うみへいく -78ページ目
【あんたのは、ただのパーニヤリ

と言ってくれたひーたん、ありがとう笑い泣き



参りました。ここのところ、第一子妊娠からを振り返って書いているのですが、書くほどに動悸、息切れでしんどくなってきました。思ってたより過酷で、自分でもビックリの過去を思い出す作業。(><;)




でも何がどうしてこうなったのか、整理したいので書き出してます。

封印してたのか、ADHDで気づけなかった鈍子なのか、思ってた以上のdamage(破壊力)に心が痛すぎます。ダウン



hideちゃんの【damage】を聴かなくては(笑)。




パソコンからきちんと整理します。

過去を思い出すのがこんなに辛いとは。




愚痴ってごめんね、ひーたん。

ゆっくり眠りたいです。

おやすみなさい照れ




●長男・学校編●

2003年12月。
息子2が奈良で誕生しました。
予定日より数日経過しての誕生で、大きさも十分ありました。

この子は今度は切迫流産になって、妊娠当初私の出血が止まらず、流れてしまう可能性のが高いと言われていました。
息子1の世話も大変だったので無理も祟ったと思います。
でもこの子も本当に頑張ってくれて、無事に自然分娩にて出産となりました。

この時、私の母はだいぶ年も取っていましたがはるばる神奈川から奈良まで来てくれて、産後発熱して保育器収容となった次男を抱いてくれました。
その時、母が珍しく涙を流したことを私は驚いて見ていましたが、母も年を取ったのだなあと思うと同時にもらい泣きしそうになりましたしょぼん
有難かったですニコニコ

さて。
そんな息子2が退院して2ヶ月経つ頃、またもや転勤話が来ました。

「会社が粉飾決済になったんだよね。ここ社宅だから出ていかないと。次は兵庫なんだけど来るよね」


これはもう出るしかないですからね、私はまた荷物をまとめて子供二人抱えて引っ越しとなりました。

息子1はこの時、卒園まであと2ヶ月でした。

小1で知り合いが誰もいないのは不憫かと思い、その2ヶ月を引っ越し先の新しい幼稚園へ入れたのですが、息子1は馴染めずいつも廊下でポツンと立ち、給食も食べられなくて職員室にいたそうです。
教室では本ばかり見ていたとか。
それを卒園の時に言われて愕然としたのを覚えています。
息子1は登園拒否もしなかったし、幼稚園が嫌だとも言わなかったので、その状態を聞いたときは涙が出ました。良かれと思って入れたけれど、そんな思いをしていたのなら、たった2ヶ月くらい、幼稚園など行かせなかったのに、と。
今でも後悔しています。当時を思い出すと息子1に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

そして春になり、息子1は小学1年となりました。

1年の担任は優しい先生で、息子1が絵を描くことが好きなことを発見してくださり、コンクールに出してくださったりして賞状を頂くことがありました。

私は1年生のときも、念のため担任の先生に、「息子1は発達障害ではないか?」と訊ねましたが、「お母さんが自ら息子さんに障害があるなどと言ってはダメよ」と言われて引き下がりました。


そのうちその先生が産休に入り、臨時の若い女性担任が来ました。

ところが、この先生になってから息子1へのクラスでの苛めが始まりました。

その担任は扱いづらい息子1のことをみんなの前でけなしたりばかにしたりする発言をしたようです(確実な証拠は取れませんでしたが色々と耳に挟んだのでおそらくそうだと思われます)。
成績も、産休前の先生がつけてくれたものとは雲泥の差で、それは散々なものでした。

始まった苛めは2年生になっても続き、暴行を受けたり、物を壊されたり、取られたりしました。
息子1はおとなしく自己主張もしなかったですし、苛められても他人事でヘラヘラしていました。こんなことをされた、という報告は私にするのですが、それが嫌とか腹が立つとか、そういう感情は見せてきませんでした。

高校になった頃にようやく、あの頃は腹が立ってたんだということを言っていましたが(^_^;)。

苛めを受けている本人の感情がいまいちよくわからなかった当時でしたが、暴行や物を壊すなど実害が出ていたので、2年の時に担任に訴えてみました。

すると、「息子1君はおとなしく問題もないのでそんなはずはない、お母さんの思い込みです」と言われてしまい、ムッとした私は、壊された物を持って、ベビーカーに息子2を乗せると小学校に乗り込んで行きましたむかっ

