ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論 感想 | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

 

 

どこで本書を知ったのかは忘れてしまったが、「なぜ、社会のためになる職業ほど給与が低いのか」という帯の文を見た瞬間に購入を決意。本日ついに読破した。

 

本書における「ブルシット・ジョブ」は、以下のように定義されている。

最終的な実用的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。

この一文だけではとてもその内容の全てを表しているとは言えないが、褒められるような仕事ではないというニュアンスは伝わると思う。また、ブルシット(bullshit)のbullは、非常に下品でネガティブな意味の言葉として使われるが、「人を騙す」といった要素も持っているとのこと。bullshitの語源がbullとのことなので、その傾向はより強調されているのかもしれない。

 

「クソどうでもいい仕事の理論」とあるが、本書の中で「ブルシット・ジョブ」と「シット・ジョブ」は区別されている。

本書を読んだ印象として、ブルシット・ジョブは、主に大卒のエリートが就く高給取りな仕事である。ただ、その仕事の内容があまりにも酷いため、上記の定義のような状態に陥る。仕事が酷いというのを分かりやすい例で示すと、職場にいてもいなくても変わらないし、いるならいるで忙しいふりをする必要がある状態。ただ高い給与が欲しいだけならそれも我慢できるだろうが、本書の中に出てくる人物はそのほとんどが「こんなクソみたいなことはやっていられない!」と憤るくらいに向上心がある(というか、そうでないと「ブルシット・ジョブにはならないか」)。

対して「シット・ジョブ」は、業務に対して給与が割に合わないといった月並みなものである。

 

本書には、独特の読み辛さがある。というのも、基本的に北ヨーロッパが舞台らしく、随所に労働観や人生観の違いが見られる。そして、それ方が当たり前となっていて説明も基本ないので、理解するのに時間の掛かる部分が多かった。加えて、わたし自身エリートとは程遠い身分であり、本書の登場人物の行動に対し「いや、そうはならんやろ」と思う部分も多々あった。曖昧な内容を大量に扱っているため、わたし自身おそらく本書の内容については、半分程度の理解に止まっているように感じる。

 

「ブルシット・ジョブ」は、わたしの経験で言えば、最初の工場で現場から事務所に移った際に、その片鱗を味わった気がする。元々は一分一秒を金に換えるような仕事をしていたのに対し、事務所での業務は、その気になれば何もすることがなかった。毎週1回程度、製品不具合についての報告会議があったが、そんなのぶっちゃけ「メールの添付資料を見て下さい」で済む話。Excelシート2枚程度とメール本文で終わる内容である。それを会議室を1時間借りて参加者の日程調整をして報告用の資料を作って、という無駄な作業である。ただ、この本に書かれていたように、仮にその仕事がなければわたしの仕事もほとんどなくなってしまう。その上、下手するとその報告会自体があってもなくても変わらないどころか、無駄な会議に掛かっていたリソースがなくなってむしろ生産性は向上したかもしれない。今思えばそう感じる。現場で一分一秒の仕事をしていたがために、その罪悪感もひとしおだったのかもしれない。構図で見れば、現場と事務所は奴隷と貴族に等しいとすら思う。「幸福論」(アラン著)の中に、「暇つぶしを考えなくて済む分、奴隷の方が貴族より幸福である」みたいな論があったが、無駄な仕事をしている自覚のある貴族にとってはたしかにその通りかもしれない。

 

この場合、海外なら事務所の職員を解雇するという動きになりそうだが、どうもそうとは限らないらしい。一番分かりやすい例としては、ブルシット・ジョブ主要5類型の1つ「取り巻き(flunkies)」が分かりやすい。要するに「人件費は減らしたいが、権力者としての威厳を保つため、組織図上の部下は必要」ということである。わたしは権力者サイドに立ったことはないので実感はないが、スタンフォード監獄実験の看守役の例を見れば、権力者サイドの快感は人件費よりも貴重だろう。

 

