アンネの日記 増補新訂版 感想 | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

 

 

半年前から少しずつ読んでいたアンネの日記が、このまとまった時間の中でようやく読み終わった。

正直に言えば、このアンネの日記がなんたるかを一言で表すことが自分にはできない。

近年は作品の要約を見ただけで知った気になれることも増えてきたが、アンネの日記は日記というだけあって要点は特にないし、テーマが特別偏っているわけでもない。それでいて、歴史的、文化的、心理的、学術的など様々な価値を内包している貴重なものである。

 

とは言え、そういったことを深く考えなければ、このアンネの日記は思春期の女の子の複雑な心情を上手く描いた作品になると思う。特に、ペーターに対する恋愛観の情熱と達観が入り交じった部分は、女性の真理に近いものを感じる。アンネ自身、優れた自己覚知ができており、時々流されはするものの、芯はブレていない。時々、自身の傲慢さを反省することはあるものの、どうしても周りの人を信用しきれない点は、アンネの日記終盤の基本的な流れになっている。序盤の彼女ははっきり言ってファザコン的な気質があったが、ペーターに対する恋心→母性を経て、自立した精神と周囲に対する失望を覚えている。この流れは心理学的な成長として自然であり、隠れ家の生活が、彼女の早熟性をさらに刺激したように思える。

 

おそらく、人間的魅力において、アンネは姉のマルゴーに及ばないのではないかと感じる。アンネの賢さは『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデン・コールフィールドのような賢さで、要するに厨二病的な一面が見られる。知識として謙虚さを身につけているものの、日記というプライベートな空間では厨二病的な傲慢さ、つまりは口が達者で論理的になっている。近年、論理的思考というのはもてはやされているが、それは基本的に動物的に弱いものの力、非力な自分を正当化する力である。動物的な衝動に任せて欲望が満たせるのなら、わざわざそんな思考は必要ない。欲しいものは奪えばいいからだ。それができないから理屈っぽくなるのである。

 

とは言え、アンネが理屈っぽくなったのは隠れ家での生活がやはり大きいだろう。閉じられた空間の中で人間的な自由が奪われ続けていれば、ポジティブな方向には行かないのは明らかだ。日記の中に出てくる人物としては、子どもよりもむしろ大人達の方が不安定に描かれている。終始好意的に描かれている父親のピムでさえ、ナイフをつかんで外の通りにとびだすという奇行(P494)を犯している。そんな空間の中に居たのだから、アンネが周りを信じられなくなるのも無理はないだろう。

 

アンネの日記にはとにかく名言が多い。それは、アンネの教養が純粋に深いからだろう。比較するまでもないが、14歳だった頃のわたしでは、この文章を書くどころか読むことすらできなかったと思う。この本を買ったきっかけは、インターネットで以下の名言を目にしたからだ。

「これが存在しているうちは、そしてわたしが生きてこれを見られるうちは──この日光、この晴れた空、これらがあるうちは、けっして不幸にならないわ」(P339 ペーターへの思慕より)

日記を読んでいると、アンネは自分が信仰している神と自然については全幅の信頼を寄せていたことが分かる。このような状況でも絶望しない力を得ている点において、アンネは宗教を正しく活用している。わたし自身はどうしても宗教をくだらないと思ってしまうが、それは正しい姿の宗教を見たことがないからだとも思う。どうにも慣習を改めることが苦手な日本人の特性を利用したビジネスにしか見えないからだ。冠婚葬祭などの行事もどんどん荘厳さを失っている。これについての思案は以下の記事に詳しい。

 

アンネの日記に関係する話としては、ユダヤ人についても少し調べてみたが、歴史が長いだけあって一枚岩ではない。賢い人が多い民族だというのは何となく知っていたが、定義からするとそう単純でもないらしく、実に不思議である。

「ユダヤ人はユダヤ教を信仰する人々である」という定義や「ユダヤ人の母から産まれ、あるいはユダヤ教徒に改宗した者で、他の宗教の成員ではない者」があるらしいが、ただの信仰や母親の遺伝で優れるとは限らない。アンネの父親の例を見れば、おそらく元々裕福な家庭の出身が多いのではないかと感じる。

ちなみにアンネは幼少期にモンテッソーリ・スクールに通っていたらしい。モンテッソーリ教育は現代でも十二分に通用する程合理的な教育方法であり、現代の日本が目指すべきものの一端を示していると思う。

モンテッソーリ・スクールは自由な教育を特徴とし、時間割が存在せず、教室での行動を生徒の自主性に任せ、授業中の生徒のおしゃべりさえも推奨していた[40][42]。アンネにモンテッソーリ・スクールを選んだのは、アンネがおしゃべりで長い間じっと座っていることができない性分であったためという[42][46](アンネ・フランク - Wikipediaより引用)

実に合理的なフリースクール(フリースクールじゃないけど)の姿に感じる。日本がもしもこれを目指しているのなら、すでに90年以上遅れているというだろう……というのはさすがにネガり過ぎか。

 

そういえば、先日見た「オッペンハイマー」の中で、オッペンハイマーが「ドイツに原爆は作れませんよ」と預言めいたことを言う場面があった。その根拠は「ユダヤ人がいないから」。

 

わたしはユダヤ人について深く考えたことはなかったが、こうやって身近に感じることが続くと興味が湧いてくる。……イスラエルについてはなんとも言えないが。

この辺りの知識は「サピエンス全史」とか読めば分かるだろうか?

それでもしばらくは、積んである本の消化を急ぐことになるが。