興津坐漁荘(ざぎょそう)と清見寺(せいけんじ)は思っていた以上に見どころが多く、清水港河岸の市で遅めの昼食をとるともう午後2時を回っていて、浜松まで足を伸ばすつもりが難しくなったので、車で30分ほどの駿府城(すんぷじょう)公園へ行ってみることにしました。

 

 地図もガイドブックも“駿府城公園”と表記されているので、徳川家康が築城した駿府城そのものは今は遺っておらず、その跡地が公園になっているようです。近くの地下駐車場に車を停めて出てくると、早速美しい石垣と堀の水が見えましたラブラブ

 

 満々と水を湛える内堀・・・と思っていましたが、このあと中で復元模型を見ると、ここは“二ノ丸堀”であることがわかりました。駿府城は外側から“三ノ丸堀(外堀)”、“二ノ丸堀(中堀)”、“本丸堀(内堀)”と三重の堀に守られていたようです。

 

 駐車場から一番近い“北御門橋”から入ります。石垣が美しい合格

 

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 堀から直接石垣まで登れるあの階段は、後から作られたものでしょうかはてなマーク。その部分の石垣の石だけが小さいのもちょっと気になります。修復の跡かなはてなマーク

 

 園内に入ると、天守台跡の発掘調査のため迂回の立て看板がありました。

 

 紅葉山庭園前の広場。イベントなどができそうな広いスペースです。

 

 あっビックリマークここが発掘調査現場みたいです。「見学無料」って書いてある!!

 

 城跡も今ではこんなにのどかな公園。まさに兵(つわもの)どもが夢の跡・・・。

 

 一画に徳川家康公の銅像があります。先日の静岡旅のとき、浜松城の本丸跡で見た銅像は壮年期の家康公でしたが、こちらは将軍職を秀忠に譲り大御所となってからのお姿で、恰幅もよく、鷹狩りときの様子を表わしているようです。

 

 近くには“家康公お手植の蜜柑(みかん)”の木があります。静岡県の天然記念物にも指定されているそうで、大切に周囲をフェンスに守られています。この蜜柑は鎌倉時代に中国からもたらされた「ほんみかん」と呼ばれる紀州蜜柑の一種だそうで、紀州藩からの献上品オレンジを食してみたら、きっとお手植えされるほどに美味しかったのでしょうね。

 

 その近くに天守台発掘調査現場の見学ゾーン入口があります。

 

 おお~~っ目!! かなり広い発掘現場の周囲に見学者用の通路が設けられ、歩いて回ることができます。

 

 金箔瓦(きんぱくがわら)が出土したらしいですビックリマーク

 

 ここでは家康公が駿府城を築城した天正期(戦国時代)の石垣と、大御所となり駿府へ戻って来て城の大改修を行った慶長期(江戸時代)の石垣が同時に見られます。天正期(奥)の石垣は自然の石を加工せずに積む“野面(のづら)積み”なのに対し、慶長期(手前)のそれは大きな石を割って加工してから積む“打込み接(は)ぎ”になっています。

 

 駿府城は家康公亡き後1635(寛永12)年に城下の火災が延焼して天守が焼失、その後再建されることはなく、1707(宝永4)年の宝永地震、つづく1854(安政元)年の安政の大地震により城内の建物も石垣もほぼ全壊してしまい、1896(明治29)年には陸軍歩兵連隊の設置にともない天守台、本丸堀(内堀)などすべて埋め立てられるという運命を辿ったそうです。

 

 跡地は国から静岡市に払い下げられ駿府公園(のちに駿府城公園に改称)となり、市政100周年記念事業で巽櫓(たつみやぐら)や東御門などが復元されますが、公園再整備の一環として2016(平成28)年より始まった天守台跡地の発掘調査によって、天守台の正確な大きさを確定することができたそうです。それによると駿府城の天守台は江戸城や大阪城をも凌ぐ西辺約68m×北辺約61mという日本一の大きさ(広さ)を誇るものだったことが判明。まさに大御所の威光ここに極まれり、ですねキラキラ

 

 見学ゾーンの端には“発掘情報館きゃっしる”というプレハブがあり、

 

 発掘調査に関する最新情報が映像やパネルでわかりやすく解説されていたり、出土品の展示などもあります。発掘調査の後この場所はどうなるのだろうはてなマークと気になりますが、さすがに日本一大きな城を一から復元するわけにはいかないようで、上のパネルによると、歴史博物館とともに野外展示場として甦る予定のようです。

 

 発掘調査現場の見学はわくわくして楽しくて、めっちゃテンション上がりました!!

