明治の元勲、山縣有朋(やまがたありとも)ゆかりの別邸皆春荘(かいしゅんそう)と古稀庵(こきあん)・・・は山門を見ただけでしたが・・・を後にして、ここ小田原市板橋一帯に集まる別邸群の案内図にあった“松永記念館”を訪ねます。
松永記念館も老欅荘(ろうきょそう)ももちろん初見なのですが、だからこそよけいに楽しみでもあります。
皆春荘から古稀庵へ下る坂道の途中に“旧大倉男爵別邸 山月”という看板があり、近隣別邸群の案内図によると、ここは大成建設など大倉財閥の創始者大倉喜八郎(おおくらきはちろう)氏の別邸なのですが、立入禁止の札が下がり、現在一般公開はされていないようです。
人の手が入らないので今はこのように荒れ果てていますが、それはそれは立派な入口の門柱に、玄関へと続くアプローチには巨大な石燈籠がいくつも遺されていて、敷地の広さとお邸の大きさが偲ばれます。
上の写真は小田原市のホームページよりお借りしました。それによると、玄関ホールの床は桜と欅(けやき)の寄木板張り、大広間の天井は雀と蝶の透かし彫りの鏡板を交互に使った格天井(ごうてんじょう)、応接間の天井は網代(あじろ)と杉柾(すぎまさ)の市松模様など凝りに凝った意匠になっていたそうで、返す返すも見学できないのが残念でなりません。
さて、古稀庵を後にして松永記念館へ抜ける“竹の小径”を歩きます。
門柱の「松永記念館」の横には小さく“小田原市郷土文化館分館”と添えられています。
入口の案内看板を読んでいるとちょうど職員の方が通りかかられ、松永記念館の概要説明と「初めてでしたらぜひ一番奥の“老欅荘(ろうきょそう)”からの見学をおすすめします」とルートまで丁寧に教えてくださったので、その通りに行ってみます。
本館の前は広い池で、その周りに樹々の植えられた散策路が巡らされています。
池越しにのぞむ記念館の本館(左)と別館(右)。ところでこの松永記念館は、明治から昭和にかけて日本の電力業界を牽引し、別名“電力の鬼”とも呼ばれた実業家の松永安左エ門(まつながやすざえもん)氏が、自身で収集した古美術品を公開するために財団法人を設立し、自宅の敷地内に建てた施設だそうです。
湖畔の茶室を通り過ぎ、案内板に従って石段を上ると
目に前に樹齢400年を超えるという欅(けやき)の大木が聳え、“老欅荘(ろうきょそう)”の名はこれに由来するそうです。
振り返ったところが老欅荘の大門、現在は使われていません。
大欅を左に見ながら、誘(いざな)うように続く石段を上ります。
老欅荘は松永安左エ門氏が1946(昭和21)年、それまで住んでいた埼玉県梁瀬(やなせ・現在の所沢市)の地から温暖な気候を求めて小田原に移り住み、奥さまとともに晩年を過ごすために建てたご自宅だそうです。
安左エ門氏が日々杖をつきつき行き来したという石段を、わたしたちもゆっくりと上ります。
老欅荘の正面玄関。ですがここは今は使われておらず、
少し先に設けられた通用口から入ります。沓脱(くつぬぎ)が小学校の下駄箱みたいな雰囲気で懐かしいです。
通用口を入るとすぐに取り付きの6畳間があり、ここでまず職員の方から松永安左エ門氏の経歴や業績について、また60歳を機にはじめた茶の湯に精通し、“耳庵(じあん)”と号する茶人として当代随一の茶人、政治家、芸術家たちを招いて度々茶会を催し交流を深めていたことから、益田孝(鈍翁・どんのう)、原富太郎(三渓・さんけい)とともに“近代三茶人”の一人に数えられていたことなどの説明を受けます。
その中で驚いたのが、安左エ門氏のご出身が長崎県の壱岐(いき)だったこと、埼玉県所沢市にお住まいだったこと、墓所が埼玉県新座市の平林寺(へいりんじ)にあることで、長崎と埼玉という共通点に勝手に親近感を覚え、新座の平林寺はとても好きなお寺さんで幾度も行ったことがあるのも何かご縁を感じて嬉しかったです。そして電力王といえば2021(令和3)年11月の木曽路旅で偶然出会った福澤桃介氏を思い出すのですが、お二人は慶應義塾大学で学友として知り合い、一時はともに会社を興すなど懇意にしていた時期もあり、桃介氏との出会いが安左エ門氏が電力事業に取り組むきっかけにもなったそうです。こうして別々に知った点と点がつながる瞬間って何度経験しても幸せなものだな~と思います。
希望すると、職員の方の案内で邸内を回ることができます。ここは正面玄関を入ってすぐの三畳寄付(よりつき)の間。炉(ろ)が切られているので茶室としても使えますが、通常は玄関から入った客がまず立ち寄る待合として使われていたそうです。
