「・・・周りはどうだい?」「・・・そうか。いなくなったか。」「・・・まぁ・・・気にしないで。」「・・・さぁ、はじめましょうか。。。」「・・・あなたのお話の続きでも。。。」
日常的に欲しいものは目に見えているけど手を出せない。本当に欲しいものは見えもしないし期待もしない。「 できたらいいな 」は叶う可能性を持てる夢であり『 見てるだけで幸せだ 』はその結末を知ってしまっている言葉であって9割あきらめてるし、期待もしない。手に入るものをが目の前にあってそれを手に取って眺めている時にほかの人が興味本位で近づいてきたら「 もういいや。あげる。 」ってなっちゃう。。。だってさ。数ある中で“ 欲しいもの ”であって求めていた ~ 大切なもの ~ ではないから本当に大事なものならそのものには触らないで何も抵抗する事をせずに対象のものに対して “ 目隠し ” をして『 どうぞ。好きにしてください。 』っておそらく、言ってしまう。だってさ。9割も諦めていた事に光が差し込んでる感覚だぜ?どんな事をされたってこっちからすりゃそれが言えた時点でもう十分満足な訳だ。自分から欲を出してまでそれ以上を求める必要なんてないだろ?そもそも見栄を張るようなものは欲しくはない。ただ、そこにあるだけでいい。あとは好きにしてもらっても構わない。ひとつだけ、条件を付けるなら~ 自分に対して期待をしない事 ~平穏を過ごす事を望んでいるのに対して過度な変化を求められても対応に困るし、一気に熱が冷めてしまう。高いものを身に着けたり身分を気にして出世しようとしたりそんな事は興味ないし望んでもいない。その時の状態が良くてその後の事は考えなくてもいい。そのままのカタチを維持してくれればそれで充分なんだ。新しいものを好きになるならそれもその人だからしょうがない。止めもしないし、追いもしない。ずっと ” 好き ” でいるってそういうことじゃないのかな?
夢を追う人は応援するよ。だって、自分の夢は叶わないから。期待するほど損だし時間の無駄だわ。抜け道はいっぱい知ってるよ!いくらでも教えてあげる。だって、自分は使えないからさ。周りから教えてもらった事をしてたら慣れない道に迷っちゃって来た道がわからなくなったんだ。帰り道は楽勝で最短ルートがわかるんだ。けど、自分だけ何故か通れないんだ。一緒に歩いて道案内をしてて同じ道を通っているはずなのに自分はひたすら同じ景色を歩き気づいたら自分だけが元の位置に戻り隣にいたはずの相手の姿はない。程なくして相手から連絡が来て『助かった』と一言言われる。そこて事が終わって初めて自分が失っているモノに気付く。
手のひらは“返す”裏は“見る”んじゃなく≪見える≫もんだ。どうして?じゃなくて結局、≪どうなった?≫知りたいことが見えているなら興味ない一手先を予測する?その先でどう動くか?ブレたら矯正する?ブレに合わせて動く?ブレを重ねてずらして一つの“線”にする。
なんとなく生きてますよ。はい。いい事無さすぎて、絶好調ですよ。そら~もうね。あれですよ。いくら頑張っても報われないのでね。涙も出ないわ、呆れて笑ってしまう。収入が上がれば上がるほど支払いが多くなって終いには20万超えちゃうわ。まともに喋る人もいなきゃ当たり前なことしか言ってこない人しかいなくて話をしているだけでマンネリしてしまう。なんも刺激がない割には自分のやりたい事には規制がかかっていて何一つ満足して迎えた一日がない。『当たり前』なことをしていつも通りの話をして毎日が消化試合。。それを周りの人から『一所懸命、頑張ればいい事ある。』って何かある度に、言われ続けて体、壊す手前まで頑張っても結局、今まで何も変わらない。むしろ、年々身の負担が増えてきてはリスクが桁違いに高くなってきてる。その状況に毎年笑いながら年越しを迎えた瞬間に途方に暮れる自分がいる。・・・だってさ。地元に帰ってきてもうすぐ7年経つけど月を跨ぐ度に自由が失われていくのが目に見えてわかるんだもの。孤独が寂しいわけじゃない仲間がいないわけでもない必要なものは揃っているはずなんだよ。失くしたモノが見えるのにそれが触れられないし他人には“不必要”と言われて2度見すればもう無くなっている。必要なものがそこにあっても”障害物”は存在すら許してはくれない。進む道に”障害物”があっても避けることはしない。でも、すごくいいところで下手くそだから毎回カスってどこかに致命傷がつく。気にしてたって治らない(=再起不能な)のが感覚的にわかってしまうんだろうね。陰で支える人はいても助けてくれるわけじゃないから結局、辛い時は必ずひとりだから耐えるのなにも。ね。認めないとね。やった瞬間に呆れて思わず”笑って”しまう。『・・・また、やっちまった(笑)』「・・・ここで終わりか。。。」「今回は、いいところまで行ったと思ったんだけどな。。。」「また、一からやり直しか・・・」周りが成功して喜んでいるのを見て「よかったね。”やれば出来るじゃん”」そう言いながら自分は遠くで笑ってるだけ。たとえ小さなことだって伸ばせる個性は広がる可能性秘めてる。その中でどこを“褒めれば”いいかそれだけで人は変わっていく。すべてを知る意味を知らない人に同じことを教えたって意味はない。自分の知りたい事にすら相手は興味がないからね。大事なのは周りと同じことをしたときに他人と【どう変化】しているか。同じ事が”当たり前”と評価されているなら違う事をして同じ事が出来れば周りからしてみれば”異常”に見られる。同じ事を同じ時間で~ できる・できない ~ で評価している人が【偉い】というのなら≪ 周りと違う事をしているのに 同じことが出来ているか? ≫ を判断できる人は”天才”だと思う。