結局、息子1を苛めていたグループが見つかり、担任とその子達と息子1と私での話し合いになりました。

何故こんなことをするのか?と子供たちに尋ねたところ、返ってきた答えは

【息子1くんにならやってもいいと思った】

口を揃えてそう言うのです。
その理由に絶句した私でした。

苛められても反撃しない息子1。
黙って自分の世界にいる息子1。
理解しない担任。
とても悔しかったです。

結局小学生の間は、息子1になら苛めをやってもいい、が定着してしまい、もちろん苛められたり、物を盗まれたり頻繁でしたね。

そして小学校4年生のとき、初めて息子からのSOSがその口をついて出たのです。

【死にたい】

と。

あぁ・・・これはもう限界だ、と思いました。

私は泣きながら息子1と話し合おうとしましたが、息子1には私が泣く意味も困っている意味もまるでわからず、会話がかみ合うことはありませんでした。

ここで私は息子1を病院へ連れて行く決心をしたのです。

総合病院の小児科の中にある発達の専門外来でした。
ここまでの息子1の様子を説明すると、医者は発達障害のテストをしましょうと即座に言いました。息子1は意味もわからず言われるままにテストを受けました。その結果が、

【広汎性発達障害】

この答えにたどり着くまで9年。
9年も私は息子の苦しさをすくい上げてやれなかったのです。


本当に障害があった事実は少なからず私を愕然とさせましたが、同時に「やっぱりそうだったのか」という安堵に似た気持ちも起きました。

障害なら対応の仕方があるはず、と思ったからです。

我が子が障害児である事実は確かに過酷です。
けれど、私にはその事実こそが息子1を救える手段になるはずだという思いが沸き起こりました。
もちろん、自己嫌悪には陥りましたけどね(^_^;)。

自分が切迫早産で薬漬けで産んだせいなんじゃないか、とか、あの時滑り台から転落させてしまったからではないのか、とかインフルエンザで熱性痙攣を起こし、半日意識が戻らなかったからではないのか、とか・・・息子1を健常者で産んでやれなかったのは全て私のせいだ!等々。

でも担当医は言ったのです。
発達障害の原因はまだ特定されていないのです、と。
遺伝的要素は指摘されていますが、それだけではないかもしれません。
まだわからないのです、と。
だから、お母さんが自分のせい、と自己嫌悪するのはやめましょう。
それでは息子1くんのサポートはできませんよ、と。

そうです。
自己嫌悪は常に付きまといます。
今だにです。


遺伝的要因と言われたら、誰がもとなの?とも思いました。
まぁそこから夫のASDがわかってくるわけですが。
(で、夫には自己嫌悪はないですw)

でもどうやら私にもADHDがあるようですから、遺伝的な問題を責めるならやはり自分をも責めずにはいられません。健常者として産んでやれなかった後悔は一生私の心を痛めるのです。

けれど、母はそこに留まり続けているわけにはいきません。

わかったからにはサポート体制を作っていかねばなりません。
本も読みましたし、先生からいろいろなお話も伺いました。
他の病院もいくつも行きました。

息子1が苦手なものを受け入れられるように、生きる上で大切なことも覚えられるように、色分けしたカードなどを手作りしたりしながら、息子1が将来社会に出ても生きていけるように、と私は全力で、今も、向き合っています。

学校の対応は学年によって悪かったり良かったりしていました。
小学校5年と6年はようやく理解を得られ、サポートも受けられ、普通学級で生活を続けることができましたので、小学校にも感謝しています。

しかし、中学には申し送りがされておらず、5月まで何かと苦労しました。
学校にすべてをさらけ出して担当の先生や担任と話し合いを重ねるうちに団結力も出てきてその後はまとまってきました。
本人は中2の頃が反抗期・思春期のピークでゲーム機やら携帯やらを破壊されたりしましたね。

中2の頃は本人へ、発達障害であることの完全な告知も行ったため、余計に荒れたかもしれません。(小6頃から徐々に話はしていました。障害という言葉は使わずに)

タイミングが悪かったかどうかはわかりませんが、大変だった分一気に済んだ感もあり、中2の終わりごろから、急激に仲良くなったヤンキー(笑)の男子生徒との関係を通して、息子1は突然成長を遂げてしまったのでした。

その子と知り合う前までは、友達のうちに泊まることなどもってのほか、家から7分ほどの駅までのバスにも乗れず、友達と繁華街まで行っても精神をすり減らして帰ってくる始末で(もう行きたくないとすら言っていました)、同い年の男の子たちが世界を広げていく中で、縮こまっている息子1がいました。

