ジュリアーノ・デ・メディチから招聘を受けたレオナルド・ダ・ヴィンチは、ヴァティカンのベルヴェデーレ宮殿の一室を与えられた。
「ベルヴェデーレの園丁のひとりが非常に奇妙な姿をしたトカゲを見つけると、レオナルドはこの生き物の背に水銀の合金で翼を取り付けた。それらの翼は他のトカゲから剥ぎ取った鱗で出来ており、トカゲが歩くたびに震えるのだった。彼はこのトカゲに目と角と髭もくっつけ、それを手なずけて箱に入れて飼っておき、訪れた友人に見せてぎょっとさせるのだった。」 ヴァザーリはこのように書き残している。
60才を過ぎたレオナルドはローマに3年間滞在したが、これといった大きな仕事を任されることもなく、ゆったりとした時間を過ごしたのではないかと思う。
1514年に書かれたメモには「7月7日の23時、(ある幾何学の説明を)完成。場所はベルヴェデーレの、マニーフィコ殿(ジュリアーノ・デ・メディチ)が私のためにしつらえてくれた工房である。」と書かれており、かつて研究した幾何学の研究にも再び打ち込んでいた。
アトランティコ手稿_f710a_マッツォッキオ
これはレオナルドが「Mazzocchio」と呼ぶ、幾何学的構造物のデッサンである。これは単なる紙上のものではなく、実際に厚紙とワックスで製作する方法と、鉛で製作する方法について言及している。
アトランティコ手稿_f696r_コンパス
レオナルドは科学的な研究も続けていて、貨幣を鋳造する装置や様々な形のコンパスをデザインしたり、モンテ・マリオで発見された貝の化石に興味を示したりしている。凹面鏡を使った太陽熱利用の発明で、ドイツ人の鏡職人とトラブルを起こした のもこのベルヴェデーレ宮殿だ。
当時ローマにはレオナルドと交友のあった建築家ブラマンテ やラファエロ、ミケランジェロをはじめ、かつての弟子アタランテ・ミリオリティ等も滞在しており、様々な交流があったと思われる。 「洗礼者ヨハネ」 を描き始めたのもこの頃である。
1515年12月には、後の庇護者となるフランソワ1世 に会うために、レオナルドはレオ10世とともにボローニャに行っており、翌年のジュリアーノ・デ・メディチ他界をきっかけに、フランスへと旅立つことになる。
フランソワ1世の戴冠式のために、レオナルドが製作したと言われている「機械仕掛けの獅子」 が、フィレンツェからリヨンへと送られている。