緊急事態宣言が解けたと思えば今度は蔓延防止等重点措置発令とか。ワクチンが潤沢に供給されない限りこの状態が繰り返されるのでしょう。われわれは「欲しがりません打つまでは」と粛々と順番を待つ所存であります。
本日の東京句会も消毒された会場で終始換気に留意して、聖火リレーとは異なってスピーディーに進行。全員メロスのように前を向いて走ったのでありました。
主宰から、互選を得ていても受けとる景が読み手によってばらつくのは表現がどこか弱い、桜蕊は「降る」まできちんとよむ、桜は散るもので降るものではない、俳句では夜はヨとしか読まないとう説がある等々、小気味良く指導されたのでありました。
昼間は晴れて暖かい一日でしたが、夕方の風は思ったより冷たく、早々に引き揚げる連中でありました。
人気のない桜の堤です。
清水余人 報
金沢の染井吉野が満開。呼応するかのように、草木が次々と花を咲かせ、春爛漫です。犀川では初燕の盛んな燕返しを見、寺町の竹林では高らかな初音を聞きました。相棒犬の信玄と犀川河畔へ。車を使い卯辰山と鶴来町を訪ねました。
●桜
春休みに入り、犀川河畔は家族連れ、犬の散歩、友人との散策など、適当な距離を保ちつつ賑わっていました。染井吉野は随分と大きくなり、その根元の蘖の桜の五、六輪も満開でしたが、犀星詩碑の辺りの杏の花はすっかり散りました。
犀川河畔の桜大樹(犀川大橋近く)
●卯辰山
浅野川の天神橋から卯辰山を巡りました。犀星自筆による秋聲碑 〈絶句 生きのびてまた夏草の目にしみる〉 を見てから、次々と桜狩りを楽しみました。期待した芽吹きの山は、桜に後れを取ったのか黄砂のせいか、萌黄色になり切っていませんでした。
芽吹き山(というより笑う山?)
下山途中の目の覚めるような紫木蓮
●鶴来町
鶴来駅近く「菜の花じゅうたん」という新聞記事を見て早速、出かけました。歳時記にしひがし「麦の秋」で紹介した場所とほぼ同じ所です。鶴来高校があって、北鉄石川線の車両の通る、お気に入りの田園地帯です。
季語満載(菜の花畑、麦青む、桜、霾)
石川線終着、鶴来駅前の辛夷満開
花の写真が続いたので、鼻(信玄)の写真追加します。
朱雀記
満開の桜が眩しい3月27日、勉強句会を行いました。
参加者の発表内容は以下の通りです。
・岸風三樓『往来以後』の既視感のある句、独自の視点の句
・神野紗希編・著『女の俳句』より風生、風三樓の句
・山本健吉『現代俳句』の内容を受けて風生の「余技のすごみ」
・富安風生『富士百句』を分類してみた
・「春嶺」創刊時の風生、風三樓
・師系を超えていくということ
主宰の発表は伏姫桜三句を取り上げた上で、師系についてのお話でした。
まさをなる空よりしだれざくらかな 風生
師のさくら吹かるゝために枝垂れたり 風三樓
師へ枝垂れ我へもしだれざくらかな ひさを
「富安風生→岸風三樓→山崎ひさを」という流れはとてもわかりやすい師系。
最近は師系が複雑に、そして希薄になってきている。
それには少子高齢化や核家族などの社会背景も関係している、とお話くださりました。
第二部の席題は「空」「吹」「垂」「桜」「包」でした。
みなさんそれぞれの漢字一字からの発想の飛ばし方があり、面白かったです。
個人的には最近席題だけでなく袋回しにも興味があります。
諸々落ち着いて大々的に吟行ができるようになったときのために、即吟力をアップさせておきたいです!
