興津坐漁荘の見学を終え、そのパンフレットに載っていた“清見寺(せいけんじ)”が歩いてすぐのところにあるので、お参りしていくことにしました。

 

 国道1号線沿いの駐車場に車を停めて振り返ると、見えている伽藍だけでもかなりの大きさでびっくりぽんビックリマーク清見寺(静岡県静岡市)は、わたしたちが想像していたような小さなお寺さんではないようです。

 

 石段の上の“総門(そうもん)”。扁額は『東海名區(とうかいめいく)』と読めます。このときはここが静岡なので“東海地方の名勝地”みたいな意味かと思っていたのですがそうではなくて、この“東海”が指すのは“朝鮮半島の東の海”であることが後でわかりました。つまり朝鮮の東の海(日本海)にある場所=日本の名勝地という意味だと思われます。(※韓国では朝鮮半島を中心に東側の海(日本海)を東海(トンへ)、西側の海(黄海)を西海(ソヘ)、南側の海(対馬海峡付近)を南海(ナメ)と呼びます)

 

 そしてなんと総門をくぐるとすぐ目の前をJR東海道本線の線路が通っていて、ちょうど貨物列車が音を立てて走り抜けて行きました。寺号標(じごうひょう)や総門の奥なので線路は清見寺の境内を横切っていることになり、少なくとも清見寺は東海道線の開通以前からこの地にあるお寺さんのようです。

 

 跨線橋(こせんきょう)を渡ってすぐのこの場所は昔使われていた参道のようですが、今はガードレールが設置され通れなくなっています。

 

 1651(慶長4)年建造の“山門”は四脚門(しきゃくもん)様式です。上部の欄間の彫刻は名工左甚五郎(ひだりじんごろう)の弟子の作と伝わるそうです。

 

 山門脇には石塔と六地蔵(ろくじぞう)が控えています。石塔の案内板には“田中清左衛門逆修塔”とあり帰宅後調べると、“逆修(ぎゃくしゅ)”とは生前に自らの死後の冥福を祈り、仏事を行うことをいうそうです。また田中清左衛門は、関ヶ原の合戦の後、伊吹山中に潜んでいた石田三成を見つけて捕らえた人物だそうです。

 

image

 山門をくぐり正面にあるのが本堂だと思われるで、まずそちらに参拝します。

 

 広々として美しい境内。 

 

 重層入母屋造りの立派な堂宇(どうう)は、この後庫裡(くり)でいただいた栞を見ると“仏殿(ぶつでん)”となっています。仏殿は禅宗寺院における本堂の呼び名で、御本尊を擁する伽藍(がらん)の中心となる建物です。

 

 ところが参拝後内部をのぞくと、確かに正面には御本尊の“釈迦如来坐像”ほか二尊、左奥にも、また手前にはおびんずるさまが安置してあるのですが、片づけの最中なのか段ボール箱が置かれ雑然としていて、朝夕のお勤めや修行の場として使われているようには見えませんあせる

 

 仏殿の奥に点在するのは“五百羅漢像(ごひゃくらかんぞう)”です。一斉に伸びた草の陰になっていますが、近づいてみるとたくさんの羅漢さんがおられました。もう少し残暑が収まらないと草取りもできませんよね。

 

 仏殿向かって右には、唐破風(からはふ)造りの重厚な“大玄関”。

 

 その大玄関の先に仏殿より間口の広い“方丈(ほうじょう)”が見えます。

 

 大玄関前に蘇鉄(そてつ)に守られた“咸臨丸(かんりんまる)殉難碑(じゅんなんひ)”がありました。咸臨丸は徳川幕府がオランダに発注して建造した軍艦で、軍艦操練所師範の勝海舟(かつかいしゅう)らが乗艦し、日本で初めて太平洋横断を果たした艦として有名ですが、明治維新の折、近くの清水港において明治政府の軍艦による砲撃を受け殉死者を出したそうです。その英霊を鎮めるために1887(明治20)年、榎本武揚(えのもとたけあき)らがこの石碑を建て、除幕式を行ったそうです。

 

 まっすぐに続く美しい石畳。植え込みもきれいに整えられています。

 

 そしてこちらが清見寺(せいけんじ)の“大方丈(だいほうじょう)”。“方丈”とは一丈(約3m)四方の部屋の意で住職の居間を指しますが、禅宗では本堂を“方丈”とも呼びます。一般的なお寺では本堂はひとつ、つまり仏殿も兼ねますが、清見寺では先ほどお参りしてきた仏殿と方丈(本堂)が別になっていて、しかもそれぞれがとても大きいというのに驚くとともに、格式の高い大寺院であることがうかがえます。