でもどういったわけか、その子の家には泊りに行くことができ、その子となら繁華街も楽しく行けて、その子を通して他の子たちとも仲良くなり、それぞれ高校は異なりましたが今でも交流しています。
その子は多分本当にヤンキーで(笑)、通りすがりとケンカをして拳を壊したり、ちょっと怖い感じの子たちと仲良くしていた一人です。茶髪でしたし、おそらくタバコも(^_^;)。

けれど、その子本人からも息子1からも聞いたのですが、お互いに毛色が全く違うにも関わらず出逢った瞬間に「こいつとは気が合う」と直感したのだそうです(笑)。
不思議なものですね。

もちろんその子は長男1の性質も理解していて、悪いとこは悪いと言ってくれていましたし、ケンカする時やタバコの時は絶対に息子1を巻き込みませんでした。
息子1もそれは拒否していたのかもしれませんが。

そうやって息子1の世界は、親である私の頑張りなどかすんでしまうくらいにあっさりと友達によって広げられたのでした。

それは私には泣けるほど嬉しい出来事でした。

息子1が普通の子のようにバスや電車に乗って友達と遊びに行く。
息子1が普通の子のように夜通しお友達の家で遊ぶ。
家に連絡も入れずに、友達との遊びに夢中になっているのです。

あの、他人に興味のない息子1が。


私は、その子の存在が有難くて、有難くて、有難くて・・・その子のことを考えると今も涙が出てくるのです。


そうして総合学科の高校受験を乗り越え、高校生になり、美術部に入って今に至る息子1です。
この夏にはAO入試で芸術大学への切符を手にしました。
幼い時から絵を描くことが大好きだった息子1ですが、大学まで行けるとは、本当にありがたいことです。

息子1曰く、
「高校に入ったら僕より変な奴がいっぱいおったわ」
だそうです(笑)。

多分、大学にももっといると、母は思います:*:・( ̄∀ ̄)・:*:。


そして高2の春。
この息子1は父親が起こすある事件によって、さらなる飛躍を見せてくれたのです。


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さて。
そうやって怪我との格闘をしながらも、男の子だから、私が悪いから、という気持ちで息子1を必死で育てていた当時の私です。今思い出してもかなりしんどかったと思います。
気持ちは結構追い詰めらていたかな。

そんな私が、テレビ夫へタオルを投げて(夫には当たっていません)文句を言った時に、例の流血暴力事件が起きているわけです。
夫には息子1がどんな風に手がかかるかわからなかったと思うので、私がどれだけ追い詰められているかも当然わからなかったと思います。
夫なりに育児に参加しているつもりもあったのでしょうし。

私から見ればいつもマイペースで自分の感覚だけでのんびりしているように見えていましたけどね。家事もしないですしね。

結婚して20年の間、夫が料理を作ったのは焼きそばを2回ほどしかありません。
あとは素麺を茹でたくらいかな(笑)。
いつの時代の男の人なのでしょうね(^_^;)。
大学時代は一人暮らしして自炊していたとか聞いたような気がするのですが・・・。

精神的に追い詰められた私は、息子1が2歳の頃、期間限定のパートに出ることにしました。
息子1が大好きだったウルトラマンのフェスティバル会場のスタッフの仕事です。
ウルトラ警備隊や、科特隊の制服を着ましたよ(笑)グッド!
でも、ウルトラ好きは息子1だけじゃなくて、夫もだったので、この制服、一番喜んだのは夫だった気がします。洗濯のため自宅へ持ち帰った時には夫は自分でも着てましたし。
まぁ、その辺は全然どうでもいいんですけどね。

そして、この時初めて息子1を託児所に預けましたが、後追いらしいことはあまりないのですが、おそらく環境の違いにパニくったのか泣いてすごかったですね(^-^;)。2歳で託児所は発達障害がわかっていたら入れてなかったとは思うのですが・・・ほんとに無知って怖いです。

そう言えば、ちょうどこの頃、ウルトラとは関係ないですけど、私が転んで足首の後ろの靭帯を切断してしまったことがあり、松葉杖をついていた時期も有ったのですが、・・・今となってはどうやってその時期を乗り越えたのか全く覚えていません(笑)。

そうそう、こんなこともありました。
ある冬、息子1がインフルに罹患したときです。
私もほぼ同時期に罹患してしまい、母子共倒れになりました。
でも夫はもちろん仕事を少しでも休んでなんて思い付かないので、私は解熱剤を使いまくり息子1の看護をしました。