(家で遊んでいたい息子に頼み込んで見に行った石神井川の桜。春休みは大変ですが楽しいです)
笠原小百合 記
生憎の冷たい雨が降る中、いつもの句会場に皆さん集まりました。十年前の東日本大震災のあとも、冷たく暗い日が続きました。コロナの重苦しい気分とどこか通じるところがある今日この頃です。
選句のあと、水田主宰より自選力についてお話がありました。
「皆さんは、俳句をいくつか作った後、そこから投句する句を選んでいるのでは? それではダメです。物を見て俳句にする前に類句類想はないか、甘い表現にはならないか、どうしたらこの素材から作る俳句が生き延びられるか、じっくり考えたうえで覚悟をもって俳句に仕上げるのです。田賞を受賞した作品は自選力に秀でていましたよ」。
第七回田賞の結果と選評が掲載される四月号は現在校正中。今しばしお待ちください。
葦焼き直前の渡良瀬遊水地です。
清水余人 報
コロナ感染者数とワクチン報道に明け暮れる毎日。自己防衛と免疫力で乗り切らんと日々つとめています。2月の金沢の5句会すべて無事に終えました。
●雛まつり
久々に成巽閣の「雛人形・雛道具展」へ。面長の有職雛、丸顔の次郎左衛門雛それぞれ一対が何点かあり落ち着いた展示。残念ながら撮影禁止。蒔絵、御紋入りの沢山の雛道具の中に「お歯黒箱」もありました。
金沢の雛菓子といえば、金花糖。「鯛」に加え他は何でもあり。豪華なものからミニサイズまであります。
ランク中くらいの金花糖(くらしの博物館)
盆梅展に長浜へ行き、昼食に入った店の雛壇です。ほのぼのとした温かみを感じました。
のっぺいうどん屋の入口に飾られた雛壇
●雪解川
「金沢」の地名発祥伝説(金洗いの沢)、「芋堀藤五郎像」が近くにある「甌穴」を訪ねました。周囲を竹藪に囲まれた小さな谷川が、貝の化石のある地層や甌穴を勢いよく奔っています。
大桑(おんま)層化石産地と甌穴
●春が来た
句材を拾いに兼六園の梅林へ。作務の園丁さんの他は誰もいません。大荒れの日でしたが、雨に咲く梅の花と金縷梅がこんなに綺麗だとは。しかも梅林独り占め。何枚も撮影しました。
紅梅(雨粒の美しさ!)
お気に入りの魚屋にも春が来ました。ちょいといい男で、包丁さばきが綺麗で、会話の楽しい町の魚屋さん。春の魚の鰊、鰆、鱵、白魚、公魚、栄螺、浅蜊、蜆などなど、その日の魚を見るのが楽しみです。
昨日、近所の梅林にふらりと足を運んでみました。
わたしにとって梅は少し特別な花です。
梅と向き合っているときは、己と対峙することができるような気がしています。
本当はひとりでふらりと訪れたかったのですが、夫と息子と一緒に梅見をしました。
目白を見つけてみんなで喜んだり、飛び石を駆け回る息子を窘めたり。
それはそれでまた良いものでした。
毎年恒例の梅まつりは昨年に続き今年も中止だとのこと。
楽しみにしていたので残念ですが、人間の行事の有無は関係なく、梅の花は今年も咲いてくれていました。
最近気分が落ち込んでいましたが、梅見のおかげか少し回復してきました。
家に閉じ籠もることも今の時期は大切とは思いますが、心まで籠もってしまってはいけないなと思いました。
笠原小百合 記
まとひつく暑さ鉛筆グリグリ削る ゆめにこか
(『田』2月号・田集より)
近年の真夏は、猛暑だの酷暑だの言われるが、とにかく暑い。
気温だけでなく湿度も高く、まさに体に「まとひつく暑さ」である。
その不快とも言える暑さをどうにかこうにか句にしようと試行錯誤する。
俳句をやる人間であれば、恐らく誰もが通る道だろう。
私だったら暑い暑いとだらだらしてただ愚痴をこぼしているだけだが、作者は暑さと真っ向勝負することにした。
暑さなんかに負けるものかと「鉛筆グリグリ削る」のである。
「まとひつく暑さ」を振り払うかのように、一心不乱に鉛筆を削っている作者の姿は鬼気迫るものがある。