美しい網代(あじろ)天井もモダンな照明も当時のままだそうです。申し遅れましたが老欅荘の写真撮影は邸内から庭園など外を撮るのは自由で、邸内を撮ったものは個人で鑑賞するだけなら問題ありませんが、撮影したものをSNS等で公開するには許可が必要です。わたしも今回の記事を書くにあたり記念館別館で所定の申請書を提出し、ブログアップおよび写真使用の許可をいただきました。
三畳寄付から正面玄関をのぞむ。壁を丸くくり抜いただけの窓は茶入(ちゃいれ)のようにも、また香合(こうごう)のようにも、あるいはお茶に添える主菓子(おもがし)のようにも見えて、安左エ門氏の遊び心が感じられます。
内から見た正面玄関。
三畳寄付の床の間。
やわらかな光の射し込む10畳の和室は一子夫人の居室で、夫人の写真も飾られています。老欅荘は建築当初は15坪ほどの小さな建物で、8年の歳月をかけて少しずつ増築し現在の45坪の大きさになったそうですが、それでも当時の日本を代表する実業家の自宅としてはとてもこじんまりとしていて驚くのですが、この後見学していくにつれて、それこそが安左エ門氏のこだわりであったのかもしれないと思えてきます。
欄間(らんま)は女性の部屋らしい櫛形(くしがた)、庭に面した窓枠の桟(さん)はあくまで細く、しかも横桟を斜めにカットして面取りをし、埃が溜まりにくいよう、そして手にも優しく仕上げるという奥さまへの細かな気配りに敬服します。
正面玄関を入り寄付(よりつき)を経て、こちらが変わり10畳床の間つきの座敷です。10畳の畳の敷き方がとても独特で、既成概念にとらわれない自由な発想を具現化するために、すべて特注で作られたそうです。邸の大きさではなく、こういうところにこだわりと熱意を傾けられたのですね。
10畳座敷のぐるりには畳を敷き詰めた縁座敷がつづき、座敷と一体化してより広さと奥行きを感じさせます。安左エ門氏はこの縁座敷をとても好まれ、晩年は椅子を置き、一日ここで過ごされていたそうです。
付書院のある床の間の前の畳は、床の間の幅に合わせた特注品で、細長い珍しい形をしています。これに合わせて10畳間にするので、結果ほかの畳も変形となるわけですね。なるほど~。
建設当時、縁座敷からは遠く相模湾がのぞめ、海に囲まれた壱岐(いき)島出身の安左エ門氏は殊のほかここからの眺めがお好きだったそうです。長崎出身、そして今は海なし県の埼玉県人のわたしたちも、そのお気持ち、よ~くわかります。
縁座敷の左手は一子夫人の居室、
右手には茶室へつづく飛び石と躙(にじ)り口が見えます。
縁座敷から茶室へつづく廊下を見ると、なんと外側とはいえ、付書院の途中という奇抜な位置に一本の竹がはめ込まれ、
扉を閉めるとその竹が枠になるという仕掛けになっています。限られた空間を最大限に活かしつつ実用性も諦めず、しかも数寄をも忘れない工夫に感心します。
その奥の四畳半台目(だいめ)の茶室。中柱をはさみ釣棚(つりだな)のあるところが点前座(てまえざ)で、炉と床の間の位置からすると、正客(しょうきゃく)は亭主(ていしゅ)にお尻を向けて座ることになるのかなと思うのですが、実際はどうなのでしょう。いずれにしても、四畳半台目の茶室がふつうのお宅にあるのをわたしは今回はじめて拝見して、とても感激しました。
茶室に肘掛窓があるのも珍しい。
そして茶室の点前座からつづくのは、
“鎖の間”と呼ばれる8畳の和室です。ここはあえて田舎家ふうに仕上げるために、畳には手間暇のかかる最高級の龍鬢表(りゅうびんおもて)を使いながらも縁(へり)を付けず、鄙びた味わいを醸し出しているそうです。またこの部屋には炉の代わりに囲炉裏が切られ、お茶事のあと囲炉裏を囲んで酒を酌み交わしたりもしたそうです。
その奥はパンフレットでは水屋(みずや)となっているのですが、実はここもれっきとした変わり三畳の茶室です。奥が文字どおりの水屋、その右の扉は茶器などの収蔵庫へつづき、手前の板張りの四角い出っ張りの下に炉が切られ、右手には床柱をあしらった平床もあり、掛軸が掛けられるようになっています。
この三畳の茶室を見ていたら、どういうわけか日々長火鉢に沸く鉄瓶の湯で茶を点て、こむずかしい作法など気にせず、ただお茶とお菓子を味わえばいいんだよと口癖のように言っていた実家の母を思い出しました。その話をすると職員の方が、安左エ門氏がまさしくそうで、茶は生活の一部という思いから、それを実践するために老欅荘のどの部屋でもお茶を楽しめるようにこの家を作られたとのこと。偉大な茶人と並べるのは烏滸がましくもありますが、こころから茶道を愛し生活そのものがつねにお茶と一体化していた母を久しぶりに思い出して、とても温かい気持ちになりました。
鎖の間から見た茶室。
