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「田」俳句会のブログ

月刊俳誌「田」発行人、水田光雄主宰の俳句結社「田」のブログです。

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 俳句は形式の面からは「有季定型」(五・七・五の十七音、季語を入れる)を基本とします。それでは内容の面からはどうでしょうか。

 

 正岡子規は、連句の第一句(発句)を一つの文学形式として新たに独立させて俳句と呼びました。したがい、俳句にはそもそも連句の本質的な要素があるのです。一方、山本健吉は古典俳句を検討して、「挨拶」「滑稽」「即興」であるとしました。

 

 「挨拶」は、連句の発句が客自身が主のもてなしに対して詠むものであったところからきています。たとえば、「五月雨をあつめて涼し最上川」は、涼しい川辺に席を設けた主に対して芭蕉が挨拶として発句で詠んだ句です。この句は『おくのほそ道』に取り入れられたとき、「あつめてはやし」と変えて、一句の独立性を強めました。

 

 「滑稽」については、そもそも連句は連歌をおもしろおかしく卑俗化させたものなので、その連句の発句から生まれ変わった俳句には、当然、「滑稽」の本質がありました。ちなみに「滑稽」は芭蕉などを経過して、奥の深い、しみじみとしたおかしみにまで高められました。

 

 「即興」は、連句が座の興にのせて間髪をいれず付けていくものなので、座の文学としての連句の本質そのものであるといえます。また、軽みの心につながるものでもあります。        (栄司記 26.08.05)

 デュッセルドルフのアルトシュタット(旧市街)で飲んだアルトビア(黒ビール)は私にとって忘れられないビールです。夏の夜、毎日のようにドイツ人と語り合いました。入社3年目のことです。

 

 ドイツの現地法人設立に先行して、私の会社はディスクドライブのセールスマネジャ―を雇用しました。彼の入社めがけて私は長期出張(2か月)を命じられました。「今後どのようにビジネスを展開するかよく話をし、彼をサポートして来い」というのです。毎晩、アルトシュタットに繰り出し、ビジネスのこと、ドイツのこと、日本のこど、家族のことなど話し合いました。

 

 彼は、「半年は受注ゼロが続くが、そのあとは必ず受注を獲る。100億円のビジネスも難しくない」と自信満々に言います。「お前は日本の事業部を引っ張ってくれ。俺は市場、顧客を開拓する」と言います。アメリカの会社で勤務していた彼は、本社と現地の役割を十分に理解していました。彼の人柄を知れば知るほど、私の彼に賭ける思いは広がりました。

 

 実際、半年後からおもしろいように受注が入り、2年後には100億円の売上を達成。おまけに彼はイタリアやオランダなど他の欧州諸国にも人脈があり、そのネットワークを活用してビジネスはどんどん大きくなりました。

 

 この経験から、物事の立ち上げには、「核になる人材を採用すること」「役割分担を明確にすること」、この2つが大切だと思いました。もちろん、根底に目的が明白で互いの信頼関係があることは言を俟ちません。このことは、海外ビジネスに関わらず、どんな組織の立ち上げにも当てはまることだと思います。  (栄司記 26.07.30)

 7月27日、定例の宮前句会が開催されました。今回は、もともとの宮前句会のメンバー(3名)と東京句会のメンバー(3名)との混成での句会となりました。同じ首都圏地区なので、今後は相互交流を図っていければと思っています。

 

 句会では、季重なり、説明調のことば遣い、季語の本意、ことばのイメージ、俳句は瞬間を詠むものではないのかといったさまざまな意見が飛び交いました。たとえば、「黒服」。作者は普通の黒い服のつもりで詠んでも、読者はどうしても黒スーツや喪服のイメージで読んでしまいます。実際、辞書で調べると、「黒服」は「特に黒のスーツ」と記載されています。これは一種の「スキーマ」(知識の枠組みや構造)の考えに近いのかもしれません。正確に伝えるには「黒き服」と詠む必要があるのかなと思いました。

 

 宮前句会は、人数は少ないですが、一人一人が俳句に向き合い、句会では一句一句を丁寧に合評します。議論、質問も活発で、あっという間に終わりの時間がきます。今回は二度目の参加でしたが、なかなか密度の濃い句会でした。

 

