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「田」俳句会のブログ

月刊俳誌「田」発行人、水田光雄主宰の俳句結社「田」のブログです。

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 俳句をはじめた頃の話です。当時の私は、海外出張が頻繁に入るため、句会に出られないだろうと思い、結社に所属することを躊躇っていました。しかし、やるからには基礎を押さえた方がいいと思い、朝日カルチャーセンターの通信学習を受けました。毎月二句を出して添削を受けるのですが、テキストは有名な藤田湘子の『20週俳句入門』でした。

 

 このテキストでは、各章ごとに「今週の暗誦句」として有名俳人の名句が4句掲載されています。これらを暗誦することは非常に効果的だったと思います。暗誦しているうちに自然と俳句の十七音の型が体に沁み込んでいったからです。それともう一つは、俳句の基本型をしっかり叩き込まれたことです。最初の半年は自由に作らせてもらえず、「や」切りの句ばかりでした。早く自由に作りたいと思いつつも、今思えば、基本型を徹底的に作らされたことはよかったと思います。

 

 その基本型の一丁目一番地が、<「上五は「季語」+「や」、中七・下五は季語とは別のことを表現し、名詞で止めるという型>でした。最初の3か月くらいはこの型の句を徹底的に作らされました。あの頃は、この型の句はおもしろくないなあと思っていましたが、今は違います。「季語」を「や」で切るため、季語が主役として強調され、明白な句に仕上がります。また、下五を名詞で止めるため、安定感が生れます。さらに「や」の切字が句全体に切れを生み、俳句らしいリズムに仕上がります。

 

 私は、「破調」や「句またがり」の句が好きですが、この基本型も大切な型としていつも頭に置いています。『20週俳句入門』は多くの俳人がお世話になっているテキストかもしれません。俳句の入門書として非常に優れた書だと思います。今では、「角川ソフィア文庫(900円税別)」で購入できます。  (栄司記)

 先月に引き続き、今月も台風が近づいています。大型で強い台風25号です。20日正午現在、日本の南の海域にあり、北北西に時速10㌔の速さで進んでいるようです。中心気圧は970ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は35㍍、最大瞬間風速は50㍍。台風は勢力を保ったまま、関東地方に接近し、21~22日に関東地方に接近する見通しです。

 

 そんな中、昨日、「俳句道場」が開催されました。精鋭(?)9名が集い、作句、選句に集中。全部で270句の投句に合評の時間は1時間もありませんでした。席題のうち季語2つは、「月」と「彼岸花」。「彼岸花」の句の中に「曼殊沙華」がありましたが、今後のルールとして、「彼岸花」が席題の場合、「曼殊沙華」はなしとすることがあらためて確認されました。

 

 ところで、「彼岸花」と「曼殊沙華」は同じ花ですが、「角川俳句大歳時記」では、「曼殊沙華」が本題、「彼岸花」が傍題になっています。句に読むとき、どのようなニュアンスの違いが生じるのでしょうか。「曼殊沙華」は仏教的な名前ですので、幻想的、美的な響きがあります。天から降ってくる花としても語られます。

 

 「彼岸花」は、秋の彼岸の頃に田の畦などに咲くイメージがあり、日本的な風景と結びつきます。「彼岸」という言葉から、死者、墓、生と死の境などを連想させます。同じカテゴリーの季語でも、イメージやニュアンスが違ってきますので、そこをしっかり押さえて詠みたいとあらためて思いました。

 

 来週は金沢での句会。金沢、新潟の精鋭の皆さんに加え、東京から道場で鍛え上げた(?)4名が参加します。土、日で3句出しの句会が3回です。金沢、新潟の皆さん、どうぞお手柔らかに!(笑)   

 

 写真は、私のマンションの入口から撮影したもの。今日は雨でずっと家にいました。  (栄司記)

 

 