「577」もしくは「8、11」の破調の調べが非常に効果的だ。
果たして作者は、鉛筆を使いたくて今削っているのだろうか。
私はそうではないような気がしている。
暑さの中、傍に転がっていた鉛筆が目に付き、思いつきで、勢いに任せて削っているのだと想像する。
その行為は暑さとは直接何の関係もないが、暑さへの怨みのようなものすら感じる。
人は限界に達すると何をしだすかわからない。
鉛筆をグリグリ削っている本人も、なんでこんなことをしているのかわからないのではないだろうか。
けれど、暑さを乗り切るため、生きるためにこの行為はきっと必要なことなのだ。
可笑しみと狂気と真理とが共存している、大好きな一句である。
(いつかの紅梅。紅梅は狂気が感じられて好きです。そろそろ梅見に出掛けたいです)
笠原小百合 記
大荒れの節分、頼りない日差の立春を経て、ようやく日脚伸ぶを実感する金沢です。立春を挟み、富山と滋賀は長浜に遊びました。
●富山市ガラス美術館
「ガラスの街とやま」の複合施設「TOYAMAキラリ」の中にガラス美術館があります。設計は隈研吾さん。立山連峰をイメージした外観にびっくりしました。
6階まで吹き抜けの美術館フロア(富山市立図書館と併設)
わたしの選ぶ一品(モダンなガラスアートの数ある中、春への希望を感じて)
●立春大吉
春を探しに犬(信玄)と歩けば、咲き始めた梅、満開の臘梅に出会います。わがデジカメ(腕前?)では、枝枝の混み合う花樹は上手く撮れません。家にある花鉢などで立春の日を飾りました。
カメラ目線の信玄と父の短冊を入れて
●長浜盆梅展
寒明の翌4日、今年は第70回記念の盆梅展へ。樹齢400年あり、切り絵とのコラボレーションあり、盆梅のイメージが広がりました。「盆梅で俳句?」という先入観も破られました。
白梅(老幹の表情が魅力的)
紅梅(切り絵とのコラボレーション)
朱雀記
夏雲やパンの形に寝転びて 井上圭子
(『田』1月号・禾集「パンの形」より)
一読して「おや?」という感覚が心に残る。
その小さな違和感の元を探ろうと、もう一度丁寧に、なぞるように句を読んでみる。
上五「夏雲や」ではっきり切れているので、夏雲がパンの形をしているわけではない。
パンの形をしているのは夏雲ではなく、寝転んでいる人の方なのである。
寝転んでいる人に対して「パンの形」という表現はあまり聞かないが、それこそがこの句の眼目だと言える。
一瞬、夏雲がパンの形をしているのかと思うが、しかしそれは錯覚だと気づく。
そこで納得したような、でもまだ心のどこか不思議に思っている、妙な心地よさが読後に残る。
ふわふわと浮かぶ夏の雲にでもなったような気分だ。
句を読み解いていく過程も非常に楽しい。
色んな可能性を楽しむことのできる一句である。
そして、一歩踏み込む。
ではさて、「パンの形に寝転びて」とはどんな景なのだろう?
パンの形と一言で言っても想像するパンは人それぞれだろう。
ここで、わたしの脳内で会議が始まる。
「フランスパンのようにすらっと長くまっすぐ伸びているのかも」
「でもそれだとやや緊張気味じゃないですか? もっとリラックスした空気を句からは感じます」
「食パンはどうだろう。平べったくて、でーんと広がっている感じ」
「形としては正方形が多いから、人間の比喩にはあまり使わないかなあ」
「あんぱんは? 中にあんこがずっしり入ったやつ」
「それでしたらコッペパンも有力候補ですね。中身を変えられて味も色々楽しめそうですし」
だんだん美味しいパンの話になってきて、芳しい焼きたてのパンの香りまで感じられてくる。
結局答えは出ないまま、この句の作者がどんなパンの形に寝転んだかについての我が脳内会議は、まだまだ続くのであった。
(こういうところで寝転んだらわたしもパンの形になれるかも? 相馬野馬追祭の会場。2019年撮影。)
笠原小百合 記