当時はタミフルなどまだなかった頃です。

やがて息子1は回復しましたが、私はインフルをこじらせて腎盂腎炎を発症してしまいました。入院するように医者から言われましたが、まだ幼い息子1を置いて入院は不可能です。
もちろん夫は助けてくれませんからね(笑)。

そこで、毎日通院して点滴を受ける方法を選び、高熱と背中の痛みで這うように駐車場へ行き、自分で運転して病院へ通いました。

正直に言います。非常に辛かったです!手助けして欲しかったです。

結局、そんな私を見ても夫は自分がなんとか家族を助けるという気持ちも言葉も見せず、「お母ちゃんに頼んだるわ」の一言でケロリとしており、やがて義実家に息子1は連れていって貰うことになりました。それだったら入院してたら良かったんですけどね(・・;)(笑)。

で、2週間は最低でも安静にと言われた治療を私は気合いと根性で10日間で切り上げ、息子1を迎えに行きました。

もちろん義実家には本当に感謝しましたよ。
同じ関西圏とは言えすごく近いというわけでもないし、小さな子供の面倒は大変だと思いますから。それも10日間も。

で。
迎えに行って感動の対面だったはずの息子1はすっかり私を忘れていたのか、顔を見ると恐ろしがって号泣してましたけども(|||´Д`)ガッカリ。

ただまあ、お姑さんから言われるんですよね。【あの子(夫)は仕事が忙しくて可哀想だから、あなたはあの子のために病気とかしないように】とね。

可哀想ってなんだろうあせる

今もずっとそう思っています。

結婚式の準備の時も【あの子は忙しくて可哀想だから私と相談しましょう】と言われていましたしね。

これには私の母がキレて夫を叱りつけたのですが。
もちろん、自分は正しいと思い込んでる夫は母に反論してましたよ。自分が正しいと思うことにかけては奇妙な自信を持っていましたから。不思議です。

とにかく夫は家族に何かあって手が足りない時でも、まずは自分が一家の主としてなんとかしようとはせず、必殺技は「お母ちゃん」でした。先に自分でなんとかできないか考えてから「お母ちゃん、ほんまにごめんやけど」ならまだわかるけれど、はなから「お母ちゃんよろしく」ですので。義母もまたそれをよしとしていましたし。

自分の息子が家族を持って、自立した一人の男性となった時に、私なら「まずは自分でなんとかしろ」と息子に言いますけど。
母親目線で見れば、結婚したら働くことも、家族を支えることも男として「あたりまえ」と思うので自分の息子のことを嫁に「あの子は仕事が大変でかわいそう」とは言いませんね。それはむしろ息子を侮辱していると思うので。結婚したら夫婦で力を合わせて考えなさい、ってことです。

まぁ考え方は人それぞれですけれど。


それでも私なりに、私は自分の実家とあまり仲良くなかったので、義両親を大切にしていたつもりです。義母にはむかったことは一度もなかったですし。


話を息子1に戻します。

息子1は年中さんから幼稚園に入りました。

ところが、彼は集団行動に馴染めませんでした。

2年間、運動会は立ってるだけ、或いはイヤイヤして席から動かない状態で参加しませんでした。
幼稚園の先生からはお迎えに行くたびに、残ってくださいと言われて何かしら報告がありました。

息子1には、何故運動会に参加しないのか問い詰めましたが明瞭な答えはなく、怒る親に恐怖を感じて泣くばかりでした。

そしてようやくその頃から私は、息子1には何かしら障害的な問題があるのでは?と思うようになりました。
しかし、幼稚園の先生に相談するも、そんなことはないでしょう?と言われるばかり。
そう言われるとそれ以上は追求する気にもなれず、やがて第二子を妊娠して、その件はうやむやになりました。

余談ですが、第二子妊娠までは5年間間があいています。表向き2人目不妊と笑ってましたが、私が夜の関係を拒否するようになっていて(何回かに1、2回は義務的に応じていた)、妊娠しなかったのです(暴力やら無関心があって、夫とのそういう行為はもう嫌になっていたのです)。

ただ、息子1に何か違和感があったので、先々の事を考えると兄弟が必要なのではという、母の第六感みたいなものがあり、とにかく行為は嫌だったけれど、息子1のために二人目を妊娠したのでした。