 「宮前平」駅から句会場(「宮前区民館」)までは富士見坂という急な坂を上り下りします。途中になかなか感じのよい建物があるのを見つけました。なんとスーパー銭湯で、岩盤浴も食事処もあります。この暑さ、句会のあとにでも一度寄ってみたいと思いました。 (26.07.28. 栄司記)

 俳句はたった十七音しかありませんので、散文のように意味を述べても片言、断片に終わってしまいます。したがい、「切れ」が重要になってきます。「切れ」を作ることで、大きな詩的空間や余韻を生むことができ、そこに読者の想像を呼び込むことができるのです。

 

 切れを生むためによく用いられるのが切字の「や」です。「夕月や脈うつ桃をてのひらに 伊藤通明」「火を焚くや白夜の森のバラライカ 有馬朗人」のように、テーマを提示したり、強調する役割を果たします。上五で切る場合が多いですが、「金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎」のように中七で切る場合もあります。

 

 下五で切る場合は、「や」よりも「かな」「けり」を用いることが多いです。「くれなゐの色を見てゐる寒さかな 細見綾子」「芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり 松本たかし」」などです。断定、詠嘆、余情と言った表現効果があります。

 

 「や」「かな」「けり」を使わず、「春惜しむ深大寺蕎麦一すすり 皆吉爽雨」や「おそるべき君等の乳房夏来る 西東三鬼」の句のように切ることもできます。また、「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女」「こんなにも床に散らばるおもちや春 矢野玲奈」の句のように、句の途中(中七の途中の「漕ぐべし」、下五の途中の「おもちや」)で切れることもあります。

 

 「や」「かな」「けり」の切字は、強い「切れ」を生みますが、芭蕉は「きれ字に用る時は、四十八字皆切字なり。用ざる時は一字もきれ字なし」と述べています。俳句では、切字を用いればいいということではなく、「切れ」を意識することが重要です。

 「朝焼」という季語は、「や」で切ることで一層印象深い景が提示されるように思います。「朝焼」にはじまる一日は気分が大きくなります。また、朝の静けさに包まれ、新鮮な気分にもなります。

 

 広大な「朝焼」のもと、目の前では山羊の乳しぼりという日々の労働が営まれています。空を染める「朝焼」の大景と目の前の乳しぼりの小景との対比が、人間の暮らしと自然とが調和する世界を鮮やかに描き出しています。これから一日が始まる清々しさや張り合いが伝わってきます。

 

 この句を読んだとき、インドネシアのボロブドゥール寺院近くの山から見た「朝焼」を思い出しました。やがてコーランも聞こえてきて、神聖な気持になったのを今でも覚えています。山から見下ろした村では、山羊の乳を搾ったりしていたのかなあとこの句からあらためて想像しました。

 

 上五を「や」で切り、下五を名詞で押さえた俳句の基本型が「朝焼」を鮮やかに押し出しています。 

 

 

 (2026.07.21 栄司記)

 梅雨明け間近の京橋(東京)道場に主宰+七人の侍が集合し、第4回の「俳句道場」を開催。いつものように、季語2つ

(「向日葵」「涼」)と漢字一字8つ、計10の席題に30句を投句(1題につき3句)しての腕試し。

 

 13時投句締切のあと、清記、選句を経て講評。主宰から、「概して手短な句で済ましている傾向が見られ、句がちまちましている。自分から少し離して作る、突き放して作るように」との総評がありました。ちまちました句を読むと、ただ「ああそうですか」で終わってしまうと。

 

 他にも「甘い表現」や「不正確な言葉遣い」「季語の誤用」などが散見されるという指摘もありました。たとえば、「雲海」という季語は、飛行機からではなく、山から見た「雲海」であるべきで、自ずと山にからんだ詠み方になるということです。

 

 時間内に30句を作ることにみなさんかなり慣れてきた感じです。これからは、席題で作るとはいえ、あいまいな表現を極力排し、表現を吟味して句を作ることを心がけたいと思います。   (栄司記)

     俳句には大別して、「一物仕立て」と「取り合わせ」があります。「一物仕立て」の句は、一句を一つの素材でまとめた句をいい、対象そのものをよく見て詠みます。「翅わつててんたう虫の飛びいづる 高野素十」「一枚の餅のごとくに雪残る 川端茅舎」といった句で、季語そのものを詠みつつ、そこに作者の発見、真実が宿ります。