→さすがにこれは自分、出来ません。。。これは人に評価されて初めて気づくことであって自分で気づいた時点で人に教えることが出来てしまうからいくら自分が編み出していても自分の持っていたものにはならないのが描いた夢が泡となって消えていく瞬間でもあって~ カタチはあっても、残らない ~つまり、そういうこと。水が入った風船に針を刺した時『 水の塊が止まって見えたら 』この感覚がわかるかもね。時間の使い方に決まりはないけど時間に“合わせて”体が動かす事が出来るなら自分の感覚で“時間を作ってみれば”いい。それが出来たらそれを人に明確に説明してみよう。あいまいに覚えているなら説明するのは、とても難しい。しかし、これが“無意識”で出来ている人は説明するのも苦じゃないだろう。周回コースを“経済コース”で回って→見本に沿うような最短距離で走行する。同じタイムを10回出すより“ゴーストライン”を作って→1周ごとに違うラインで走行する事その状態で同じタイムを5回連続出した方が普通に走るより遥かに難しい。同じ事をしていたって同じ事で違う事をしていれば評価を求める必要はなくなる。勝ち負けも評価もいらない勝手に自分だけで楽しんでいればいい。そんなあなたがひた向きに頑張っていればきっと誰かが見てくれているからそのうち必ずとんでもない評価してくれると思うよ。きっと。まぁ・・・他人事だけどね。(笑)自分には、ありえないことだから。さんざん人にボロボロに利用されて他人の意見と被らないように考えた事に対して一度も褒めてもらう事がないから。理を求めるような期待を持つことは社会人になった時点で、諦めてるから。小さな事ではしゃいだり他人の成功ですごい涙もろくなったり大きな幸せなんか必要ないんだ。目の前の事で感情表現出来る事がまだ”救い”だと思うから。”当たり前”をこなす事がどれだけつらいか。変化を楽しみたいというのは周りからしたら“贅沢”なのかな?どんな事をしても現実に起こせば実話になるんだろ?それが”ありえない”事でも。自分のパレットに載せた絵の具で見慣れた風景になにげなく色を塗って見る人によって色が変わるような事が出来たらいいな。
2台あるノートPCのうち1台がwndows11の状態で復活!!→もう一台はwindows7でドライバーが当たらずwしかも、起動が爆速で笑う。中身を立派に弄ってるあるからね。ちょっとキーボードに難ありだがこれはこれで満足。ブログ打つのに楽なんだよなw難点といえばwindows11の使い方がわからないwwま、いいか!P.Sあいかわらず 良い事はない。
せっかくの休みの日を一生懸命無駄に使い何もしないでドブに流しなんとなーく仕事して働けば働くほど支払いが増えていって結局、引きこもっても電気代が3倍に膨れ上がって大赤字。長く生きるほど借金は増えていくだけ。やりたいことは何もできないし人と関わればお金が減るし経費を生んでも利益がない。なにをすりゃいいんだ?いったい。
いいことないかな。なにも出来ないから気晴らしすれば、ねぇ。。。出費が酷いから引きこもれば、ねぇ。。。興味がない事して、晴れた1日行動不可で✋仕事は無心でやって、生きるだけの消化試合。給料貰えば、支払いは貰うだけ2倍増える。やりたい事すれば、共感を得られず大批判。周りと同じ事すれば、比べられて叩かれる。毎年厄年。我慢は一生。夢は持っても、一度も叶わない!!努力をすればするほど、無駄でかつ良くて水の泡。最悪、二度と使えない。たとえ、ヒトだろうがモノだろうか少しでも欲を出せば、今持っているモノ全て失う。誰も近寄ってきてほしくはない。間違いなく、不幸になる。●●●だけど正直、話し相手は欲しい。だけど、、、リスクがあまりに高すぎる。生きてて良かったと《満足》する事があまりに小さな事だろうが今まで一度も叶わなかったから。いくら頑張っても無駄なのはわかってる。
誰も悪い事をしていない。自分は何もしていない。・・・じゃ、なんで 目の前で物事が起きるのか?犯行動機を聴いても誰かが“嫌だ”とか無性に“やりたくてやった”とかそこで終わってしまう事件なら解決してほしくはないんだよね。問題なのは~ なぜ“嫌”になったのか? ~~ どういう流れでこうなった? ~まあ、ここまでは普通なんだよ。問題はその先で= その原因は“違うところ”から来ていないか? == 変えられない"事実”が存在するのか? =それを見極めて確かめるのには『自分に当てはめるような意見』をしてはいけない【当たり前な事=常識】は通用しないんだ。当てはまってしまっても表には出してはいけない。"身の内=本心”を伏せてる相手に自分の意見を【アピール】してはいけない。真っ当に「相手が悪い」と批判するなら悪さを働くのには“理由”は必ずある。質問をしない相手に結論を出すのは喋らない相手を決めつけるだけのただの自己解釈に過ぎない。★★・‥…―━━━―…‥・・‥…―━―…‥・・‥…―━━━―…‥・★★会話の中に“嘘”をつける人は頭がいい。それはなぜか事実を真実だと"思わせる事”が出来るから。じゃあ、正直な人は損をする?いや、十分優秀なんです。『得たものが真実だ』と言っているんですから間違ってはないんですよ。・・・でも、どこか引っかかるんですよね。しかも、何か所もね。。。それ、「=誰=の意見」ですか?どこを“見て”話してますか?誰もあなたの事と一言も言ってもないのに自分の意見に触れられる事を恐れて自分自身を肯定しようとしていませんか?☆★☆*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*★☆★身を荒く削れば素が出て素を擦れば地が出てくる⇒(自我)地が出たら次第に色が付く。