そうやって怪我との格闘をしながらも、男の子だから、私が悪いから、という気持ちで息子1を必死で育てていた当時の私です。今思い出してもかなりしんどかったと思います。
気持ちは結構追い詰めらていたかな。
そんな私が、テレビ夫へタオルを投げて(夫には当たっていません)文句を言った時に、例の流血暴力事件が起きているわけです。
夫には息子1がどんな風に手がかかるかわからなかったと思うので、私がどれだけ追い詰められているかも当然わからなかったと思います。
夫なりに育児に参加しているつもりもあったのでしょうし。
私から見ればいつもマイペースで自分の感覚だけでのんびりしているように見えていましたけどね。家事もしないですしね。
結婚して20年の間、夫が料理を作ったのは焼きそばを2回ほどしかありません。
あとは素麺を茹でたくらいかな(笑)。
いつの時代の男の人なのでしょうね(^_^;)。
大学時代は一人暮らしして自炊していたとか聞いたような気がするのですが・・・。
精神的に追い詰められた私は、息子1が2歳の頃、期間限定のパートに出ることにしました。
息子1が大好きだったウルトラマンのフェスティバル会場のスタッフの仕事です。
ウルトラ警備隊や、科特隊の制服を着ましたよ(笑)
。でも、ウルトラ好きは息子1だけじゃなくて、夫もだったので、この制服、一番喜んだのは夫だった気がします。洗濯のため自宅へ持ち帰った時には夫は自分でも着てましたし。
まぁ、その辺は全然どうでもいいんですけどね。
そして、この時初めて息子1を託児所に預けましたが、後追いらしいことはあまりないのですが、おそらく環境の違いにパニくったのか泣いてすごかったですね(^-^;)。2歳で託児所は発達障害がわかっていたら入れてなかったとは思うのですが・・・ほんとに無知って怖いです。
そう言えば、ちょうどこの頃、ウルトラとは関係ないですけど、私が転んで足首の後ろの靭帯を切断してしまったことがあり、松葉杖をついていた時期も有ったのですが、・・・今となってはどうやってその時期を乗り越えたのか全く覚えていません(笑)。
そうそう、こんなこともありました。
ある冬、息子1がインフルに罹患したときです。
私もほぼ同時期に罹患してしまい、母子共倒れになりました。
でも夫はもちろん仕事を少しでも休んでなんて思い付かないので、私は解熱剤を使いまくり息子1の看護をしました。
当時はタミフルなどまだなかった頃です。
やがて息子1は回復しましたが、私はインフルをこじらせて腎盂腎炎を発症してしまいました。入院するように医者から言われましたが、まだ幼い息子1を置いて入院は不可能です。
もちろん夫は助けてくれませんからね(笑)。
そこで、毎日通院して点滴を受ける方法を選び、高熱と背中の痛みで這うように駐車場へ行き、自分で運転して病院へ通いました。
正直に言います。非常に辛かったです!手助けして欲しかったです。
結局、そんな私を見ても夫は自分がなんとか家族を助けるという気持ちも言葉も見せず、「お母ちゃんに頼んだるわ」の一言でケロリとしており、やがて義実家に息子1は連れていって貰うことになりました。それだったら入院してたら良かったんですけどね(・・;)(笑)。
で、2週間は最低でも安静にと言われた治療を私は気合いと根性で10日間で切り上げ、息子1を迎えに行きました。
もちろん義実家には本当に感謝しましたよ。
同じ関西圏とは言えすごく近いというわけでもないし、小さな子供の面倒は大変だと思いますから。それも10日間も。
で。
迎えに行って感動の対面だったはずの息子1はすっかり私を忘れていたのか、顔を見ると恐ろしがって号泣してましたけども(|||´Д`)ガッカリ。
ただまあ、お姑さんから言われるんですよね。【あの子(夫)は仕事が忙しくて可哀想だから、あなたはあの子のために病気とかしないように】とね。
可哀想ってなんだろう
。今もずっとそう思っています。
結婚式の準備の時も【あの子は忙しくて可哀想だから私と相談しましょう】と言われていましたしね。
これには私の母がキレて夫を叱りつけたのですが。
もちろん、自分は正しいと思い込んでる夫は母に反論してましたよ。自分が正しいと思うことにかけては奇妙な自信を持っていましたから。不思議です。
とにかく夫は家族に何かあって手が足りない時でも、まずは自分が一家の主としてなんとかしようとはせず、必殺技は「お母ちゃん」でした。先に自分でなんとかできないか考えてから「お母ちゃん、ほんまにごめんやけど」ならまだわかるけれど、はなから「お母ちゃんよろしく」ですので。義母もまたそれをよしとしていましたし。
自分の息子が家族を持って、自立した一人の男性となった時に、私なら「まずは自分でなんとかしろ」と息子に言いますけど。
母親目線で見れば、結婚したら働くことも、家族を支えることも男として「あたりまえ」と思うので自分の息子のことを嫁に「あの子は仕事が大変でかわいそう」とは言いませんね。それはむしろ息子を侮辱していると思うので。結婚したら夫婦で力を合わせて考えなさい、ってことです。
まぁ考え方は人それぞれですけれど。