 

 「取り合わせ」の句は、一句の中に二つの素材を配合する手法となります。「芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏」「秋風や模様のちがふ皿二つ 原石鼎」といった句で、前者は近景と遠景の取り合わせ、後者は秋風という自然とお皿の情景をぶつけ、作者の心境を表しています。

 

 「取り合わせ」の句は、作者の中で二物の響き合いがありますが、その響き合いに何らかの普遍性がないと読者の共感を得られず、独りよがりに陥る危険性があります。逆に共感が得られれば、その響き合いが広がりと奥行きをもたらし、大きな詩的空間を生み出します。

 

 「人間探求派」と呼ばれた三俳人の俳句は、一句一句が人間や人生の寓意を成しています。二物を衝撃させて切れをつくり、詩を生み出します。「勇気こそ地の塩なれや梅真白 中村草田男」「初蝶や吾が三十の袖袂 石田波郷」「蟇誰かものいへ声かぎり 加藤楸邨」という具合です。

     先日、府中市にある郷土の森博物館の「じゃぶじゃぶ池」に行きました。カラーボールがたくさん池に浮かび、子どもたちは大はしゃぎ。池は階段上になって段差があるので、ボールが流れていくのもおもしろいようです。陸側には恐竜の模型があり、時々雄叫びを発していましたが、ほとんど見向きもされず。関東はまだ「梅雨明け」宣言が出ていませんが、「水遊び」の情景はすっかり真夏です。

 

 この句は、水を掛け合ったり、泥に足を踏み入れたりして、子どもの遊びの際限のなさや広がりが伝わってきます。大人の目線では、「何をやっているのやら」となりますが、子どもは遊びに夢中で、そんなことはお構いなしです。季語の「水遊び」に「泥遊び」が加わったことで、水と土という自然の二要素が混ざり合い、子どものいきいきとした生命力、遊びを楽しむ自由な感覚が詠まれています。リフレインも効いていて、上五の字余りはまったく気になりません。

 

 プールや海は遊ぶよりも泳いだり浮かぶ方に、「水遊び」は遊ぶ方に重心があります。だからでしょうか、大人も童心にかえることができます。びしょ濡れになることで心も解き放たれ、構えていたものが解けていくようです。

(2026.07.16 栄司記)

 

梅雨の明けぬ前から颱風が幾つも到来する、不穏な気候が続いている。

今日は気温30度を大きく上回る予報のなか、見学者も含めて、七月度の東京句会が開かれた。

合わせて百数十句を、選句するのも時間がかかる。いまだに読めない漢字がある、読めても意味が不明、意味がわかっても景が浮かばない。情けない限りだ。来週の俳句道場で脱皮の糸口でも見つけられないだろうか。

兎に角、多作多捨! 多読に及くはない。



隣町の古代蓮が咲きました。

清水余人 報

 いよいよ梅雨明が近いです。昨年同様の猛暑がやって来るのでしょう。暑いときは食欲も減退。そういうときこそ素麺!

 

 我が家では、朝食は私の係。だいたいがパンかうどん、スパゲッティが多いのですが、ここにきて冷やし中華も加わりました。食べやすいからです。しかし、猛暑と食欲減退のダブルパンチのときは、やはり素麺がいいなあと思います。昨日、今年初めての素麺を朝食に作りました。なかなか好評でした。

 

 この句、助詞が「で」から「が」に変わることで俄然景色が変わりました。「とりあえず素麺でいい」という消極的な気持から「ぜひ素麺が食べたい」と積極的な選択へ。料理を作る側としては、「でいい」は少し寂しいです。「がいい」と言われると作る意欲も湧いてきます。日常のなにげない会話に夏の涼感や家庭の空気が伝わってきます。

 

 豪華な料理より素麺こそが夏のいちばんのご馳走。そんな季節感が伝わってくる句です。私もこれから「食べたいものある?」と聞かれたら「でいい」じゃなく「がいい」で応えたいと思います。そこには作る人への思いやりがあると思うからで

す。もっとも素麺の場合は、「素麺がいい!」とはっきり言えそうですが。