いくら綺麗な絵が浮かんでも上手く色が載らないのは既存の色に【濃淡】は描けないから。これは長年のセンスでもない。ひとつの【機転】と【きっかけ】で見ていた絵の色は“ガラッと”かわる。これは人を見る時でも一緒で周りから見ても同じように見える物が自分には変わって見えた人にはこの意味がよくわかるかもしれない。ここでヒント1 周りと同じものを見ているのは確かです。⇒対象物をふと眺めているだけでいいです。2 必ず何かが必須で【向き】に関係があります。⇒光を当てたり(光沢)、水や油をかけてみたり(滲み)・・・3 それを相手の状況を踏まえて確認してみると・・・⇒影が見えたり、色がまばらだったり★ カンの鋭いオンナの方は気づいてもおかしくないですよね ★→寝る前に【何か】を“落とします”よね?⇒オシャレな人ほど隠したくなる事といえば・・・ ★.。:・・.。:*・★.。:・・.。:*・★.。:・・.。:*・★.。:・・.。:*・★.。:・・.。:*・★綺麗な絵が必ずとして“真実”ではないとしたら霞む空に“虹”が浮かんでいてもおかしくはない。見える人には、見えてるんだろうな。飾らなくても“キレイ”に見えるように。澄んだ眼に色は付けなくてもいい。くすんでいてもそのままでいい。【飾った絵が“キレイ”】と言っているんだ。そのままで、いいんだよ。染まっていくと、少し寂しいかな。【見つけた絵】じゃない気がして。…でも、しょうがないよな。#自分の絵# じゃないんだもん。近くで触れたり出来ないし遠くから見る事しかできない。それだけでも「満足なんだ」と思うだけで精一杯。ユメはユメのままでいいからユメのまま終わらしてくれればいい。,:*~*:,_,:*~*:,_,:*~*:,_,:*~*:,_,:*~*:,_,:*~*:,_,:*~*:,_,:*~*:,_,:*~*:,人に色を塗るのは得意なのだが自分が描こうとする絵には色が付かない自分が塗っている色の名前がわけわからないから。⇒リアル色弱【色彩認識虚弱】の為。自分の好きな事を迷惑にならないように好きなようにして劇的に様変わりしていく周りの様子を線だけで絵に描いていって自分がわからない【色を出してもらう】為にこれから世に出ていく人に渡すだけ。自分に利なんていらない。求めてもないし、得ても役立たないから。手柄は毎回目の前で自慢されるし役目終わればお役御免で周りから相手にされずに干されて終わり。…また人生、1からのやり直し。こんな生き方20年近くしてればひとりの方がどれほど楽なんだって。。…あぁ~~まともに3年仕事続けたいわぁ~~あと、引っ越したい。田舎に。
お久しぶりになります。なかなかブログ書けませんでした。今年から“個人事業主”扱いとなりまして・・・やる事が急に増えてしまいました。。。確定申告等の手続きは来年度からとなりますが今のうちにコツコツ頑張っています→自分なりにね。あと、いろいろありすぎてPCを開く時間もありませんでした。年末に愛車のぽんこつ(ビート)は高速道路のトンネルの中で止まるは年越しから年明け2日間家族旅行で運転しっぱなしだし年明けたら突然クルマ(ソニカたん)をもらって名義変更等の手続きを1日で終わらしたり今日はソニカたんのヘットライトをLEDに変えたりETCを自分で取り付けてセットアップしてもらって試走したりいったい何がしたいんでしょうか?wあ、ちなみにぽんこつは2度目の入院を予定してますw果たしていくらかかるのだかww現状報告します。ただいま、酒屋で配送のバイトをしていて→ お酒は苦手で、一滴も飲めませんw⇒ 体質的にOUTで、おそらく死にますwwその傍らこっそりととある鉄筋屋さんの見積・請求書等の書類整理もしてます。→ 資格はないですよ。⇒ でも、レイアウトも1から作りましたw
自分の事を“正確に”目の前のヒトに話すことは出来ますか?そして、それを誰の前でも”同じ事”を話せますか?これは“ひっかけ問題”です。出来ていると“思っている人”はたぶん出来ていません。そう思っている人ほど自分を“変えよう”としてる人が多いので【最初に与える印象】が『理想の自分像』として扱う。出来ないと思う人は相手に“表面だけの関係”というのが目に見えてしまっている為周囲から警戒されているかもしれません。ちなみに出来ている人は誰にどんな時に自分の事を聞いても必ず【同じ意見が返ってくる】はずです。通常は自分を紹介する時に『相手にいい印象を与えられるように』話すのが一般的であり“常識”です。しかし、【親しみがない人】に→例えば、初対面の相手等自己紹介をする際≪相手から見てわかる事≫だけを“自分の事”のように話をしています。~~~~~~~~~~~~~~~~~~表面だけの関係なら“表面積(広さ・大きさ)”は求めやすく答えも単純でわかりやすい。ただ、”言葉”の意味を知る事に対して本当に求める公式は“立体積(高低差・重さ)”である。~~~~~~~~~~~~~~~~~~面積のままで付き合っていくと途中でカタチは変わっていく。そこに実際は“高さ”や”深さ”があってその間には“重さ”がある。これは全ての事に通じる事であってヒトやモノ、或いは“真実”や”追憶”にもなる。己を偽れば偽るほど 皮肉にも露骨に表れていくもの。二言三言、話しただけでそのヒトは“どこまで”話をするのかを瞬時に判断できなければ物事は“2次元”で止まってしまう。見て聞いて得た事で描かれた絵は“知識”として正しいかもしれない。そこでその人のイメージはロックされ『この人』として扱う事になる。でも、ヒトは自分が相手を描いている間ずっとそこに“立っている”訳で自分が本当に見ているモノは【動くもの】であって常に止まっているわけではない。この続きは、また後日・・・。