秋の長雨というが、場所によっては線状降水帯の被害も出る、不安定な気候が続いている。幸いにも句会メンバーには被害が無いものの、秋の空は移り気なので油断は出来ない。

本日の注意事項として――

句ができたら念のため、類句類想がないか例句をあたってみること。如何にオリジナルと思っても、先人の句があれば敬意を払って引き下がることが肝要。

景に季語が付きすぎると、句に奥行きが出ない。深みのある句を詠むには取合せに充分注意を払うこと。「そこにあったから」ではなく、無いもの、見えないものも組み合わせる工夫を。

――斬新な表現をしても、読み手に伝わらなければ選に入らない。どこまで冒険するかは句会での反応を見るに如かずだが、読み手側も感性を磨いて、思いを掬い取れるよう努力が必要、と強く感じた句会であった。


弦代公園から見た不穏な秋の空です。

清水余人 報

 

 人生観の感じられる句です。「爽やか」は、さっぱりとして気分のよいさまから秋の大気の特色を表す季語です。夏の汗ばんだ感じから解放され、さらさらと心地よい気分を表します。この句では心にわだかまりがなく、身軽であることが伝わってきます。

 

 また、「旅立てる」とは、実際の旅立ちよりも人生の次の段階へ進むことを示唆しているように感じます。過去への執着、未練、しがらみを断ち、いつでも身軽に新しい世界へ旅立てるようにありたいと願う作者の姿が見えてきます。強い覚悟というよりも内に秘めた静かな決意や願いを感じます。

 

 「読書の秋」「スポーツの秋」「食欲の秋」など、秋はとかく新たに何かに取り組もうという気を起こさせます。「爽やか」ということばは、そういう気分にぴったりです。私も静かに新たな挑戦をしようと決意しました。秋だなあと思います。

 

 「爽やか」といえば、「爽やかに俳句の神に愛されて」という田中裕明の句があります。この「爽やか」は掲句とはまた違います。俳句が詠めることへの喜び、愛着、それを自ずと受け入れる気持ちを感じます。自然体だからこそ、人の心を打つのでしょう。私は力が入ってしまう性分なのですが、今回の新たな挑戦は自然体でいきたいと思っています。  (栄司記)

 

「北米部を見習え!」

 

 プリンタの事業部長から怒号が飛びました。初めてのプリンタ事業部との定例会議のことでした。我が欧州部は、部長、課長、主任、主担当、私(新入社員)の5人が雁首揃えて臨みましたが、完膚なきまで打ちのめされました。我が部長は、「こんな会議ならもう二度と出ぬ!」とキレて立ち去る始末。このあと、課長は「ようし、やってやろうじゃないか」と明るく我々を鼓舞しました。

 

 当時は、日本からU.K.の現地法人にプリンタを輸出し、各国の代理店経由で販売していました。課長は、こんなやり方ではだめだと言い、欧州で一番大きな市場のドイツに現地法人を設立し、自ら社長として赴任しました。

 

 私は、PCディーラーがどのようにプリンタを販売しているか実地調査することにしました。PCといえば、当時はIBMが主力。まず、全国のIBMのPCディーラー400社に電話調査をする一方、自らドイツの主要都市にある70社を飛び込み訪問しました。日本では、工場への生産手配や輸出手続きに追われてばかりでしたので、NECのプリンタが実際に店頭に置かれているのを見たときは胸が熱くりました。また、ディーラーの販売員から現場の最前線の状況を聴取するにつけ、「市場はここにあり!」との感を強くしました。

 

 ドイツへ出向した社長(元課長)からは、「お前自身の口からプリンタの事業部長に直接説明して来い」と命じられました。実際に市場の現場に立ったことで、「こうすれば売れるんだ」と熱意をもって説明することができました。「商売は会議室で起きているんじゃない、現場で起きているんだ!」を身をもって経験した出来事でした。爾来、プリンタの事業部長から「北米部を見習え!」と言われることはなくなりました。 

 

 

 

 

 