「シット・ジョブ」は、わたしの経験で言えば保育士である。そして、本書の中にも福祉職の「シット・ジョブ」について言及されているが、「役者あとがき」のP419「(f)ブルシット・エコノミーとケア労働」にとても分かりやすく書いてある。「シット・ジョブ」というのは、近年で言えば(すでに死語になりつつある気がするが)「エッセンシャルワーカー」のことを示している。コロナ禍では命がけで現場仕事をする英雄のように扱われていたにも関わらず、その待遇が良くなることはなかった。なぜそうなるのかと言うと、エッセンシャルワーカーは「エッセンシャル(必要不可欠)」であるが故に、ストライキを初めとする待遇向上権を実質的に奪われてしまっている。現代日本人の感覚だと会社側の力が強過ぎて(あと社員の団結力が弱過ぎて)ストライキなどとても起こせないから正直ピンと来ないが、海外でストライキは当然の権利である。しかし、そんな海外であっても、エッセンシャルワーカーのストライキは困難なのである。仮に保育士がストライキを実行した場合、預け先がないから仕方なく自宅に置いていった子どもがマンションのベランダから落ちてしまったらその非難はどこに行くだろうか?おそらく、通園バスの中で死亡したかのように、保育園や保育士に非難が来るだろう。加えて、良くも悪くも地域に密着した仕事であるから、その非難はかなり具体的な力を伴うのではないだろうか?

 

ただ、世の中にはやり甲斐のありそうな仕事でキラキラ輝きながら高水準の生活を送っている人もいる。こういった人々は本書では「リベラル・エリート」と呼ばれており、簡単に言えば多くの場合で「親ガチャ」の成功者である。好きなことをしても経済的に困窮しないような地盤が元々あるため、少なくとも低賃金タイプの「シット・ジョブ」は免除されている。しかし、何の後ろ盾もない人にこれを真似ることはできない。これを真似るためには、まずお金を貯めるというステップが必要になる。つまり、人のためになる仕事をお金で買っていると言える。保育士で例えるなら、保育士資格を買うお金を貯めてから、ようやく保育士という仕事に「シット・ジョブ」として就けるということになる。わたしはある意味それを体現したわけだが、見事に潰されてしまったわけだ。そもそも、保育士の基本技能としてピアノ(あとできれば書道)があるが、ピアノを習えるくらい(加えて、自宅にピアノがあるくらい?)に親の経済力があることが半ば前提である。加えて、保育士資格の取得には高校からの進学が必須になる。とすれば、貧乏学生が保育士という夢を持つのは、「リベラル・エリート」と正面から戦うようなリスクを孕んでいるのではないだろうか?この辺りの現実をしっかりと伝えてくれる存在に、今のところわたしは会ったことがない。

 

この本の最後は、「ベーシック・インカム」の有用性で締められている。

コロナ禍のパンデミックにおいて、80%くらい低下してもおかしくなかった世界経済は、実際には30%程度しか低下しなかった。つまり、コロナに感染して自宅に引き籠もる人が多かったとしても、経済への影響は想像以上に少ないということを示している。なら、最低限度の生活保障をして、人々が自分のやりたい仕事に打ち込めるようにした方が、まだ非ブルシットではないか?ということだ。

夢を追うギタリストがコンビニのレジ打ちから解放されることで、ベーシック・インカムよりももう少しお小遣いの欲しいやる気のある人がコンビニのレジ打ちになれるということだろう。ギタリストの方は、夢破れたとしても、借金返済のために工場で昼夜問わない労働に勤しむリスクが減るし、その気になればギターを弾いて生活はできるだろう。

ベーシック・インカムの話題になると「財源は?」みたいな話になるが、本書ではそういったコメントを避けるため、政策提言という形は取っていない。学者は自分の専門分野に精通していれば良いということだろう。

 

なかなか高額の本だったが、わたしが普段からぼんやりと考えていたことが明快に書かれている部分も多くてとても参考になった。本は答えを探す物ではなくて、自分の中にある考えを形にする物であることをよく実感出来たと思う。ただ、この本が取り扱っている内容は、わたしの現実に対して非常に先進的なものであり、ここに追いつくには20年くらい掛かるのではないだろうか?とも思う。技術の進歩は人の生活を劇的な速度で変えるが、物事の捉え方や価値観はそうは行かない。日本は、ようやくバブルの亡霊から目を覚まし(つつ、やっぱり後ろ髪を引かれまくっ)たところである。この本は、間接的に経済という概念の歪さも伝えていると思う。人にとって、本当に大切なものは何か?まあ、わたしに言わせれば信頼できる家族・友人・隣人であるが、今のところ保育観と精神論以外でそれを伝えることはできないし、そもそもわたしだってそんな恵まれたものはもっていない。理想を目指して進み続けるのが人生というものなのだろうか?