先週の木曜日に財布を無くした。配達中に無くなった。止めるものはすべてすぐに止めて再発行の手続きも終わった。届けを出すまでに丸一日空いたが不思議な事にキャッシュカードやクレジットカードは何も使われていない。そして今日先ほど個人的に大きなニュースが入った。内容を聞いて思わず”びっくり”これは・・・大きい事になりそうだ。そこでちょっと気になる事も浮上する。もしかして・・・・注 あくまで憶測。
頭で考えてる情報を考えながら文字に起こそうとするとカラダがついていけなくなる。カラダの思うままに動くと言葉にするのがだいぶ遅れる。一つの事に集中しようとすると2つの事を考えてしまう。1つは肯定、2つは否定。その2つが浮かんでしまうと今度は2つに対しての“疑問”が生まれる。音を拾って向きを変えるカラダは視界と連動して動く感覚はそれ以上の速さで反応する。あとはその時間にどれだけの情報量を詰め込むかで伝えるモノの重さは決まるものだ。結果は【物事が終わった後の答え】で予想や期待はあくまで≪周りが騒いでいる大きさ≫であって真実を決めつけるのには程遠くその答えは“当事者”しかわからない。お互いが分かり合う事をしてこの先に意味を持つ事を知っているなら素直に眺めているだけでも立派な“絵”になるものだ。何かが人前で出来る事は消しって当たり前な事ではなくとてもすごい事でほとんどの人は何もできないまま憧れを持ったまま朽ちていく。小さな意味を知るのにとてつもない時間を要するのに積み上げられたものが結果になるのってうらやましい感じもする。ただ、眺めているだけで展開と結末がわかってしまったら前に進むのを躊躇ってしまう。物事の結果は 『 変えてはいけない 』犯した罪は ≪ 変えられない ≫知っている事は 【死んでも言わない】物事を言って変化が起きたら苦労はしない。理解出来ない事を言って周りに叩かれるならその人達には意味を知る権利はない。矛盾した答えに意味はあっても知ろうとしない限り物事は変化しない。本当に恐ろしい事に意味なんてない。察しても恐ろしいくらいなんだ。言葉に表せなくて当然だろう。。人間は答えを求めすぎている。問題を理解する前に結末を知ったら解き方を理解する前に物事は進んでいる。そうなれば真実は光を受けないまま“知識”という形で認識することになる。それを“常識”といったところで理解しようとする人間が恐ろしい。自分を写す鏡は常に“ありのまま”を写すとしたら誰もが“キレイ”に鏡を保存するはず。。。・・・ただ、考えてみたら対面で会話をしている時相手にその“姿”を見せているんだから自分の“姿”は見えないはずなんだよな。その状態の人間を濃淡をつけるなんて・・・・到底できない。地を出せば出すほど身は角を削られて同じものを出していく工場の出荷と同じで同じ人間が“量産”されていく結局、【オリジナル】なものって探しても、見つからないってもんだ。
カタチ在るモノは残すモノないなら作って残せばいい残せないなら捨てるしかない『 興味がないなら必要がない 』それは、誰が言っていた事なの?そもそも、“誰”に向けて言ってるの?そんな事言えるなら『 言われている自分を想像しな 』誰がそういう人に“作ったんだ”んだい?まさか・・・ - 逃げて - いないかい?相手のせいにしてはいけないよ。そこに気付けないと成長の意味はわからないよ・・・。【全て必要な事】なのかもしれない。しかし、覚える事は難しい。誰もが自分の言いなりになれば相手をするのに苦労しない。自分の意見を言い通せれば物事はうまくいくのか?知る事の意味を知っていなければ得る意味を理解できずに終わってしまう。何のために覚えているのか?どういった事を得てそういう事になったのか?なぜ、ヒトはそこまで考えないのか。「 何か出来ないからコイツは使えない 」「 いくら教えても覚えようとしない 」誰でもわかるような“マニュアル”まで作ってもまともな育成も出来ずに一体“誰”目線で会話しているんだろう。人に“興味”を持つきっかけ一つもまともに教えられないような人は『 教育者として、“最悪”だからな 』これは“相手の理解力”を疑うのではなく【自分の教え方にも問題がある】事にいかに早く気づく事が重要である。そこでよくやりがちなのが自分自身が持つキャパシティを理解せずにさらに度を超えた【指導】をしようとする事であり- 自分が経験して成功した例をたとえて -- 相手に全く同じ事を試そうとする -これは“教え方”によっては立場が逆転するほどの【諸刃の剣】になる。立場を持つ人が上から目線でやれば異論は通らないわけだし現場で得た改善策も通らなくなる。間違いなく士気は下がるし場が荒れる。相手は理解する度にやる気は失って興味すらなくなっていってしまう。こんな事をしてればついてきたものが離れていくだけ。格差が出ても仕方がない。これは 【 仕事 】 だから?社会人なら当たり前でしょ?でも、ひとつ言わせてやっている事は正しいかもしれない。だからって『出来る人』とは言わない。だって、それが“当たり前”なんだろ?スパルタで覚える事の意味ってその時は厳しいかもしれない。でも【1人立ち】出来てからしばらくしてしみじみと「あの時は・・・」と振り返りながら“意味”を得るもんだ。出来ないものが出来るようになった時に誰もが意味を知り嬉しくなる。その時に“一言”つけるだけでその人が大きく変わるきっかけを作れる訳だ。【自分の底辺のライン】を他人の受け皿に載せようとしたってオーバーフローした分は理解できずに溢れていく。