で、現象を認識するプロセスの一部として起こります。

中略

「私」と「それ以外のもの」が活動しはじめた瞬間、二元性はさらに二元論へと分割されていきます。

中略

悟りとは、それゆえ二元論から二元性へ向かう反対のプロセスであり、個人的行為者という感覚の終焉にしかすぎません。



チューリップエゴ

つまり、幸福であったり不幸である「人」はエゴなのです。

では、解放とは何でしょうか?

解放とは、変わり行く幸福と不幸の感覚からの自由です。

解放とはどんな行為者もいないし、どんな体験者もいないということを、完全に究極的にハートから理解することです。



チューリップ自由の感覚

自由とは巻きこまれることからの自由だからです。

中略

エゴが巻き込まれます。

中略

自由とはエゴからの自由です。


チューリップ自由意思

あなたの自由意思はあれかこれかを選ぶことです。

中略

誰が選択するのでしょう。

エゴが選択します。

でも、エゴは何に基づいて選択するのでしょうか?

エゴはプログラミングされている内容によって「選択」をするということです。

中略

あなたがそんなにも大切にしている自由意志とは、あなたがコントロールできない何かにもとづいている、ということです。

中略

私が「御心のままに」と言うとき、それを意味しているのは、人間はどんな自由意志も持っていないということです。

中略

好きなことをしてもいいが、でも、あなたのやりたいことは、与えられた情況で、その瞬間にまさに神があなたにしてほしいと思っていることだということです。

中略

でも間違えないでください。

私は繰り返し、「これはすべて観念である」と言いつづけています。


自由意志はなくて、ただ起こっていることを受け入れることは楽なことに違いないと思うんですけどね。

好きなことをしていても、神の御心に反れることはないのですから。

またしても、あるがままで完璧なんです。

実際、最近その感覚で生きているようですし♪





チューリップ何十億という「自分」がいますが、一つの「私」しかありません。

それさえも観念です。

なんというジョークでしょうか!


チューリップ いくつかのバジャンが歌われていますが、その中の一つはある賢者のものであり、彼はいともあっさり、みごとにそれを表現しています。

「私は神を知ろうと出かけていき、神になって戻ってきた」



チューリップ探求はプロセスです

源泉が探求を始めると、そうすることで、エゴが破壊される過程がスタートします。

中略

理解すべき唯一の点は、神の意思、源泉の意思でないかぎり、何も起きないということです。


チューリップ観察者・観察されるものという二元性の中で現象を認識するために、意図的に自分自身を個々の肉体精神機構と自己同一化させたのは意識です。

 まさにリーラ(神遊び)の原点なんですね~


チューリップ唯一のサーダナ(修行)

人は行為を分析する練習をすることができると、あなたは言いました。

そしてそれをすることで、エゴを弱められると言いました。

それからある時点で、質問が源泉から直接されると、あなたは言いました。

中略

行為はただ起こるのだ、という個人的体験からの理解がますます大きくなるにつれて、エゴはますます弱まります。

そして、最後には死ぬのです。

中略

もし○○が何もしていないとすれば、○○とは誰か」

という問いが、自分の存在のまさに深みから湧き起こってきます。

中略

源泉から問いがわき起こるとき、源泉の意思とその肉体的精神気候の運命であれば、そのとき、知性からではなく源泉から答えがやってきます。

中略

しばらくすると、何かをしている最中に、何であれ何もやっていないということに、あなたはたまたま気づくでしょう。

中略

そのときは、エゴが非常に弱まっているという段階です。

中略

もし「私」がおこなう行為がないもないとすれば、この「自分」とは誰だろうか?

中略

行為が「自分」の行為でないとあなたが気づくときにだけわき起こるのです。





チューリップ真我探求-私は誰か

その「私」はタミル語です。

中略

実は、「私は誰か?」ではなく、「この自分とは何か?」になります。




チューリップバクティ(帰依)とジュニャーナ(知)

バクティにおいて、帰依者は明け渡しますが、しかし彼は明け渡すべき何を持っているというのでしょうか?