快適に過ごすための工夫もあちこちにあり、当時は珍しかった網戸が備えられていたり、
二階建てではないのですが、一子夫人の居室の横には階段があり、上ると
10畳の座敷の天井裏一面が広い収納スペースになっていたそうです。
階段下には大きな金庫も備え付けられています。
職員の方の説明を聞きながらゆっくりと邸内を見学した後は、
瓦を埋め込んだ土塀に設けられた門から庭に出ます。
玉砂利の敷かれた雨落ちも風情がありますね~。
夫人とともに暮らすために、そしてここで日々お茶を楽しむために、自身の美意識に忠実に丁寧に建てられて、住まわれていたことがよくわかる老欅荘。職員の方が記念館より先に行ってみてとすすめてくださったわけがとてもよくわかりました。
老欅荘を出ると、目の前が“無住庵(むじゅうあん)”という田舎家ふうの建物です。
無住庵は、安左エ門氏の所沢の住まいにあった当時築200年を超える農家の古材を用いて1955(昭和30)年、老欅荘の裏手に設(しつら)えたもので、内部にはやはり炉が切られ、田舎家ふうの茶室になっています。
大梁(おおはり)の上には葦簀(よしず)張りの化粧天井、
土壁には長めの藁すさが練り込まれるなど田舎家を演出しながらも、とても手の込んだつくりになっています。
安左エ門氏の没後、無住庵は近くの民家に移築されていましたが、2017(平成29)年小田原市に寄贈され、2020(令和2)年に再び敷地内に移築、復元されたそうです。茅葺屋根の上に銅板が葺かれているのが珍しくてお聞きすると、復元の際消防法との兼ね合いでこのような形になったとのことでした。
庭には蹲踞(つくばい)と、
珍しい九重塔(くじゅうのとう)もあります。
上段から池の端に下り、茶室を見に行きます。
門を入ると巨大な石棺のようなものが・・・。これも松永コレクションのひとつで、案内板によると「東大寺石造蓮池」となっています。鎌倉時代に造られた東大寺旧蔵のお品だそうです。
庭の向こうに見える茶室は“葉雨庵(よううあん)”といい、案内板によると、もとは中外商業新報(現在の日本経済新聞)や三越百貨店の社長を歴任した野崎広太氏(号は幻庵)の別邸内にあったものを、1986(昭和61)年に移築したそうです。
飛び石づたいに露地を歩いてゆくと待合に出て、
蹲踞(つくばい)の前が躙(にじ)り口。
ぐにゃりと折れ曲がった中柱を置いた三畳台目(だいめ)の茶室です。
床脇に開いた茶道口。葉雨庵の内部には入れず、外から見るだけなのでこの位置からはわかりませんが、案内板によるとこの葉雨庵は裏の水屋がとても広いそうです。
葉雨庵と並び立つ新しい建物は
パンフレットを見ると茶室附属棟の“烏薬亭(うやくてい)”で、
葉雨庵の利便性を図るために建てられたものだそうです。ここまでとても個性的な茶室ばかりをたくさん見てきたからか、新しく、ごくふつうの茶室にはあまりこころを動かされませんでした。
最後に松永記念館本館と別館の展示を見に行きます。安左エ門氏の没後財団法人松永記念館は1979(昭和54)年に解散し、敷地と建物は小田原市に寄贈されていたところ、翌年整備のうえ小田原市郷土文化館分館として新たに開館し、以降展示室では常設展に加え、特別展や企画展などが随時催されているそうです。
帰途につく前、松永記念館前にある香林寺(こうりんじ)に立ち寄りました。
山門をくぐると、
参道の両側には石仏がたくさん。
鐘楼。1859(安政6)年に鋳造された梵鐘(ぼんしょう)は戦時中に供出され、現在のものは1976(昭和51)年に再鋳されたそうです。
縁起によると香林寺は1487(文明16)年に創建された曹洞宗の寺院で、御本尊は薬師如来、海蔵寺(かいぞうじ)、久野総世寺(くのそうせいじ)とともに曹洞宗の小田原三寺と称されるそうです。
本堂手前の“弁天堂”。江ノ島弁天を勧請(かんじょう)し、香林寺の鎮守として祀られているそうです。
本堂裏の竹林の中には
“韶陽窟(じょうようくつ)”という石室が遺されていて、
案内板によるとここは、最乗寺第二代韶陽以遠禅師が応永年間に修行をされたところと伝わるそうです。
庭園の“結界門”を抜けると、
中央に三層仏塔、周囲に十二支守護尊が等分に配されて、自身の生まれ歳の守護尊にお参りできるようになっています。
ちょうど歩き疲れたところに腰掛けて心を浄める“洗心台”が置かれていて、しばし腰を下ろしてお茶を飲み、ホッと一息つきました。梅見にはすっかりフラれてしまいましたが、偶然出会った皆春荘(かいしゅんそう)と松永記念館のおかげで、思った以上に有意義なひとときを過ごさせていただきました。早春の小田原さんぽ、ほっこりと楽しい一日でした。
yantaro