その人(=相手)が悪いわけでもないのに器の大きさを理解することがないまま重さに耐えきれずに破損したら【お前の覚えが悪い】と罵倒する。一体、“誰基準”で物事を考えてるんだ?扱う物を“使い方”も知らないのか?そもそも、“何を”扱っているのかわかっているのか?常に【自分の器】に合わせて物事を考えてるからこうなるんだろ?だから、≪地を出すと穢れる≫んだよ。“器”には経験も何も関係ないどんなものだって“ベース”になる基本的な【材料】なんだぞ?補強もしない“地”のままの状態で壊れる限界まで使い切って【使い捨てにする】くらいなら【誰が使っても】壊れないように『自分にも使えるように相手を“1から”器を作ってから』作業をしてもらえないかな?人を“育てる”のはそこからだから。それが出来ないなら人の“器”に手を出さないでほしいな。ただ、自分に合わないからってとりあえず使って壊して捨てて使えるもの探すような事しないで。ゴミは“汚くて嫌われる”【自分】には必要ない“廃棄物”・・・・でも、よく考えてみなゴミは“ヒト”が作るモノなんだよ。不思議なもので人間も一緒で使い終わった廃棄物の扱いと無意識に【同じ扱い】しているんだぞ?そこで考える訳だ。- どうやったら【再利用】できるのか -≪ 何か【新しいもの】が生まれないか ≫好きな事を好きなように使って使えなくなったら【新しいモノ】を≪買う≫されど、自分の“使い方”も知らずに「他人に勝手に判断されて」廃棄されたとしたら・・・。自分が“大事にしていたもの”だと気づかずに勝手に“ゴミ”と判断されたとしたら・・・。気が狂わないように必死に耐えていた≪歯車の抑え≫がなくなってしまう。そうすると ヒト はどうなっていくか・・・。いくら自分で這い上がろうとしても目的も失っている状態で『どこに這い上がればいいのか?』と探す事も出来ずにパニックになる。その状態を周知して作っておきながら誰も“救う事”をしないで放棄する。“助ける事”は≪真偽を確かめる事≫ではない。“救う事”は≪助言を言ってもらう事≫ではない。『 ・・・じゃあ、なにをすれば・・・? 』その質問をする人にはヒトを“救う権利”はないし教える義務もないな。。。。きっと、自分からまず『 ≪自分から≫話を聞きに行く 』んだろうな・・・・。そんなことをしたらきっと、ヒトひとりも救えないだろうね。下手したら、相手・・・死んじゃうかもよ。ヒビが入ったガラスの上を歩くぐらいそれくらいデリケートなんだよ。・・・でも、実際にやってる事はものすごく簡単なんだよ。子供だろうが大人であろうが相手が落ち込んでいた時に『一番最初にする行動』 だよ。ただ、【その行動】から先には絶対に進んではいけないよ。その先は【相手】に踏み出してもらわないと( ヒビが入ったガラスの上を歩くわけだから )奈落の底に落ちてしまう。→ そうなりゃ自分も大ヤケドをする。それは、なぜか・・・相手の今にも割れそうなガラスの上を自分が歩こうとしているのに【安全なところ】を知っているのは自分ではないからである。そう考えると自分が目的地にたどり着くまでに≪ 相手に誘導してもらわないと ≫≪ その“位置”が わからない ≫ 事になる。しかし、問題がひとつ・・・相手からしてみれば~ 触れられたくない事を ~ ~ 他人に指図されたくはない ~ 訳で≪ やたらめったら“生半可な気持ち”で ≫ ≪ 踏み込んでほしくない ≫ 訳だ。そうするにはどうすればいいのか?・・・・- 相手を自分の前に立たせて -- ゆっくりと動いていく展開に合わせて -- “後ろ向き”で相手に“確認”しながら -- 相手の歩いていく足跡を追えばいい -そうすることで踏んだところの周り(=視界)からヒビは徐々に回復していって見事全て踏み抜く事が出来れば“スポットライト”を当てて割れがないか確かめる事が初めて出来る。@ 話をまとめるのはその先でそこまで出来ないなら諦めた方がいい。ただ、少しでも相手の思考とズレたと感じたら相手は“次の1歩”を≪試して≫くる。そこに気付かないで踏み込めば『本来の目的』とは違うところに誘導され最終的に入口まで戻されて塞がれてしまう。→ “出口”を知っているのは あくまで“相手”であり自分がちょっとでも欲を出して ゴールを見つけようとしたら負けです。 自分から踏み込んでおいて相手に『無かった事』とされる普通の一般人の感覚でやらかしている実に間抜けなよくあるスタイル。ヒトに“モノ”を教えるってけっこー大変な事なんですよ。。。特に“カタチが無い”もので≪ 残るモノを作ったり ≫≪ 壊れたモノを直したり ≫なかには・・・『 “銃”があるのに“弾”がなかった 』 とか『 “球”があるのに“どう使うのか”わからない 』 とか『 “ナビ”で示した場所が【目的地】じゃない 』 とか誰がどうとかの問題じゃなく- ≪興味のない事≫に知識は使えない -という事を自覚してもらわないと話の魂胆に筋が通らないのですよ。それは何かを“教える”事に直結していて【 自分基準で相手を判断している人 】 は他の意見(=本音)を聞き出す事が出来ないだわ。まあ、聞く耳を持たないっていうのが本音だけどね。・・・逆に、そんな輩に対して 『 そっちがそのつもりなら・・・。。。 』って思っちゃうんだよねェー。銃を構えている人に“きっかけ”を与える事だって出来るし球の“使い方”に興味を示すようにして“違う扱い方”を教える事だって出来るしナビで示したところに“好きなモノ”建てれるように構築出来る。・・・要は、自分で創った“幻物”を相手の≪思考の中≫で“現物”と【認識】出来ればいいんでしょ?モノを“カタチにする”ってそういう事じゃないのかい?