 「花鳥諷詠」の「花鳥」とは、自然界全体を表すことばです。「諷詠」とは、それとなく示し、うたうことで、直接感情を述べるのではなく、自然をとおして心を静かに表現したり、にじませたりすることをいいます。「花鳥諷詠」は高浜虚子が唱え、虚子の俳句観を表しています。

 

 <俳句は自然(花鳥)を詠い、又、自然(花鳥)を透して生活を詠ひ人生を詠ひ、又、自然(花鳥)に依って志を詠う文芸である>(虚子『俳句への道』)

 

 虚子は「花鳥諷詠」が自然・人生のすべてを包摂する秩序であることを確信していました。<花鳥(自然)諷詠といふ事は俳句それ自身の謂である>ともいいます。自然を詠むことだけが「花鳥諷詠」ではありません。「去年今年貫く棒の如きもの」という虚子の句をみればそれは明らかです。表層的には人間を詠んでいませんが、自然や事物の奥にある人間の心や生のあり方を詠んでいます。

 

 「花鳥諷詠」は虚子の俳句観そのものであり、俳句は人の生死、月日の運行、花の開落、鳥の去来など一切の現象を説明する哲学たり得るものなのです。  (栄司記)

 「天の川」とは、夜空を横切るように見える、無数の恒星が帯状に集まった光の帯のことです。七夕伝説では、彦星と織姫は一年に一度しか逢えません。この句は「逢う」ことに焦点を絞って詠んでいます。七夕の日に逢うから「天の川」が俄然ロマンチックになりますが、ここでは「いつ逢えば」を反復することで「天の川」に対して一考を促します。

 

 「いつ逢えば」のリフレインが、なるほど七夕の日に逢えるから「天の川」であって、それ以外の日は単なる「河」なんだと認識させられます。「河」と表現することで古典的、神秘的な響きとともに大きな隔たりを感じさせるところも巧みです。

 

 「七夕の日でないと逢えないの?それ以外の日に逢ってはだめなの?」という悶えのようなものを感じます。なかなか逢えず、逢瀬がままならないという切なさが浮かび上がります。そう考えると「天の川」はロマンチックな美しい星の群よりも、二人を隔てる大きな河に見えてきます。

 

 逢いたいけれど逢えない切ない気持ちを、「いつ逢えば」を繰り返すことで「天の川」への認識を揺らし、悶々とする恋の気持ちを巧みに表現します。この句はいつまでも私の心を揺さぶりますが、「天の川」という季語に異議を唱えるかのような表現が魅力的だからだと思います。

 

「Amore(愛)」の国のイタリア人は人生を謳歌します。そこには必ず「Amore」があります。イタリアの人気ドラマ「DOC」*を観ていると、病院というシリアスな職場で「Amore」が満ちています。ミラノの風景、イタリア語の心地よさとともに大いに堪能させてくれる作品です。  (栄司記)

 

 *「DOC」:イタリアでは、シリーズ3まで放送済。シリーズ4が2026年10月に開始予定。日本ではNHKで放送。

 

  8月24日、残暑というよりまだまだ猛暑の中、宮前句会が開かれました。欠席投句者1名含め、10名の参加。いつものように、席題2つの七句出し。席題は「坂」と「高」でした。

 

 席題の「坂」はまさに宮前平駅から句会場までが坂道です。「富士見坂」という急坂をのぼります。この暑さには少々こたえる坂です。

 

 いつもより参加者が多かったのですが、なんとか時間ぎりぎりまで全句(70句)を合評することができました。質問、独自の鑑賞が飛び交い、熱のこもった有意義で楽しい時間となりました。句会はやはり「合評にあり」との感をあらためて思いました。

 

 句会のあとはみなで歓談。今回、時間がぎりぎりだったことから、次回は選の入らなかった句から始めてみてはどうか、とのご提案があり、次回はそうしてみようと思っています。ご提案いただいた句友の「なぜ取らなかったか、取れなかったかを知ることの方が学びにつながる」というご意見は一考に値すると思いました。  (栄司記)