それでも私なりに、私は自分の実家とあまり仲良くなかったので、義両親を大切にしていたつもりです。義母にはむかったことは一度もなかったですし。
話を息子1に戻します。
息子1は年中さんから幼稚園に入りました。
ところが、彼は集団行動に馴染めませんでした。
2年間、運動会は立ってるだけ、或いはイヤイヤして席から動かない状態で参加しませんでした。
幼稚園の先生からはお迎えに行くたびに、残ってくださいと言われて何かしら報告がありました。
息子1には、何故運動会に参加しないのか問い詰めましたが明瞭な答えはなく、怒る親に恐怖を感じて泣くばかりでした。
そしてようやくその頃から私は、息子1には何かしら障害的な問題があるのでは?と思うようになりました。
しかし、幼稚園の先生に相談するも、そんなことはないでしょう?と言われるばかり。
そう言われるとそれ以上は追求する気にもなれず、やがて第二子を妊娠して、その件はうやむやになりました。
余談ですが、第二子妊娠までは5年間間があいています。表向き2人目不妊と笑ってましたが、私が夜の関係を拒否するようになっていて(何回かに1、2回は義務的に応じていた)、妊娠しなかったのです(暴力やら無関心があって、夫とのそういう行為はもう嫌になっていたのです)。
ただ、息子1に何か違和感があったので、先々の事を考えると兄弟が必要なのではという、母の第六感みたいなものがあり、とにかく行為は嫌だったけれど、息子1のために二人目を妊娠したのでした。
それほど嫌なのに、なぜ離婚しなかったのか・・・。
今思えば私自身にもADHDがあって感覚や判断力が鈍かったというのもあったのかと思います。
それと、離婚問題よりも息子1問題の方が自分には重大だったのですよね。
息子1を育てることが本当に大変だったので。
さらに脳みそお花畑ですが、辛くて、心を病みそうでも、夫の根本は悪くはないと信じていたのもあります。
実際驚くほど単純で純粋な部分があるので。
悪い人にもころっと騙されます。
また、楽しく過ごせるときもありましたし。
そして、私に色々な要求をしてくることはあまりありませんでした。
遊びに行くなとか、関東へ帰るなとか。
自分があまり家にいないので後ろめたかったのか、或いはあまり私に関心がなかったのかわかりませんけど。実際、私も遊びになどほぼ行ってませんでしたけれどね(笑)。
あ、髪を茶髪にするな、は言われてましたっけ。
人は外見が重要だと言っていました。
外見が変わると中身も変わると。
茶髪にしたら中身もちゃらくなると。
なんのこっちゃ、ですけど・・・σ(^_^;)。
そう言えば、ディズニーの「アラジン」を一緒に観たときに、【僕ってアラジンみたいやろ?】とケラケラ笑って言ってたことがあります。
純粋とか人が良い言う意味で言えばそうかもしれませんけど・・・。
夫のそれはちょっと違うと内心思っていたことは言いませんでした(爆)。
育児については、もちろん子供を常に無視したりするわけではなく、遊んでやって?とお願いすれば一緒になって夢中で遊んだり(ただし夫の好きなもので)お風呂に入れたりもしてくれていましたし。
仕事も真面目でお金を散財することもありませんでした。
まぁそんななので、子供にとっては唯一の父親と思うと離婚に踏み切れませんでした。
当時の私が夫に求めていたのは、具体的な家事や育児というよりも、私の心の支えになってくれることでした。
でも自分だけでなんとかなるのも事実でしたので、何処か私のピントもずれていて、これで大丈夫、なんとかなる、なんとかなる、と頑なに思っていた気がします。
夫に期待してはすっぽかされ、また期待してはすっぽかされ、の繰り返しでしたね。
伴侶、という存在がいながら、息子1という存在がいながら、私は常に「孤独」に置かれていたと思います。
怪我の多い息子1、集団行動ができない息子1、その育児の難しさは自分に責任があるのだと思い、同時に、夫がどこか違和感を放っているのに気づきながら、やっぱり私が何か間違っていて夫が正しいのかもしれないと思い込んでいた私。
奈良に引っ越してきてから、私は頻繁に意識が遠のくような変な感覚に襲われるようになりました。
日常生活の中でふっと頭の中がもやもやして意識が持って行かれるような感じです。
円形脱毛症も再発していました(高校生の頃によくなっていたのです)。
意識が遠のく感じは怖かったので、夫に訴えたことがありますが、「へぇ」だけで終わってます、はい。
また閃輝暗点現象も起こすようになっていました。
閃輝暗点については当時の脳外科で「脳貧血」扱いでしたが、のちにそれは閃輝暗点であることがわかり、ストレスなどからも来るので、その現象が起きてもあまり気にしないように、と言われてほっとしたものです。
(閃輝暗点とは、ググって頂けるとよくわかります)
ただ、その意識が持って行かれるような恐怖が、実はそれもストレスからくる心理的な現象であったことがわかるまで、この先10数年を要することになるのでした。
やがて、息子1が年長さんになって、私は第二子を出産するのです。
息子2の登場です。
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