考えられるのは大人。知りたがるのは年相応。熟す時間が長ければ長い程食べごろを迎えた頃に周りから支持されてくる。バナナだって真っ黒になって見た目がいくら悪くなっても味はとても甘くておいしい。誰が食べても甘いのにもったいない。理想は”味を変えられない”ようにする事。自分が周りに染まらないようになれば自分のブランドは活きてくる。具体的な事はシンプルに簡単な事は仕組みを理解する。早く覚えたい事は1から丁寧に興味を持った事は忘れない。なら、突き詰めれば磨かれていく。詳しく覚えたいなら適当に覚える。ワザとミスをして穴を作ればベースの上から“補強”することを覚える。そうやって皮を強くしていけば中身はゆっくり熟していく。コツは“常識”の逆を取る事。周りの意見はあくまで”経験談”で自分に適性があるとは言えない。なら、自分に合うように適性を合わせて作り替えればいい。それが”オリジナル”であるならそれを”自分”と言っていいんだよ。『同じ人間はいない』と言っている人が実は一番周りに左右されやすい。切り捨てるものが多い程得るものは多いのは大間違い。穴埋めするのに切り貼りしているだけ。新聞の内容が気に食わないから【文字を切り貼りして】良い記事にして世に放っているだけ。真実はその身に刷られた文字であり葬り去る為に捏造した週刊誌。それを見て【常識】と謳うのなら得るもの全てに疑いがかかてしまう。本当に真意に触れたいなら型に触れなくたってわかるもの。
人が見えたらその人の"次の行動"を考える。空を見てると“時間の流れ”考える。モノを見てると"経緯"を辿ってしまう。考えるのをやめたい時は“音”を聴く。景色を作るのに"絵"を描くなら伝える時に“文字”を書く。音が乗れば“詩”になるし”モノ”があれば”物語”になる。意味は知らずして『相手の読みは膨らむ』もの。感じたものは『自分で拡げられる』もの。上限が無ければ底辺もない。ただ、相手が自分の事を“どこまで見えるのか?”で見方が大きく変わってくる。カタチに囚われないで。演者はいつも”心”から。隣り合わせでもいい。背中合わせでもいい。交じ合わさないように同じ幅を繋いでいけば大きな道を作れるから。
歩いて、眺めて、振り向いて道を見つけて、書き残して空を見上げて、風を感じて何気ない日常に、ちょっと愉しみ。大きく手を振って歩いて胸を出して眺めて声のする方へ振り向いて新しい道をいっぱい見つけてすぐに入らないで“入口”を書き残して陽の当たり方で“色”見て、風を感じて“景観”を覚えておく。何をするかって?それは “ナイショ”
物事を耐える事に苦はないが自分を持ち続ける事は大変な事。他人の趣味とかぶらない拘りを持ち同じ事をしない生き方をする。常に答えに縛られないようにする。The main issue is "what is happening before the problem occurs" andAfter the problem occurs is the "result".その≪本題≫の内容が「なぜ、事が起きたのか?」を常識的な解決方法として採用している。そして採択の方法は多数決。“正しい”事が定義とする。このように甲乙つけて判断しては射抜いた的に“傷”かつく。割れた的は使い物にならなくなる。要らぬモノは捨てれば良い。人であろうとモノであろうとそういう扱いはしたくない。“It is a bad habit of human beings to crucify mistakes and laugh at them.”もっと先の事を考えて伝えれば話は違う方向に急展開を迎えるのに・・・
どんなに貶されたって構わない。全然気にしないし、大丈夫だから。先にある問題に関してはなって見なきゃわからないんだから事が始まってからその時円満に解決できるようにちゃんと考えるから。どんな事があろうが必ずどうにかするから。・・・ただ、元の位置に戻したくて 必死になってしまったのは許して。。・・・まーた しばらく実家、帰れないや。。久々に派手にやらかしたわ。・・・俺のせいじゃないだけどなぁ。。。 とにかく、争い事をくい止めるのに必死だったから。。しょうがない。がまん。がまん。
叶える為の夢があるなら期待しないモノは残さない。話してごらんよ。この先の事。大きな目標を立てるのは簡単なの?小さな幸せでも嬉しいのに?見えるモノすべてに道は繋がっている。聴く事で時が流れるのを感じる。止まっているものを眺めてはいつまでも変わらない景色を人間は【素晴らしい】と言う。変わる事で何かが生まれる。知る事でその大きさを判別する。そして認める事が出来ればどの辺りに物語が創られるのかを知る事ができる。カタチに表せない“なにか”を得るものは探して見つけるのではなくその時に生まれた時に感じればいい。才能は“米粒”よりも小さい。そして、どこを探しても“同じ色”白い砂浜にダイヤモンドを探しに行ってもそれが“塩の結晶”だとは誰も気付かない良きモノにカタチなんかない。得たものに完成品はいらない。自分で手を加えることで初めて“自分のモノ”として扱えばいい。プライスレスなものに評価はいらない。常に“出来たモノ”はすぐに出荷すればいい。何もしなくても個数は売れる。“欲”から生まれたものは陽の当たり方で変化していく。少し欠けただけで価値は落ちていき維持をするのに莫大な財産が必要となる時間が経てば経つほど劣化してカタチは失われていく。そうすると人間はすぐに“新しいモノ”を作ろうとする。- 在るものが腐れば -- 「新しいモノ」を使えばいい -それが普通かもしれない。