 

 さて、気づくと陽も傾いてきたので急いで園内を回ります。最初は2014(平成26)年に復元された“二ノ丸坤櫓(ひつじさるやぐら)”です。

 

 “坤(ひつじさる)”とは方位に十二支をあてはめて呼ぶときの未(ひつじ=南)と申(さる=西)の中間にあたる方角のことで、この櫓が城の南西に位置するところからついた呼び名だそうです。城の四隅に置かれる櫓は武器庫であると同時に、見張りや攻撃の拠点としての役割も大きいと言われています。

 

 坤櫓(ひつじさるやぐら)の復元は、発掘調査や宝暦年間の修復覚書などをもとに伝統的な手法を用い、できる限り原型に近い形でなされたそうです。床部分がガラス張りになっているのは櫓の床下を見られるようにするためだそうですが、係員の方の話によると、唯一の失敗はここに開閉できる部分を設けなかったことで、内部に虫などが紛れ込んでも取り除くことができないのだそうです。確かにそれらしき残骸がいくつか閉じ込められていましたあせる

 

 復元工事の詳細な記録が展示されています。

 

 フォトスポットもカメラ

 

 蒔絵(まきえ)の柄の立葵(たちあおい)は静岡市の市花だそうです。

 

 坤櫓は三階建てで見事に復元されているのですが、現行の建築基準法に適合していないので見学者を二階、三階へ上げることができず、せめてその小屋組みの構造だけでも見てほしいと吹き抜けにしてあるそうです。規則だから仕方がないのかもしれませんが、何とももったいない話ですね。

 

 駿府城復元模型。三重の堀ががっちりと守りを固めています。

 

 駿府城跡の石碑。

 

 あらはてなマークこの堀は公園に入るときに渡った二の丸堀(中堀)より内側にある気がしますが、埋め立てられた本丸堀(内堀)の名残りでしょうか・・・はてなマーク

 

 つづいて“東御門(ひがしごもん)”へ。

 

 ほんとうは東御門の外から順に通過しながら中に入りたかったのですが、この時点で時計はすでに午後3時45分。受付締切りまで15分しかなく、やむなく先に中を見学することにします。石段を上って左手が入口です。

 

 東御門の内部には模型やパネル、掛軸仕様の説明書きなどが数多く展示され、駿府城の歴史を時代を追いながら、時系列で知ることができるよう工夫されています。

 

 要所要所に備えられた“石落とし”。

 

 駿河国は室町時代に今川氏の領地となり、その全盛期に家康公(幼名松平竹千代)は今川義元の人質という身分で8歳~19歳までを駿府で過ごします。現在放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』でも描かれましたが、戦国争乱の中1569(永禄12)年に今川氏が滅び、その後甲斐の武田氏も滅ぶと、家康公は織田信長より駿河国を与えられます。

 

 家康公は1585(天正13)年に自身の居城とするため駿府城の築城を開始しますが、完成の翌年に関白豊臣秀吉の命により関東へ国替えとなり、秀吉亡き後関ヶ原の戦いで勝利を収め、1603(慶長8)年征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられて江戸幕府を開きます。(歴史の授業みたいな口調ですみません爆  笑あせる)

 

 1605(慶長10)年将軍職を二代徳川秀忠に譲った家康公はふたたび駿府城に戻り、ここを“大御所政治”の拠点とするため大々的な城の改修拡張工事を行い、同時に駿府の街づくりにも取り組みます。それが今の静岡市の原型になっているのですね。

 

 “家康公の人質時代”とよく言いますが、確かに人質として駿府に送られたとはいえ牢に閉じ込められるわけでもなく、今川氏の軍師ともいわれた興津(おきつ)清見寺(せいけんじ)の住職太原雪斎(たいげんせっさい)禅師より学問指南を受けるなど恵まれた環境にあった一面も垣間見えて、もっとも多感な青年期を駿河国で過ごした経験は、その後の家康公の人生に大きな影響を与えたのではないかと思います。そしてそれがよい思い出だったからこそ、晩年をまた駿府で過ごしたいと思われたのではないか・・・と想像しています。

 

