人の命の重さ 価値のオーバーフロー仮説 | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

例の事件に実刑判決が下った。

 

 

これに対する考えは、以前投稿していたし、今もその考えは変わっていない。ただ、保育の世界から距離を置いたことで、千奈ちゃんのことを思うと被告2人に対する怒りのような感情が湧いていることを否定できない。業界側にいた人間なので、当時は「明日は我が身」と思っていたが、そこから離れたことですっかり他人事になってしまったようだ。人間の愚かさを体現しているし、業界人でなければ石を投げまくる人がいることもよく分かる。我が事ながらあきれるばかりだ。

 

※記事中では元担任のことを「保育士」と呼んでいるが、厳密には「保育教諭」である。

 

 

 

人の命というと、最近はこんな事件があった。

この事件では、人1人の命が1人250万程度の報酬でやりとりされた。

 

また、逸失利益という考え方があり、それについてわたしが思い出した事件は以下のものである。

この事件では、被害者遺族が逸失利益や慰謝料など計約6100万円を求めたものの、障害を理由に健常者比の8割へ減額されている。

しかし、逆を言えば健常者でも1億円を超えることはない。別のサイトで30歳主婦のケースを見たところ、そちらは約5000万円と算出されていた。

 

 

 

人の命の重さというのはすぐに倫理的な問題へ発展するデリケートな問題であり、賢い人間であれば(当事者でなければ)近づくことはないだろう。

上記にある2種類のお金に関する事件は、当たり前ではあるが、そこで示された金額が人の命の重さと等価ではない。そもそも、人の命の価値を定める尺度は存在しえない。仮に自分の家族とガザ地区の罪のない人々の命が等価なら、わたしたちの人生は喪に服すだけで終わってしまう。現実には、ガザ地区の惨状をニュースで見ながら食事を楽しんでいる。そういった意味でも、人の命は等価ではない。場合によっては、猫の命がホームレスの命を上回ることだってあるし、それらだってそもそも尺度がない。

 

以上のようなことを考えている内に、わたしの中にある考えが浮かんだ。それが「価値のオーバーフロー仮説」である。

 

論語の中に「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉がある。何事もほどほどがちょうど良いというような意味で、中庸を象徴するような言葉である。わたしの考える「価値のオーバーフロー仮説」というのは、価値が無限のものが多過ぎると、たとえ無限であってもその価値が暴落するというものである。

 

価値の暴落というと、「経済ってそういうことだったのか会議」の中に、「牛乳ビンのフタ」のエピソードがある。これは、数が一定数しか存在しなかった牛乳ビンのフタが、その希少性から収集ブームを起こしたのだが、突然大量の牛乳ビンのフタが登場したことで、価値のあったものがただのゴミに戻ったというエピソードである。つまり、わたしたちの感じている「価値」というのは、得てして思い込みである。

 

では、人の命の重さにはどれほどの「価値」があるのか?

わたしがこれまでの人生で教わってきた例で言えば、その価値は無限である。命は何よりも大切で、場合によっては一寸の虫にもこの考えが適用される。

そして、その無限であるはずの人の命よりも価値のあるものが近年特に強調されている。それは子どもの命である。無限であるはずの人の命に対し、無限よりも重いと言わんばかりの価値で扱われつつあるものだ。何故こんなことが起こるかと言えば、言うまでもなく少子化が原因であり、その希少性が年々上がっているからである。

 

ここである問題が発生する。「そもそも価値が無限大のものをどうやって測るのか?」という問題である。

経済で考えると、価値の尺度は結局お金くらいしかない(だから、上記の逸失利益の話が出てくる)。しかし、人の命が無限大の価値を持つのなら、この世の全ての資産をかき集めても足りないことになる。そして、何よりも尊い人の命というものは、驚くべきことにそこら中に溢れている。そんなあまりにも価値あるものがたくさんあるとどうなるかと言えば、最終的には牛乳ビンのフタになってしまう。これがわたしの考える「価値のオーバーフロー仮説」である。

 

 

 

じゃあ、実際に人の命は無価値になっただろうか?

問うまでもなくこれは「ノー」である。人の命は今もなお無限大に重い。

では、「価値のオーバーフロー仮説」はどこに行くのかと言えば、人の命を扱う仕事に流れて混む。その職場は人で溢れており、集団における人の価値は牛乳ビンのフタまでは行かないにしろ、多ければ多いほど下がる。そして、その中の1人を抜き出すと、その人が本来持っている命の無限の価値が蘇る。

 

上記が、「価値のオーバーフロー仮説」からなる「人の命の重さ」についてのわたしの考えである。こう考えると、福祉の仕事の賃金が役割に見合っていないと言われるのも、現場では価値のオーバーフローが起こっているからかもしれない。仮に、わたしが保育士で1人の健常児だけを月20万程度の賃金で見られるのなら、喜んでやるだろう。無論、命を掛けて。