しかしそれはあくまで“使うだけの人” に対する意見であって。じゃあ誰が元になるものつまり【原石】を造れるのか。その【原石】を造る事が出来るのは人間でもごくわずか。意味を理解していない人は発明家は頭がいい。クリエイターは天才。きっと、そう思うだろう。- 成功した人が一番偉い -これ、世の中の悪いところ。支持を得る事は確かに良い事。でも、本当に重要なのは『“得たもの”は自分のモノにはしない』事。「発明家は“なぜ”【隠さず】に完成したものをすぐに発表するのか?」「クリエイターは“なぜ”独特の【感性】をを公開するのか?」これで何かを得ようとしているわけじゃない。自分の“好き”を自然にさらけ出しているだけ。好きな事を最後まで続けているだけ。それで多くの“共感”を得ているだけ。生きてるだけで楽しいと思えるように世の評価をどうこうより誰もが思える【表現の自由】を求めて。【原石】を創る事が出来る人は≪“在るモノ”に“自分”を加える≫事が欲もなく自然にできる人。もっと簡単な話をしよう。どうでもいい【例え】話だ。歩いていたら“喫茶店”を見つけた。そこで“ホットコーヒー”を頼んだ。ついでに“砂糖”と“ミルク”も付けた。“皿”の上に“コーヒーカップ”中には“コーヒー”が入ってる。これが“普通”の人が良くする日常十分通じるし当たり前の日常会話。これをもっと【自分なり】に伝えたい。そうすると自然に言葉が増えていく。歩いていたら【お洒落な】“喫茶店”を見つけた。そこで【定番で人気】の“ホットコーヒー”を頼んだ。もちろん【角】“砂糖”を2つとコーヒーが冷めないように【あったかい】“ミルク”も付けた。【小さい】“皿”の上に【大きな】“コーヒーカップ”中には【いい匂いのする】大好きな“コーヒー”が入ってる。これは1つの“例”に過ぎないが周りと得たものは一緒だけど自分の理解のしかた1つで【自分のだけのモノ】に出来る。無理に物事を考えずに- “在るもの”に“自分”を少し足すだけで - - 『似たようでないもの』が作れる -自分からしてみれば 「 ハナで笑えるような代物。 」相手からしてみたら『 似てはいるけど“全く違う”商品 』そこから“興味”が沸いてくればそこからさらに細分化して“原料”や“成分”“カタチ”や“重さ”みたいにモノに対して詳しくなってくる。そうなってくると今度はそこに何が【必要なモノ】が見えてくる。上の例からすればコーヒーなら ≪コーヒー+○○≫これが見えてきたら最後は “違うところに存在するもの”で≪ 今在るモノで“全く同じもの”と 誰もが認識できるようなモノ ≫を作れるかを考えてみる。これが最後まで出来る人なら 色々な【原石】を知る事が出来る。これは人間関係だろうが関係なくどんなモノも≪同じモノ≫にしたり≪違うモノ≫にも出来るようになる。人間の認識って恐ろしいもので“正しい”と思う事には“常識”と捉えて“違う”と思うモノにはとことん“批判”する。でも、それが個人の発言だとしたら『同じモノは存在しないはず』なのだから世の意見として甲乙をつけるのではなくいくら非常識な事だとしても1つの意見として“認める”事。いくら馬鹿げた理由だとしてもその意見の“真意”に気付いてあげる事。そして【求められたら】甲乙をつける事はせずに≪自分の意見を素直に述べる≫事。正しい事は決めなくていい正しい事は想うだけで十分。広める事をするのなら強く【握り持つ】事をすればいい。欲を持たない“本物”の人は他人の【原石】を見つけた時には誰にも言う事はしないよ。ただただ“輝く”時を待って誰にも気付かれないようにそっと、背中を押しているから。傷が出来たら【埋めて】あげればいい。穴が空いてたら【塞いで】あげればいい。凹んでしまったら【戻して】あげればいい。必要な分を【必要な分】だけ。著しく成長を促すのではなく≪最初から“持っている才能”を元の位置まで【戻して】あげる≫だけ相手が“本当にやりたかった事”を≪“幻想”として【見せて】あげる≫だけ。“嘘”も“欲”も必要ない。自由な発言に意味を持てるなら些細な事でも重さを感じる事が出来る。重く沈んだ漬物石を見つけなら見つからないように“軽い蓋”をのせてそっと【隠して】しまえばいい。“欲が充満した部屋”が嫌なら換気する為に開けてある窓を抜ける【風】になればいい。必要な時に必要な事をする。それを“偶然”起きた時に【自然】に振る舞えばいい。求められた時に期待に応えるのではなく≪欠けたモノを確認してもらう為≫に全身が映る【鏡】を置いておきますのでまずは一度、自分を見つめ直してもらって相手の気の済むまでしっかり【お色直し】してもらってから。ギッシリ身が詰まった状態で時間の余る限り“お話”してみましょ。ゆっくり時間をかけながら - コーヒー - でも飲みながら、、、ね。