中略

しかし帰依者が明け渡すことの出来るものがたった一つあります。

それは個人的行為者という感覚です。

中略

「バガヴァット・ギーター」の中に素晴らしい一節があり、それは、「バクタの帰依の強さがある程度に達すると、私は彼に知識直感的理解」を受け取る受容力を与える」というものです。

中略

もしあなたが「御心のままに」を受け入れるなら、厳密には二つは一つなのです。

そのときにはどんな「自分」もいません。


中略

このようにあなたは「御心のままに」ということで帰依から始め、「私は行為者でない-もし私が行為者でないとするならば、そのときには私とは誰なのか?」といって終わるのです。


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アナハータをはじめるにあたり、名前を考えた時に直ぐに、この名前が浮かびました。

後で、そういえばハートチャクラの名前だ!と気がついたのです。

マハルシもハートは「意識の座にほかならない。」と言っています。

ヒーリングは対処療法にすぎないーとは思っていましたが、私には別の意図がありました。

それを、うまく表現できませんでしたが、シルバーバーチのこんな言葉を見つけました。

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☆治療家が患者の痛みを取り除いたり和らげたりすることが許されるのは、その体験を通して患者の魂に真の自我に目覚めるチャンスを与えてあげることが出来るからです。

病気を治すということは確かに偉大な仕事ですが、もっと偉大な仕事として、患者の魂に生命の実感を覚えさせることが出来るのです。

その仕事に比べれば、身体が癒えた時に覚える喜びは大して重要ではありません。



☆ただ、病氣の全てが治るとは限らないことを知っておいてください。

何事にも法則(摂理)というものが働いており、患者の中にはいかなる治療家にも治せない人がいるということです。時機が熟せば、いかなる病氣も必ず治ります。

それは、魂にとって死の彼方の生活体験を必要とする時機が至れば、いくら健康な身体でも魂をとどまらせられなくなるのと同じです。

全ては大霊の摂理で定められているのです。

あなた方もその摂理の一翼を担っているのです。

なぜなら、あなた方自身が大霊の一部だからです。


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なんとなく、自分がまず目覚めることが先決だという思いはありました。

それもマインドなんですけれど…

目覚めの段階に入ると、原点に戻って覚醒という課題がやってきました。

これもマインドなんですけれど…


最近ディバインは、「ありのままで良いんだ」と何故か優しげに見守ってくれているので、もうお任せです。

最近、少し空虚感があって、なにもしなくて良いのかなぁ?と思っていると、次々と以前したかった事が自然と出来るようになったり、自然にいろんな事がやって来て、気がつけばスケジュールが埋まっていたり…

話が飛びますが、ハートの振動が何故か右よりのような気がしていて、マハルシによると、ハートの中心は背骨の指2本分だけ右よりにあるそうで、なんだが凄く納得しました。

もちろん、その言い回しには身体レベルでのことで、何処にあるというものでもないようです。

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不滅の意識―ラマナ・マハルシとの会話 より転載

質問者 (神の前に)ひれ伏すとはどういうことですか?

マハルシ
 それはエゴの鎮静を意味します。

質問者 鎮静とは何にですか。

マハルシ 源に溶け込むことです。

神は外面的に膝を折ったり、頭を下げることでだますことはできないのです。

かれは、エゴがあるかないかを見ています。





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↓ 貴重なラマナ・マハルシの映像、何度も広告が入りますが、マハルシの眼差しに吸い込まれそうになりました。



1/2 投稿者 Maieutique-Transcendante





2012年の12月1日に、点描画のアートカフェにお伺いしたとき、たまたま先生の織葉さんと二人きりでした。



その時、何時もと違ってとても大きな用紙で点描画を描き始められていました。



次のアートカフェにお伺いしたときにその点描画が、完成していて見た瞬間ものすごく感動したことを覚えています。



そして、とても手に入らないだろうと思っていましたが、その時ご一緒した方が価格を聞かれて、裏表を書いていないのでということで破格のお値段を提示されました。



私は即購入させて頂き、その日に自宅へ持ち帰りました。



そして、後にメールでその点描画の題名をお聞きして、本当に倒れそうになりました。



まさに、その点描画の題名が「覚醒」だったのです。



その、点描画はサロンの中央に飾ってありますが、何度見ても素晴らしい作品です。



もちろん「覚醒」は、マーヤーである引き寄せの法則の届かない、存在そのものなのですが、、、



ここで、神遊び (リーラ) をしている私には、心震える感動的な出来事でした。





インドのコースで日本から同じ時に参加して、実際にお話もしたことがある方が、「覚醒」されたことも、私にとっては衝撃的なことでした。



今、目覚めの状態を体験なさっている方は、沢山いらっしゃると思いますが、実際に「覚醒」している方はそれほどいらっしゃらないのではないかと思います。



果実は熟したら自然に落ちるーという覚者たちの言葉のとおり、私たちに出来る事はなにもありません。



それでも、覚者たちを知り、覚醒を求める情熱は目覚めの状態を、より鮮やかにしてくれるように思えるのです。



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インドでもそうでしたし、サットサンに行っても必ず質問をするのですが、その動機というものが「覚醒者と話したい」というもので、実はその時に限って質問がどうしても思い浮かばないのです。