それほど嫌なのに、なぜ離婚しなかったのか・・・。

今思えば私自身にもADHDがあって感覚や判断力が鈍かったというのもあったのかと思います。
それと、離婚問題よりも息子1問題の方が自分には重大だったのですよね。
息子1を育てることが本当に大変だったので。

さらに脳みそお花畑ですが、辛くて、心を病みそうでも、夫の根本は悪くはないと信じていたのもあります。

実際驚くほど単純で純粋な部分があるので。
悪い人にもころっと騙されます。
また、楽しく過ごせるときもありましたし。
そして、私に色々な要求をしてくることはあまりありませんでした。
遊びに行くなとか、関東へ帰るなとか。
自分があまり家にいないので後ろめたかったのか、或いはあまり私に関心がなかったのかわかりませんけど。実際、私も遊びになどほぼ行ってませんでしたけれどね(笑)。

あ、髪を茶髪にするな、は言われてましたっけ。
人は外見が重要だと言っていました。
外見が変わると中身も変わると。
茶髪にしたら中身もちゃらくなると。

なんのこっちゃ、ですけど・・・σ(^_^;)。

そう言えば、ディズニーの「アラジン」を一緒に観たときに、【僕ってアラジンみたいやろ?】とケラケラ笑って言ってたことがあります。

純粋とか人が良い言う意味で言えばそうかもしれませんけど・・・。
夫のそれはちょっと違うと内心思っていたことは言いませんでした(爆)。

育児については、もちろん子供を常に無視したりするわけではなく、遊んでやって?とお願いすれば一緒になって夢中で遊んだり(ただし夫の好きなもので)お風呂に入れたりもしてくれていましたし。
仕事も真面目でお金を散財することもありませんでした。

まぁそんななので、子供にとっては唯一の父親と思うと離婚に踏み切れませんでした。

当時の私が夫に求めていたのは、具体的な家事や育児というよりも、私の心の支えになってくれることでした。

でも自分だけでなんとかなるのも事実でしたので、何処か私のピントもずれていて、これで大丈夫、なんとかなる、なんとかなる、と頑なに思っていた気がします。

夫に期待してはすっぽかされ、また期待してはすっぽかされ、の繰り返しでしたね。
伴侶、という存在がいながら、息子1という存在がいながら、私は常に「孤独」に置かれていたと思います。

怪我の多い息子1、集団行動ができない息子1、その育児の難しさは自分に責任があるのだと思い、同時に、夫がどこか違和感を放っているのに気づきながら、やっぱり私が何か間違っていて夫が正しいのかもしれないと思い込んでいた私。

奈良に引っ越してきてから、私は頻繁に意識が遠のくような変な感覚に襲われるようになりました。
日常生活の中でふっと頭の中がもやもやして意識が持って行かれるような感じです。
円形脱毛症も再発していました(高校生の頃によくなっていたのです)。

意識が遠のく感じは怖かったので、夫に訴えたことがありますが、「へぇ」だけで終わってます、はい。

また閃輝暗点現象も起こすようになっていました。
閃輝暗点については当時の脳外科で「脳貧血」扱いでしたが、のちにそれは閃輝暗点であることがわかり、ストレスなどからも来るので、その現象が起きてもあまり気にしないように、と言われてほっとしたものです。
(閃輝暗点とは、ググって頂けるとよくわかります)

ただ、その意識が持って行かれるような恐怖が、実はそれもストレスからくる心理的な現象であったことがわかるまで、この先10数年を要することになるのでした。


やがて、息子1が年長さんになって、私は第二子を出産するのです。
息子2の登場です。

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●長男・奈良編●

奈良は、観光地としては好きでしたが、住むとなると勝手が違います。
土地勘もないですし、友達も知人もなく、もちろん実家も遠いわけですから、体調不良も相まって私の不安は相当なものでした。

夫は奈良では単身赴任ではなく、自宅から通えるとのことでした。
しかし、引っ越しの段ボールに囲まれた中で夫の温かい手が差し伸べられることはありませんでしたガーンダウン

積み上げられた段ボールの壁を見ながら、生後2ヶ月の我が子を抱いて、お箸ひとつ何処にあるのかわからない状態に途方に暮れてた日を今でも思い出します。まぁもうある意味笑い話ですけど。

夫が引っ越し荷物の解体を手伝ってくれなかったのは「仕事だから」の理由だけです。
私は赤ちゃんの世話をしながら少しずつ荷解きをするしかありませんでした。

息子1はよく泣きました。
ベビーカーで外に買い物に行くときも、いつもサイレンを鳴らしてるかのように、激しく泣いていました。
夜泣きは1年間続き、夜泣きと入れ替わりで夕泣きが始まりました。