 

 方丈前を彩る“臥龍梅(がりゅうばい)”。この梅はなんと徳川家康公手ずから接ぎ木をされたものだそうです。

 

 下から見上げる姿がとても美しい“鐘楼(しょうろう)”。

 

 拝観受付のある庫裡(くり)の入口を入ります。

 

 広い土間。

 

 拝観料はおとな300円です。入口の構えも立派。

 

 いただいた栞を見ると清見寺の創建は奈良時代で、東北の蝦夷(えぞ)に備え、東海道の要衝(ようしょう)であるこの地に設けられた“清見関(きよみがせき)”という関所の隣に、その鎮護のために建てられた仏堂が始まりだそうです。伽藍の規模から想像はしていましたが、やはり千三百年を超す古刹(こさつ)だったのですねラブラブ

 

 鎌倉時代には天台宗から禅宗に改宗し、以降足利尊氏や今川義元ら時の権力者たちの庇護を受けながら、駿河国の重要な寺院として繁栄を極めていたそうです。

 

 また江戸時代には、今川家の人質として幼少期を駿府(すんぷ)で過ごしていた徳川家康がこの清見寺の住職に師事して勉学に励んだり、大御所となり駿府城に戻ってからも、東海道を行き来した朝鮮通信使をここでもてなすなど深いつながりがあったので、その後も徳川一門による篤い帰依を受けたそうです。

 

 大方丈へ上がります。

 

 とても広いビックリマークなんとこの大方丈は百三十畳もあるそうです。さらに壁一面の懸板(かけいた)の多さにも驚きます。

 

 開け放った硝子窓にカーテンだけを見ると、洋館のような雰囲気も漂います。

 

 先ほどの仏殿ではなくこの大方丈が本堂のようなので、改めてお参りします。内陣には十一面観世音菩薩坐像が祀られているそうです。

 

 ひときわ大きな頭上の扁額は『永世孝享(えいせいこうきょう)』と読めます。これは慶長年間に琉球使節団として江戸参府していた琉球国の王子が、家康公に拝謁の後駿府城下で亡くなってしまったので、その死を悼んだ家康公によりこの清見寺に埋葬されたことに由来するそうです。それ以降江戸参府を終えた琉球使節団は帰路に必ず清見寺を訪れ墓参を欠かさず、後に直系の別の王子がこの扁額を奉納されたそうです。

 

image

 その左右の壁一面に掲げられた懸板や扁額は、同じく江戸参府の折に立ち寄った朝鮮通信使たちが詠んだ詩文だそうです。清見寺は歴代使節団の宿泊や接待の場として使われ、家康公自ら使節団をもてなした記録なども遺されているそうで、豊臣秀吉の朝鮮出兵以降悪化していた朝鮮との関係改善にも功があったはずで、これらは家康公による平和的な国際交流の記録としての価値も高いと思われます。

 

 『長吟對白雲(ちょうぎんたいはくうん)』の扁額は先ほど見てきた坐漁荘(ざぎょそう)の主、西園寺公望公の筆になるそうです。

 

 外陣の廊下の突きあたりになるここが内から見る“大玄関”。家康公の三女振姫(ふりひめ)により寄進されたものだそうです。床には仏殿と同じ敷瓦が敷かれ、大寺院にふさわしい広く重厚な玄関なのですが、ここの見どころはそれではなく、シミの浮き出た板張りの天井だというのです。

 

 “清見寺の血天井(ちてんじょう)”と呼ばれるその謂(いわ)れはこうです。昨年(2022)のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場する梶原景時(かじわらのかげとき)が1200(正治2)年、鎌倉を追放され西国へ逃れる途中清見関(きよみがせき)に差しかかったとき、幕府方の侍たちに襲われて一戦交え、そのときの人馬の血糊がついた床板などを、後年供養のため古材としてこの大玄関の天井に用いたところ、何百年も経っているのに不思議なことに血がにじんだり、馬の蹄(ひづめ)の跡が浮き出したりしたそうです。言われてみれば血の跡に見えないこともないけれど・・・。

 

 大方丈から見る臥龍梅と鐘楼。

 

 順路に従い大方丈をぐるりと取り囲む回廊をすすみます。

 

 仏殿と大方丈をつなぐ太鼓橋。

 

 額絵のような日本庭園が見えてきました。

 

 背後の山の風景をうまく生かした池泉(ちせん)回遊式の庭園は江戸時代初期、山本道斉という人物による築庭で、家康公は駿府城より石を運ばせるなど自らも積極的に作庭に関わったそうです。

 

image

 庭園を眺めながら回廊をすすむと、右手の一段高いところに

 