 「西瓜」は平和の象徴として詠み上げられています。「抑留」という戦争の中でも強烈な体験を持った叔父は、「西瓜」が出てくるたびに今の平和を強く感じるのだと思います。逆にいえば、それだけ過酷な「抑留」の体験を「西瓜」は思い出させるのでしょう。亡くなった戦友のことも瞼に浮かぶのかもしれません。抑留生活というのは、私のような戦争体験のない者にとって想像を絶する過酷な状況だったのだと感じます。

 

 この句では、「西瓜」は単なる季語というより、叔父の記憶を呼び起こすものとして詠まれています。その背後にある叔父の戦争の物語。その痛々しさが胸を突きます。

 

 先日、『開戦前夜』(石井裕也監督、池松壮亮、中野太賀他)という映画を観ました。官、軍、民からエリートが集められ、「総力戦研究所」という組織が立ち上がりました。彼らに課せられた任務は、アメリカ他との戦争の行方を予測すること。膨大なデータを積み上げ、シミュレーションを繰り返し、苦悩した挙句に出した結論は、日本の「圧倒的な敗北」というシナリオでした。

 

 映画は結論に至るまでの各人の葛藤、すなわち、正論と忖度、不安と恐怖、理性と感情に引き裂かれる人間の苦悩を見事に描き出していました。勝てないとわかっていて、それでも戦争を回避できなかった日本。満州や大陸で多くの戦死者を出し、軍部もマスコミもさんざん戦意高揚を煽ってきただけに、今さら引くに引けない状況だったのだと思いました。ただ、勝つか負けるかの二元論ではなく、どうすれば2年くらいで止められるかという検討はできなかったのかと思いました。もっとも、それは後世から見た空論で現実的ではなかったようにも思いますが。

 

 この戦争は、真の意味で誰も決断せず、責任を持たず、突入していった感があります。あえていえば、決めたのは「時代の空気」だったように思います。今日にも通じる課題を突きつけられた気がしました。『日本のいちばん長い日』の映画と対で観て、「開戦前夜」と「終戦前夜」をあらためて考えてみたいと思いました。   (栄司記)

 

 

 

 

 昨日の「俳句道場」で「秋の声」という季語の話がありましたので、今回はそのことから「季語の本意」について書いてみたいと思います。

 

 「秋の声」は、秋の空気が澄んで、遠くの物音がよく聞こえる状態をいいます。風音や葉擦れの音、水音、虫の音など何かしら秋と実感させられる気配のことです。人の声ではなく、気象現象による自然の発する音や気配を意味するので、天文に属する季語となります。

 

 「季語の本意」とは、その季語が俳句・文学の伝統の中で長年身につけてきた、基本的な意味・イメージ・情感のことです。「桜」という季語は、春に満開になる花、というのが表面上のイメージですが、春の到来、華やかさ、生命の輝き、無常感、といった長い文学的伝統の中で蓄積されたイメージがあります。また、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」などこれまで多く詠まれてきた和歌や俳句が日本人の「桜」へのイメージを形成しています。

 

 大切なことは、「季語の本意」を知った上で俳句を詠むということです。本意を知った上で、それを生かすのか、ずらすのか、裏切るのか、というところが俳句の醍醐味ともいえます。季語の本意を共有することで、作者と読者の間に豊かな共通基盤が生まれる一方(季語=コンテクスト:第一回ご参照)、その本意をあえてずらすことで新しい俳句的表現や世界が生まれます。

 

 少しずらすことで本意の範囲が広がります。大きく裏切ることで新しい本意が生まれる可能性があります。ただ、この場合、なぜその季語なの?という疑問が持たれ、共感されない可能性があります。季語との間に何かしらの関係や響きが残っていることが大切だと思います。

 

 また、季語のコンテクストを共有しているからこそ、ずらせるし、裏切れるとも言えます。大きく外したときに読者は違和感を感じますが、そこにおかしみや新たな気づきを読み取ってくれれば俳句の世界は広がると私は考えています。

(栄司記)