それで、かなりアホみたいな間の抜けた質問を、とりあえずしてみるのですが、不思議に後でなかなか良い質問だった…と思う事も。

質問をして、凄く深くて腑に落ちるような答えが頂けても思考が働かなくて、記憶からスッポリ抜け落ちていることも…

プンジャヤなどを読んでいると、やはり質問は必要なようですが…

たいてい、この質問をしたら覚醒者からは、こう帰ってくるだろう、、、
という予測があって、その予測する答えを得るためにわざわざ質問する気にならなかったり…

もっと腑に落ちる答えを求めているのだけれど、そのマインドが納得するような答えを覚醒者はもたらさない…それは言葉では表現できないからなんでしょうけど…

思考では解っている、そのカラクリも今は背後にある影のように感じるだけなのだけど、そこに魅了されているうちは戯れていようと思う。

すべて、あるがままに…


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何時も見る夢には二パターンあります。

大勢で旅をしている夢と、家に帰ろうとして道がわからなかったり乗る電車がわからなかったりする夢。

大勢で旅している夢から、たぶん此処(地球)に来たのは大きな船団でやってきたんだろうと推測されるのですが。

家に帰る夢は、一人で迷いつつ、なかなか家にたどり着けない、、、、

夢だから目さえ覚めたら、お家で寝てるわけでさっさと「覚醒しなさいよ」ってことなのでしょう。

その他のパターンに遊園地で、気がついたらジェットコースターの席についていて、降りたくても降りれなくて、と~っても怖い思いをする夢(汗)

遊園地に行っても絶対ジェットコースターには乗らないワタシなのに、、、

ところが、ちょっと前の夢では遊園地へ行って、さっさとそのまんま遊ばずに出口へ向かってました。

なかなか良い兆候だと思うワタシでありました。


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いつも裸足で困っている夢を見ていた私。

インドでも1足を紛失し、1足が水で分解した。

昨日の夢でも靴を無くした。

が、私のシューズケースがあって、そこから歩きやすいスニーカーを取り出して履くことが出来た。

嬉しい。

私には、様々のところへ、素晴らしい場所へ歩いていける靴がシューズケースに入っいて、私のゆくところに待機しサーポートしてくれる。

そんな風に思えた。


 

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昨日はかなり意味深な夢を見ました。

ある山頂の寺院の巨大な塔で凄い護摩焚のような炎が踊っていました。

その色は真っ赤な炎とそのバックの黒。

その二つの色が巴を描いて轟々と燃えさかっているのを見ていました。

ちょっと鞍馬のウエサク祭の炎を思い出しています。

が、それが橋の横のスクリーン上での映写機の映像だということに気づいて、その光源を探しました。

階段の下の投影者を探しても見つかりません。

そんな夢でした。


すべての幻を焼き尽くすかのように見えた炎も、幻だったんですね。

そのスクリーンのある橋は、何と何を繋ぐ橋なのでしょうか?

そして投影者はいない?

この夢を見ているのは、眠っている私なんですけれど…

この夢の中の私は、それが夢の中の出来事だと気づきませんでした。

夢の中で探しても見つからないもの、そう夢の中の私は自分自身を見るべきだったのでしょうね。

昔、夢のなかでが鏡を見たら、どんどん自分のカオが変化していました。

自分の人格やマインドは、自分以外の所からやって来るものだから、、、

そして、それはやはり私ではありません。


バックグラウンドに在る私という存在に気づくこと、、、


それは、やはり一種の意識の跳躍のような気づきが必要なのかもしれません。


昔見た覚醒夢で夢の中にいることに気づいたきっかけは「なんかヘン」とか「この状況でそれはありえへん」といった気づきでした。

 

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ある部屋で講義を受けていて、気づくと教壇の前のマハラジとマハラジの前の小さなマハラジ?と私しかいなかった。

そして私はその部屋を浮遊していた、、、という夢を見た。

その後、後ろのドアは壁になっていたけれど、壁をはがして出て行った。


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