ラメッシュはマハラジに出会って覚醒した人ですが、マハラジの「私は在る」よりはるかに解りやすく教えを説いています。

難解なマハラジから読み始めた時には少し混乱がありましたが、、、マハラジやラマナなどの基本を押さえたのは結果良かったのかも知れません。

私の意図なんかありませんが、それ(覚醒本を読み続けている)が起こっているのは、つまり「この遊びが楽しい」と私のブループリントに書かれているからに過ぎないのですね。




チューリップ教えを忘れる

教えを忘れなさいと言うわけは、「誰」が教えを覚えていたがるのか?というのが問題だからです。

中略

エゴが自分の絶滅に手を貸したいと思うでしょうか。

中略

教えが忘れられれば、エゴも忘れられ、教えがひとりでに働くようになります。

教えを読み続けているわけは、知識がほしいわけではなくて自分(エゴ)に催眠術を解く催眠をかけているようなものなんです。

「奇跡のコース」ワークブックもそのようにデザインされているような気がします。

自分に合ったやりかたが、教えを読み続けるという方法で、それが一番楽しめるという訳です。



チューリップバクティ(帰依)から教えを始める

「御心のままに」と言うとき、あなたは実際、神の意思が常になされている、ということだと、私は理解しています。

神の意思以外がなされるということは、不可能だということですね。



チューリップ教えの基本

意識が存在するすべてである。

つまり「誰」もどんな行為もしていない。

神の意識がなければ、何ごとも起こらない」

ただ、神の行為が起こっているだけなんですね~





チューリップ明晰さあるいは混乱より

「私に明け渡しなさい。そうすれば、自分が犯してしまったと考えざるをえないすべての罪から、おまえを救ってやろう」

中略

ここでのジョークとは、明け渡すそのものも、あなたがコントロールできることではない、ということです。

なぜなら「私は明け渡す」という個人がいるかぎり、明け渡す人がいるのでありそれは個人のエゴだからです。

中略

その解釈はこうです「私はなんの罪も犯していない、なぜなら何の行為もしていないから。行為をしていないのに、どうして、私に罪を犯すことができるだろう」

あるがままにいても、なんら問題ないのですね。


チューリップ聖なるジョーク

質問者 エゴを消滅させたいという欲望こそが、まさにエゴを生かし続けることになるのですね。

ラメッシュ 何しろ冗談です。聖なるジョークなのですよ。

中略

エゴとは単に「自分は行為者であり、この体を支配している分離した存在である」という聖なる催眠を通して生まれた感覚のことです。

そこに存在しているのは、ただ肉体精神機構とその中を流れるエネルギーだけです。

中略

もし電気器具に催眠術をかけられているとしたら電気器具は自分がトーストを作っているとか 中略 考えるでしょう。

神がエゴを創造し、またあるときは、エゴの消滅を徐々におこなっていくのも神をいうわけです。


チューリップ二元性と二元論

二元性の基本的な分裂は、意識そのものの中で、現象を認識するプロセスの一部として起こります。

中略

「私」と「それ以外のもの」が活動しはじめた瞬間、二元性はさらに二元論へと分割されていきます。

中略

悟りとは、それゆえ二元論から二元性へ向かう反対のプロセスであり、個人的行為者という感覚の終焉にしかすぎません。



チューリップエゴ

つまり、幸福であったり不幸である「人」はエゴなのです。

では、解放とは何でしょうか?

解放とは、変わり行く幸福と不幸の感覚からの自由です。

解放とはどんな行為者もいないし、どんな体験者もいないということを、完全に究極的にハートから理解することです。



チューリップ自由の感覚

自由とは巻きこまれることからの自由だからです。

中略

エゴが巻き込まれます。

中略

自由とはエゴからの自由です。


チューリップ自由意思

あなたの自由意思はあれかこれかを選ぶことです。

中略

誰が選択するのでしょう。

エゴが選択します。

でも、エゴは何に基づいて選択するのでしょうか?

エゴはプログラミングされている内容によって「選択」をするということです。

中略

あなたがそんなにも大切にしている自由意志とは、あなたがコントロールできない何かにもとづいている、ということです。

中略

私が「御心のままに」と言うとき、それを意味しているのは、人間はどんな自由意志も持っていないということです。

中略

好きなことをしてもいいが、でも、あなたのやりたいことは、与えられた情況で、その瞬間にまさに神があなたにしてほしいと思っていることだということです。

中略

でも間違えないでください。

私は繰り返し、「これはすべて観念である」と言いつづけています。


自由意志はなくて、ただ起こっていることを受け入れることは楽なことに違いないと思うんですけどね。

好きなことをしていても、神の御心に反れることはないのですから。

またしても、あるがままで完璧なんです。

実際、最近その感覚で生きているようですし♪





チューリップ何十億という「自分」がいますが、一つの「私」しかありません。

それさえも観念です。

なんというジョークでしょうか!


チューリップ いくつかのバジャンが歌われていますが、その中の一つはある賢者のものであり、彼はいともあっさり、みごとにそれを表現しています。

「私は神を知ろうと出かけていき、神になって戻ってきた」



チューリップ探求はプロセスです

源泉が探求を始めると、そうすることで、エゴが破壊される過程がスタートします。

中略

理解すべき唯一の点は、神の意思、源泉の意思でないかぎり、何も起きないということです。


チューリップ観察者・観察されるものという二元性の中で現象を認識するために、意図的に自分自身を個々の肉体精神機構と自己同一化させたのは意識です。

 まさにリーラ(神遊び)の原点なんですね~


チューリップ唯一のサーダナ(修行)

人は行為を分析する練習をすることができると、あなたは言いました。

そしてそれをすることで、エゴを弱められると言いました。

それからある時点で、質問が源泉から直接されると、あなたは言いました。

中略

行為はただ起こるのだ、という個人的体験からの理解がますます大きくなるにつれて、エゴはますます弱まります。

そして、最後には死ぬのです。

中略

もし○○が何もしていないとすれば、○○とは誰か」

という問いが、自分の存在のまさに深みから湧き起こってきます。

中略

源泉から問いがわき起こるとき、源泉の意思とその肉体的精神気候の運命であれば、そのとき、知性からではなく源泉から答えがやってきます。

中略

しばらくすると、何かをしている最中に、何であれ何もやっていないということに、あなたはたまたま気づくでしょう。

中略

そのときは、エゴが非常に弱まっているという段階です。

中略

もし「私」がおこなう行為がないもないとすれば、この「自分」とは誰だろうか?

中略

行為が「自分」の行為でないとあなたが気づくときにだけわき起こるのです。





チューリップ真我探求-私は誰か

その「私」はタミル語です。

中略

実は、「私は誰か?」ではなく、「この自分とは何か?」になります。




チューリップバクティ(帰依)とジュニャーナ(知)

バクティにおいて、帰依者は明け渡しますが、しかし彼は明け渡すべき何を持っているというのでしょうか?

中略

しかし帰依者が明け渡すことの出来るものがたった一つあります。

それは個人的行為者という感覚です。

中略

「バガヴァット・ギーター」の中に素晴らしい一節があり、それは、「バクタの帰依の強さがある程度に達すると、私は彼に知識直感的理解」を受け取る受容力を与える」というものです。

中略

もしあなたが「御心のままに」を受け入れるなら、厳密には二つは一つなのです。

そのときにはどんな「自分」もいません。


中略

このようにあなたは「御心のままに」ということで帰依から始め、「私は行為者でない-もし私が行為者でないとするならば、そのときには私とは誰なのか?」といって終わるのです。


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