一度にミルクを飲む量が少ないので、授乳と授乳の間は短く、私は心底寝不足続きでした。

夕飯は片足で息子が寝ている揺り籠を揺らしながら作って、作り終わると薄暗がりの中、誰もいなくなった公園で息子1を抱き、歌を歌いながらブランコに座って過ごしました。毎日、毎日です。

そんな様子を夫に話したりもしましたが、面白そうに「そうなんだ」という返事が来るだけです。
夫は帰宅するととにかくテレビでした。テレビでないときはパソコンです。

そうなるともちろん、夫の全ての動作が止まるのでなにもしません。
あまりにテレビ漬けなので文句を言ったら、【じゃあ僕はいつ見たらえーねん!】とキレて吐き捨てられました。
まるで私が日中テレビを見ているかのような(^-^;)。

当然ですがテレビなど、ほぼ見てる余裕はありませんでしたよ。生後2ケ月の赤ちゃんを持つお母さんたちに訊ねてみたらわかると思います(笑)。
そんな余裕ないですよね。あるならむしろテレビより寝ておきたいです。

とにかく無我夢中で育児と家事をしていたのですから、そのキレ方はショックでした。

他にも、妊娠中でさえ、大きなお腹をさすって思わずため息を吐く姿を、【僕に当て付けてるようでめっちゃ不愉快】と、友人にメールしているのを見てしまいました。
パソコンメールだったので、送信後、画面がそのままだったんですよね(笑)。迂闊な人です。

夫は基本的に自分を疑わないのです。
自分が間違っているかもしれない、という疑惑は抱きません。
そして仕事をすることだけで彼のキャパはいっぱいっぱいだったのでしょうね。
もちろん、「家族のために働いている」という思いは偽物ではなかったでしょうし。
それは私もわかっていたので、真面目に働いてお金を入れてもらっていることについては素直に感謝していました。
ですから、子供たちには常に「お父さんのおかげでご飯食べられるし、玩具も買えるんだよ」と教えていました。ここ2年くらい前までは。

私は馴れない育児にとにかく必死でした。そのうち同じ年の赤ちゃんを持つママさんとお友だちになり、夫の自分勝手にもあまり関心が向かなくなり、自分なりに育児をしていたと思います。

やがて息子は首が座り、ハイハイをし、1歳を過ぎた頃に立って歩き始めました。

さぁ、歩き始めたここからが本番です。
息子1の本領発揮ですにひひ

歩き始めてみると、息子1が非常によく動き回る子供であることが見えてきました。

私がわずかに目を離した隙にあっという間にいなくなるのです。
ほんのちょっとの隙に私のもとを抜け出して階段から転げ落ちて顔面血まみれになったり、目の近くを階段で切ったり、頭を打ったり、滑り台の階段から落ちた時は脳震盪を起こして救急車にも乗りました。

この脳震盪事件は、私の人生初の救急車体験となりました。

息子1は転落しても泣かず、起きることもせず、微動だにしませんでした。私は慌てて駆け寄りましたが、意識はすでになく、その体温が見る間に下がり、白目を剥いて痙攣し、口から涎を垂らしていました。
けれど医療や救命措置の知識がなかった私は大パニックに陥って息子1を抱きかかえたまま泣き叫ぶしかできませんでした。
息子1は死んでしまうのではないか、と思い、自分の髪の毛がすべて真っ白になるんじゃないかと言うくらい胸が張り裂けそうにがくがくしていました。

異変に気付いた公園の管理人さんが急いで救急車を要請してくれました。
実際は5分程と思いますが、救急車が来るまでが凄く長く感じられました。
やがてそのサイレンが聞こえてくる頃、息子1の体温が戻ってきて、救急隊が到着した時には泣き始めていました。

救急隊員は「これなら大丈夫」だよ、と優しく言ってくださいましたが、私は無知すぎてただただ顔面蒼白、パニックで何も考えられない状態に陥っていました。

息子1と言う子はまず人見知りをしません。
誰にでもついていきます。
私(母)がいなくても全然気にしません。
絶えずどこかへと走っていってしまうので、私はいつもそれを追いかけたり、名前を叫んだりしていました。
スーパーに入ると、入った途端に何処かへ行ってしまいます。
呼んでも戻りません。
つないだ手など振りほどいて走って行ってしまいます。
スーパーのお菓子コーナーで勝手にお菓子を食べていたこともあります。(もちろんレジで平謝りして支払しましたけれど)

