論理的思考の発展に伴う認知の断絶 | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

現在、論理的思考力についての本を読んでいる。

そこには所謂プログラミングに大切な思考法が書かれているのだが、この思考法というのが「論理的な人」と「非論理的な人」を区別し、コミュニケーション面での困難を引き起こしてるのかもしれないとふと思った。

 

極端に例えるなら、以下のようなもの

Q.どうしたら勉強できるようになりますか?

 

非論理

A.教科書とか使って頑張ったり、人から教わったりする。

 

論理

A.まず学びたいこととその目的を具体的に設定し、目標を設定してそこから行動を逆算する。

 

同じ質問でも、考え方によってこれだけ分かれてしまう可能性がある。

しかも、答えた側はどちらも自分は正しいと思っている。(※自分が正しいと思っていないのであれば、質問に対して答えを言うことはできないため)

そのため、この論理と非論理による連携は困難を極めるだろう。

しかも、両者はどちらも自分の方が論理的だと思っているかもしれない。

おそらく、「あなたは論理的ですか?」と問われて「違います」と答えるいないのではないだろうか?

 

この論理的思考力は、概念としては意識的なものであるが、個人の思考としては無意識なものだと思う。しかも、非論理的な方が、勘によって素早く正確な判断を下せる場合も多い。

 

現実の人間は、論理と非論理がどちらか一方に100%振り切っているということはないと思う。

しかし、その程度に差があることは疑う余地はない。

ウェクスラー式の知能検査では、「知覚推理(PRI)」の中に論理的思考力が含まれている。

そして、「IQが20違うと会話が成立しない」という俗説もある……というか、調べてみたらそういう本もあった。

 

 

なので、知覚推理のIQが20違うと、論理的にかなり離れているのかもしれない、と思った。

ここまで考えたところで、わたしの記憶に引っかかるものがあり、以前似たような記事を書いていたことを思いだした。

こちらは「IQ全般」の話であるが、今回は「論理的思考」に絞ってある点だけは進歩かもしれない。