ヤミ金 杉山治夫 奨学金 | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

 

 

今日、テレビニュースで目にした事件。

ヤミ金自体は別に珍しいものではないと思っているが、2018年から今年の2月までに約1万5000件の貸し付けを行ったこと、なによりそんなに大勢の利用者がいることに驚いた。もちろん、内訳を見れば多くの場合常連がいるのだろうが、それにしても酷い数字だと思う。ヤミ金の運営側よりも、そこに手を出してしまった人々の方がよほど問題を抱えてるのではないだろうか?

 

上記のニュースを検索したことで、以下の記事も発見した。

杉山治夫という人のことは知らなかったが、どうやら当時は有名だったようだ。

記事によれば幼少期の育ちは壮絶であり、保育を学んだ身からするともうどうすれば良かったのかすら分からない。

この記事によると、ヤミ金の黄金時代は1980年代のバブルの頃らしい。まあ、お金を借りるのは原則返せるアテのある人で、日本は永遠に右肩上がりだと思った人々からすれば、お金を借りるというのは抵抗が少なかったのかもしれない。

 

わたしは生まれてこの方デフレ社会しか経験が無いため、大変吝嗇家であり、借金をする人の気持ちがよく分からない。しかし、どうにも見えずらいところに目を向けると、金を借りるのは日本の文化と言わんばかりに当たり前としているところも見受けられる。借金したら親や親戚に借りに行くというのは、昭和辺りのドラマなどでは結構あった気がする。

 

例えば、実質借金である奨学金を借りて大学に行く人の気持ちもよく分からない。

大学行くのは当たり前の世の中なのかもしれないが、本来奨学金を借りるとなると、卒業後のことも想定して動かなくてはならないだろう。あるいは、大学卒業という資格だけを得るために、最低限の単位だけとってあとはアルバイト漬けの生活を送る必要がある。そのくらいの保険を掛けないと、卒業後に失敗した場合のリスクがあまりにも大きい。

ただ、そんなに深く考えず、周りの子に合わせて進学したり、周りの子が借りているから借りたりするという事象は起こりうる。問題は、周りの子と自分が(あえてキツい表現をするが)同じ身分なのかどうかということだ。わたしの肌感覚で言えば、金持ちと貧乏人の行動パターンはよく似ている。前者は余裕があるから豪遊し、後者は失うものがないから豪遊する。貧乏人が金持ちに振り回されるとすれば、それは地獄以外の何物でも無いと思う。

 

上記の内容を総括してみると、どうにも以下のようなフローが透けて見える。

1.裕福ではない家庭で生まれる

2.周りと同じように奨学金を借りて進学する

3.就職に失敗し、奨学金を返すアテがなくなる

4.どこからかお金を借りる

5.借りたお金を返すためにヤミ金に手を出す

 

何とかしなくてはならない問題ではあるが、何ともならないこともよく分かる。

こういったものを何とかするのが福祉なのだろうが、福祉的な活動に参加するにはなんやかんや資金的な余裕が必要で、現代の庶民が試みるにはかなりリスクが大きいことをわたしは保育業界を通して学んだ。「日本人がグローバル資本主義を生き抜くための経済学入門」の中にもあった気がするが、福祉を充実させるためにも経済成長が欠かせない。貧しい人はいつまで経っても余裕がなく、富める人は余裕があってしかもその余裕がさらに富を増す。貧しさを尊んだり、花火のような生き方に憧れたりする精神からは脱却する必要があるだろうと思う。もちろん、こんな考え方は、自己顕示欲の強い若者には耐えがたい苦痛だろうが。