 “家康手習いの間”があります。今川家の人質となり駿府にいた松平竹千代(家康の幼名)の教育係は当時清見寺の住職を務めておられた太原雪斎(たいげんせっさい)禅師で、竹千代君は駿府よりここに通い、勉学に励まれたそうです。少し手狭ながら名勝庭園に面した書院造りの居室は、落ち着いて学問を修めるに相応しい場であったと思います。

 

 その奥の頭上には「徳川家康公陣中所用 乗輿(じょうよ)」が保存されているのですがどう見ても狭すぎて、過日久能山東照宮で見た家康公の手形から推測される中肉中背の男性が乗るにはあまりにも小さい気がします。

 

 栞によると美しく箒目を入れた手前の砂利盛りは“銀砂灘”と称するものだそうです。白砂なら銀沙灘(ぎんしゃだん)ですが、銀砂灘は初見のことば、“ぎんさだん”と読んでいいのでしょうかはてなマーク。子どもの頃勉学の合間にいつも眺めていた庭なればこそ、家康公の思い入れも一段と深かったことでしょう。

 

 つづいて庭園に面した一番奥の“書院”に向かいます。外廊下と畳廊下。

 

 この書院は1876(慶応3)年建築という清見寺の中では比較的新しいもので、徳川家の将軍のために作られたようで、釘隠しのほか障子の引手部分にまで三つ葉葵の透かしが入っています。

 

 中庭。

 

image

 床脇(とこわき)の天袋に描かれた八方睨みの龍の素晴らしいことビックリマーク

 

 その左手の御簾(みす)の奥が一段高い“玉座の間”。

 

 東京遷都のため京都から東京へ赴かれる明治天皇がその途上清見寺にお立ち寄りになり、ここでご休憩されたそうです。

 

image

 玉座の間はもちろん一番格式の高い部屋ではあるのですが、決して広くはない上にぐるりはこのように二重に障子を立てまわしてあるのでせっかくの名勝庭園を愛でることも叶わず、わたしの目にはただただ息苦しいだけに感じられますあせる。やんごとなき方々にもいろいろとご苦労があるのだなぁと思います。

 

 書院の回廊から見る庭園と大方丈、そして仏殿。

 

 書院のさらに奥にも次の間つきの広い座敷があります。

 

 琉球の三味線、三線(サンシン)も飾られています。

 

 こちらの床の間は、床脇の天袋と地袋(じぶくろ)の襖絵がアクセントのようです。

 

 書院脇の回廊。

 

 ひととおり拝観を終え、最後に庫裡の二階にある“潮音閣(ちょうおんかく)”へ上がります。

 

image

 階段を上るとそこは三面硝子の大広間ビックリマーク。開け放った窓から涼しい風が通り抜けます。

 

 位置的には先に見て来た西園寺公望公の別邸“坐漁荘(ざぎょそう)”の斜向かいにあたるので、今はこのように埋め立てられて清水港の埠頭越しにしか海は見えませんが、そのむかしは寺領からすぐそこが清見潟(きよみがた)で、三保の松原や伊豆半島まで素晴らしい眺望がひろがっていたことと思います。

 

 潮音閣からは鐘楼が目の前に見え、1314(正和3)年鋳造という梵鐘(ぼんしょう)も垣間見えます。この梵鐘は豊臣秀吉が北条氏討伐のため伊豆韮山(にらやま)城を攻めたとき、総攻撃の合図用に貸し出されたという逸話が残っているそうです。700余年の時を刻む由緒ある梵鐘の響きをぜひ一度、聴いてみたいものです。

 

 “潮音閣”という名のとおり、かつては寄せては返す波の音が聴こえたことと思いますが、今は代わりに眼下を行き交う東海道本線の列車の音が響きます。それもまた善き哉。

 

 興津(おきつ)は東海道五十三次の17番目の宿場町でもあり、東海道の要衝としての役割も大きく、その中で清見寺は外交の一端をも担うほどの寺勢を誇る大寺院だったようです。山号(巨鼇山・こごうさん)の“巨鼇”とは「神仙の住む海中の五山を背負う大きな海亀」という意味だそうです。千三百年の昔から日本の歴史とともに歩んできた興津清見寺。悠久の時の流れは今もなお、そしてこれからも、清見寺とともに刻まれてゆくのかもしれません。何と言っても亀は万年、大海亀ならその倍かもしれませんから・・・おねがい

 

 清見寺(せいけんじ)の正式名称は、「巨鼇山(こごうさん)求王院(ぐおういん)清見興国禅寺(せいけんこうこくぜんじ)」というそうです。

 

音譜音譜音譜 yantaro 音譜音譜音譜