そんな子なので怪我も本当に多かったのです。

救急搬送された先の病院で脳の検査をした息子1は、何事もなく異常もなく元気で戻ってきました。
むしろ医者からは「お母さんの顔色、緑色やで」と半ば笑って言われて心配されました。
私は全身の毛が抜けたような虚脱感でいっぱいになっていましたから。
緑色っていうのはなんかすごい表現ですけど(笑)。


以後私はその公園には2度と近づくことさえ出来ず、救急車のサイレンもしばらくはダメでした。公園の滑り台には「お子様から目を離されませんように」という貼り紙が貼り出されたとか。お恥ずかしいことです。

それ以降、私は人ごみでは息子1にハーネスを付けるようになりました。
見る人によっては賛否両論だったようですけど、そんなこと言ってられないと思いましたので。

この時点で「多動」を疑ってもよかっただろうと、今なら思うのですが、当時の私には本当に知識がなく、初めての子供で男の子ときたらこんなものなのかな?くらいにしか思わなかったのです。

ちなみに、怪我が多いことは両実家から「母親としてどうなんだ?」というお叱りは受けていました(^_^;)。
ほんと、すみません( ̄* ̄ )。

全部私が悪いんだろう、と思っていた日々でした。

ちなみに、夫ですが、頭に怪我をした時はもちろん事情を話したら仕事の途中で抜けて病院へ来てくれましたよ。
ただ救急車の時は来ませんでしたね。

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●広汎性発達障害の長男(息子1)・17歳●

本日よりしばらく、息子1についてお話してみたいと思います。
自分自身の頭の中の整理のためにも。

息子1を育てるにあたって、息子1がどうであり、私に何があって、夫との関係の何がしんどかったのかを振り返ってみようと思います。



息子1は現在高校3年生です。
有り難いことに普通学級でここまで来ました。
言葉にできない頑張りを、本人がこなしてきてくれた結果と思っています。



さて、まずは私の妊娠と出産から。

結婚してすぐ、私は不定期排卵と子宮筋腫の診断を受け、妊娠困難と言われました。
しかもこれから子供を、と考えてたところなのに、最初に受診した婦人科では「子宮全摘だよ、こんなの」と言い捨てられました(-"-;A。
そこの婦人科は早々にやめて次のところへ行きましたけど。

私は関東(神奈川)から関西(大阪)に嫁いできて、ほぼ単身赴任で帰宅しない夫相手に寂しい日々だったので、子供が欲しいと思って検査したのです。

結局いくつか婦人科を巡って、排卵誘発剤を使用し、なんとか妊娠に漕ぎ着けました。
しかし、29週の時に、育ってしまった筋腫のせいか激しい腹痛を起こして病院へ行ったところ、子宮口が開いてしまっていて、緊急入院となったのでした。

たまたま実家にいたので、そのまま関東に滞在となり、夫は関西で仕事、という形になりました。

私は当時はまだ両親との関係もあまりよくなかったですし、両親そのものが不仲でもあったので、実家は居心地が悪かったのですが、緊急入院では仕方ないことでした。
入院中は、週に1度両親が顔を出してくれましたが、洗濯物を取りに来るだけで、5分もしたら帰ってしまいます(^_^;)。
同室の方から、「冷たいのね、お姑さんなの?」と訊かれたくらいです(笑)。
他の人は地元ですから、ほぼ毎日旦那様やお子様が夕方から夜になると来られて、仲良さげに談笑されていました。それはとてもとても微笑ましく、そして寂しい光景だったことを覚えています。

私は24時間点滴に繋がれてベッドの上。
トイレと洗顔以外は動くの禁止で、お風呂も禁止。
出産までの2ヶ月間その生活が続きました(つまり、2ヶ月間お風呂に入れなかったんですよー、辛かったですねにひひあせる。)


初めての子供ですし、入院も妊娠生活も出産も不安しかなく、なんでこんな思いをしなくてはならないんだろう?とずっと思っていました(^-^;)。子供が欲しいと簡単に思ったことを少し後悔していましたね。
妊娠って簡単じゃないんだなぁ、と。
予期せぬ監禁生活ですから(笑)。毎日ベッド上の天井と窓の外しか見ない生活は、それはもう心が腐ります。