簡単なことからはじめたらまずは答えを見ないこと。思い通りのことを思った通りにしてみること。初めから考えて行動しても先のことを考えてしまっては前に出る前に事は終わってしまう。わからないことはたくさんあったほうがいい。相手が1枚上手だったとしても追い越そうと努力する前にどこで “ いったん引いて考える ” か。押されたものを押し返すには目的に対してそれ以上の負荷がかかる。得たもの活かす前に目的が目的ではなくなってしまう。少しでもことに負荷がかかる時に「 どの方角から力が働いているのか 」 を見抜く事が駆け引きのコツ。起承転結を組み立てることを考えなくたって“はじまり”と“おわり”さえ決めればあとはどうだって物語は作れる。ただ、少しでも“欲”を持てば誰もが通る道を走るだけになる。重要なのは『自由』でいる事ありのままをそのままでいい。“自分でいられる”事を守ること。必ずしも良い事をした人すべてを“正しい”を認識するのではなくどんなに悪い人だろうと『これが“自分なんだ!”と言える』ような人を評価できるような人間でありたい。少しでも世間と違うものを当たり前のようにできる人をなぜ“非常識”と言うんだ?何かを犯す事には何かしらの“理由”があるのに“人”が犯した罪を“法”で裁く人間は“動機”を聞いても“善”以外の答えを認めようとはしない。重要なのはそこじゃない。『 相手が求めている隠された“真意”に さりげなく気付いてあげる 』 事。認めることまではしなくていい。答えを“知る”事に意味がある。- 財宝は “常に” 見えない位置に隠されてる -見えた位置にあるのは“目印”だけ。得るものは“カタチ”に残せばいい・・・が。誰も 『 見せていい 』とは言ってない。“残すもの”は相手はいらない。【 遺るもの 】は相手には見えない。消去法は 自分で判断して選ぶものなら答えは誰もが “ 残ったもの ” になる。では、自分で選ぶことをしないで遺ったものだけを 集めてみたら見えないところにあるものも見えるようになる。“根が太い”と意味を知る人に見たことあるのか?と聞いても『しっかりしている』としか返事は帰ってこない。それもそのはず普段見た印象は【 陽に当たる葉のついた色づいてた花 】とてもじゃないけどきれいに色づいて咲いている花をわざわざ掘り起こして根本なんて見ないでしょ?そんなことは誰でもわかること知りたい事はそこじゃない。相手は“評価”を求めているわけではない。ただ『意味』を理解してもらいたいだけ。お話はいくら聞いても余計な事は言わないようにする。自分の意見はご法度。聞かれたら答えるようにする。例えそれが“正論”と言われようとも答えずに今は場に耳を傾けて。まだ、先に進める事を教えなくていい。進むことを考えてもらうまでは相手より先走る事は“本音”が出るまではジッとしよう。話の中の一瞬のスキをついて一発で状況を一転できるような一言で相手の思考のピークの範疇を少し超えるくらいで駆け引きをしていこう。自分の意見はいくら言えても行動が先走ってしまったら何を試しても答えを後から探すことになる。自分から問いを出してしまえば必死に相手は答えようとする。出来た事に満足してしまえば後はどう対策したらいいのかを考えることはしなくなる。“正しい事”なんて決まりはないのに・・・。自分が行っている行動をどのように説明して“分析”できるのか?相手の行動に対してどんな解釈をして“違う”方法を考えるか?これを見方を変えれば立場が変われば変わるほど“正しい意見”は多数決になる。でも、答えをひとつにする事は“覚える事”を増やすことになる。- 考える事をひとつ失うことになる -それは決して他人に『自慢』することでもなく地道に守っていれば通用するだけの事。それを本当の答えにするなら自分の意見はもう使えない。自分で考えたわけでもない意見を周りに広める必要はない。そんなことしなくたって周りは先に進もうとしている。だったらさ・・・1歩先の事でも考えてればいいじゃない。たとえ無駄な事でもいいからさ。話は“聞く”“話す”以外にも【繋げる】【広げる】そして『伝える』。こんな遊び方も出来るだ。会話をもっと楽しんでみな。その際、何も考えなくていい。ありのままの自分を“表現”すりゃいい。そこで小さな共感を得てからどうやって『おもてなし』として返すのか?予測できない話の内容に対してどう盛り上げていけばいいのか?上司や先輩の目の前でどうやって“刺さる冗談”をかましてみようか?そんな事を考えててみな?自然を言葉が溢れてくるはずだよ。- 誰もが自分の意見を隠している -でも、言わずに多数決で物事が決まるなら【余計な事】を考えない生き方のほうが余程、頭の回転は速い。例え話が上手く伝わるようになれば違う事を正しく認識させることもできる。違う分野で同じ事を共有できる技術って言葉以外のなにものでもない。言葉で説明する内容は多いのにいざ行動に起こすと話していた内容と差が出る。それはつまり示すものに対しての“表現”を『不利なモノから説明しようとする』からで【有利な事を相手に悟られない様にするため】の人間の“心理”でもある。・・・でも、それを逆手に取ってみよう。自分に有利な事を相手にさらけ出せば相手は自分が不利になる事を考えてくる。自分が行動している事の“真意”に気付くまで相手は必死にどう感じようとするかを考える。重要なのは『 自分を相手がどう考えようとしているか? 』という事。そうなったら今度はこっちから相手に仕掛けていけばいい。その相手が“考えている事”を感じ取って素直に表現していけばいい。その際、見代わりを求めてはいけない。少しでも欲を持てばどんどん黒くなる。炭になったら二度と使えなくなる。自分の答えを伏せた状態でサラッと相手の求める答えを表現できれば答えを見つける事を考えなくても探すための知識を得ることができる。得たものは“飾る”事で映える。だったら綺麗に飾りたいのが性。ホコリを被ったって【たからもの】はいつだって光ってる。古臭いといわれたって錆びないように手入れしたものは一生大事に使える。モノを大事に扱えるのなら音も声も言葉もモノは質より量より“使い方”言葉とモノと違うのは- ひっくり返しても“同じように使う方法がある”事。攻めに対して“受け”があるなら表に対して“裏”は必ず存在する。光があってこその“闇”があり海があるから“空”が見える。1つの答えには【2つの“意味”】がある。つまり、そういう事。