 おっと、ぐずぐずしていたら巽櫓(たつみやぐら)の見学ができなくなりそうなので、東御門からつながれた渡り廊下を小走りに急ぎます。

 

 1989(平成元)年に復元された巽櫓(たつみやぐら)は駿府城二ノ丸の東南角に設けられた隅櫓(すみやぐら)で、隅にあわせてL字型に建てられた櫓は国内でもとても珍しいそうです。命名の由来は坤櫓(ひつじさるやぐら)と同じく、方角を十二支で表した辰(たつ=東)、巳(み=南)からきています。巽櫓は二階建てで、一階では1873(明治6)年の廃城令の後軍用地となったのち、静岡市に払い下げられ公園になるまでの過程が詳しく紹介されています。

 

 階段を上がるとそこは畳敷きの大広間で、閉館時間が迫っているので係員の方が畳の上にシートをひろげ、片づけの準備をしておられました。急げ~~っビックリマーク

 

 二階の一画で、ふたたび“竹千代(たけちよ)手習いの間”に出会いました。こちらの手習いの間は竹千代君が今川義元の人質時代、今川家の菩提寺でもあった臨済宗妙心寺派の古刹(こさつ)、臨済寺(りんざいじ)に預けられていたときの勉強部屋を再現したものだそうです。

 

 天井にはみごとな龍の絵。幼き日の家康公は清見寺(せいけんじ)でも臨済寺(りんざいじ)でも専用の勉強部屋を与えられ、英才教育を施されていたようです。やはり単なる人質ではなく、今川義元は我が子氏真(うじざね)の補佐役として竹千代を育てようとしていたのではないかと思われます。

 

 そして手習いの間の頭上には(徳川)慶喜(よしのぶ)書と添えられた有名な『東照公御遺訓(ごいくん)』(※上記は『東照宮遺訓』で同義)の額が掲げられています。今一度熟読すると、一字一句思い当たり身に沁みることばかり。豊穣の時代に生きるわたしたちこそ噛みしめるべき訓示かもしれません。

 

 最後に“天守台発掘調査現場全景模型”を見ていたら、ついに見学終了時刻になってしまいました。後ろ髪を引かれつつ巽櫓を後にします。

 

 さて時間の関係で後先になりましたが、二ノ丸堀(中堀)にかかる東御門橋を渡り、“東御門(ひがしごもん)”から入ってみます。慶長年間に築かれた東御門は火災で焼失後、1638(寛永15)年に再建されたそうですが、現在の東御門はその再建時の姿を忠実に甦らせるべく、伝統的な木造工法を用いて1996(平成8)年に復元されたものだそうです。

 

 東御門と巽櫓。

 

 高麗門(こまもん)をくぐるとそこは桝形(ますがた=方形の出入口)で、

 

 土塀には鉄砲狭間(てっぽうはざま)や矢狭間(やはざま)を配し、

 

 桝形の先は櫓門(やぐらもん)、さらに南および西の多聞櫓(たもんやぐら)を備えるという複雑な構造で、東御門は防御の要となる強固な門だったことがわかります。

 

 この赤い橋の下は“二ノ丸水路”で、案内板によるとこの水路は本丸堀と二ノ丸堀をつなぎ、本丸堀の水を外に出して水位を保つ役割をしていたそうです。

 

 公園の中にさらに“紅葉山庭園”という和風庭園があったのですが、残念なことにとうの昔に入園締切時間を過ぎていて、見学は叶いませんでした。こちらを先に見て野外の見学を後回しにすればよかったな~と思いましたが後の祭りあせる

 

 帰宅後駿府城公園のホームページを見ると、こんなにきれいな紅葉山庭園の写真が載っていました。四季折々の花々に立礼(りゅうれい)のお茶席まであるそうです。写真はホームページよりお借りしました。

 

 短時間の駆け足散策になってしまいましたが、静岡の街の中心部に位置する駿府城公園は、単に城跡をきれいな公園に整備しただけではないことがよくわかりました。みごとに復元された東御門や巽櫓、坤櫓の内部を見学することで駿府城の歴史をより深く知ることができ、一方ではダイナミックな発掘現場を目の当たりにすることでその歴史の一端を肌で感じることもできて、某キャラメルの広告ではありませんが、一粒で二度美味しい、そんな場所のような気がします。ちょうど今年の大河ドラマの舞台というのもタイムリーだったかなニコニコ

 

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