救いだったのは同じように切迫早産で入院しているメンバーばかりだったことです。
病院の配慮だと思いますが。
2週間ほどしたころから馴れてきて、さながら女子会のようなノリになっていました。
皆怖かったと思うのですが、そうやって笑っていた方が元気が出ることがわかっていたと思います。
あとは定期検診も楽しみでした。
これは週に1度診てもらえるので(通常の妊娠だと検診と検診の間はもっと離れています)、赤ちゃんの状態を目で見れることはすごく励みになりました。

お風呂に入っていないオマタを広げるのは過酷でしたけどね(;´Д`)ノ。先生もお気の毒。
(一応トイレのビデで洗ってから受診してましたけど・・・あせる


ところで。
実は妊娠した時に、無事に出産までたどり着けず、早産で摘出したら母子ともに命の保証は出来かねます、という宣告も受けていまして、なかなか精神的にも過酷な日々だったのです。

この宣告を受けた時の私がどんな気持ちだったかと言うと、正直ぼんやりさんだったと思います。
いえ、ショックはショックでした。
さて、どうしたものか、と思ったし、結構一人で泣いたような記憶があります。
もう遠い記憶となってしまいましたが。

36週までなんとか!
というのが、医者も私自身にもありました。
が、29週(およそ1000g強)で切迫状態になってしまったので、あぁやっぱりダメなのか、という気持ちもありました。

で、その宣告を受けて、夫にそれを話した時、正直なところ私は、夫は私を労わってくれるのではないか、という期待がありました。こんな状況になってしまったのだから、さすがに夫もショックを受けて悲しんで、でも頑張ろうとかなんとかあるかな?と。

だって我が子のことだし、愛する妻のこと・・・のはずだから(笑)。

けれど、夫から返ってきた言葉は「なんとかなるでしょ。どっちも助かるんじゃない?」
というケロリとしたものでした。
私を励ますためとかそんなものではなくて、本当に素でけろっとしてるわけです。
(励ましてるつもりだったのかなぁ・・・。いやいやいや、伝わらない)
私の眉間に青筋がぴくっとしました。

私は夫のその反応にヒクついて意地を張って、「何かあったら子供の命を優先して私は死なせてくれて構わないから」、と伝えましたが、本当は夫から「お前を優先する」と言われたかったのです。

もちろん、赤ちゃん優先で構わないし当たり前なのですけど、まだ母親になる実感もないし、一応言葉上では夫から「お前優先」くらい言って欲しかったのですよね。
あの時の夫のケロリンとした顔、忘れられませんプンプン

そして、2ケ月の監禁生活の末(笑)。

何度かの早い陣痛を薬で抑制し続けて36週まで持ちこたえた我が子は、帝王切開になる可能性のため、医者の都合に合わせて出産日が決められ、バルーンを入れて、陣痛促進剤を入れて、もう手術室へ運ぶぞ、と言ってた矢先に唐突に出てきて、無事普通分娩での誕生となりました。

結果論としては夫が言うように「どっちも助かったし、なんとかなった」わけですが、2ケ月監禁となって、点滴につながれた私としては、そんな簡単なものではなかったんですけど、それを恨んでいる暇がないほど、産後の生活は多忙でした。


少し小さかった息子1は低体温で生まれ、体温の上昇が見られなかったことから、体をパンパン叩かれて号泣させられ、泣くことで体温を上げますと言われました。

新生児室で息子1を見たときは毛糸にくるまれて、帽子を被って寝かされていました。
この時ようやく、母子ともに元気で出産出来たことに安堵しました。

しかし、私の子宮は戻りが悪く、筋腫の悪影響を受けていたため、そのまま更に2ヶ月間関東に滞在するように指示されて、実家に多大な迷惑をかけてしまいました。
無我夢中の新生児子育て期間でしたね。
さすがに孫は可愛いのか、両親ともに赤ちゃんが生まれてからはやけに親切に孫の面倒を見ることを手伝ってくれました。
男児が欲しかった父はそれは喜んで、しょちゅう抱っこしていたと記憶しています。
当時は必死すぎて余裕がなったけれど、これは本当に両親に感謝しています。


そうやって2ケ月が経過する頃、夫が来て告げました。

「大阪から奈良へ転勤だから来るよね?」と。

初めての子供が生後2ヶ月、見知らぬ土地へいきなり引っ越し。
体調も決して良くない中で、私は・・・ただただ言われた通り奈良へと向かうことになったのでした。
そこから先に何があるかも知らずに。

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