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レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、このサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会付属のドメニコ派旧修道院の食堂にある。壁画上部の半円形をしたルネットもレオナルドによるもので、スフォルツァ家の紋章が描かれている。


最後の晩餐(1495~1498年制作:420×910cm)
最後の晩餐は様々な画家が描いた主題だが、ギルランダイオやカスターニョの最後の晩餐は裏切り者のユダだけがテーブルの前面に座っているという分かりやすい設定になっている。しかし、レオナルドの最後の晩餐ではユダは他の使徒と同列に座っていて、一見誰がユダなのか分からないところが新しい。ヨハネの位置もイエスの右から左に変わっている。ダヴィンチ・コードではこの人物は女性でマグダラのマリアなのでは?とされたキリストの左隣の人物ヨハネは、伝統的にイエスの右側に眠るようなポーズか、イエスの胸に寄りかかるように描かれる。確かに一見女性っぽく見えるが、もともと聖書でもヨハネは使徒の中でも最も若くて美しいということになっている。ただ、レオナルドはなぜイエスとヨハネをこんなに離して描いたのかは分からない。ダン・ブラウンの小説のように聖杯を象徴する形を作っているという感じはしないのだが。
この世界一有名な壁画の解説として、レオナルドの友人ルカ・パチョーリの著書「神聖比例論」におさめられた1498年12月14日付けの献辞の文章を引用したい。
「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」という言語を絶した真実を告げるキリストの声を耳にした時の、これ以上に鋭い使徒達の注視の様子を想像することが出来ません。彼らの身振りや行為を通じて、使徒達は実際に互いに語り合っているように見えます。ひとりが別の者に、この者がまた別の者に、激しい疑念にさいなまれて話しかけているようです。我らがレオナルドは、その繊細なる手をもって、このように見事に壁画を書き上げたのでした。
壁画とは一致しない部分もあるが、レオナルドのノートにも使徒達の反応が書かれている。
ひとりは酒を飲んでいたところに話しかけられ、そのままの位置にグラスを残したまま、相手の方に振り向いている。
もう一人は手の指をよじらせながら、眉をしかめて仲間の方に振り向いている。こちらの男は両手を広げて掌を見せ、肩を耳元まですくめ、驚いたような口をしている。
振り向いているもう一人の者は、手にナイフを握り、テーブルの上のグラスをひっくり返している。
もう一人は、話している者の方に身を乗り出し、手を額にかざしている。
ぜひ最後の晩餐の登場人物の表情や身振り手振りを、クローズアップして見て欲しい。レオナルドの映画的表現によって、各人物の台詞までが連想されると思う。
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イエスと十二使徒(左から)

バルトロマイ
ガラリアにあるカナという町の出身。名はナタナエル。伝承ではアルメニアで生皮を剥がれ殉教。

小ヤコブ
アルファイの子、年少ヤコブとも呼ばれる。マタイ、タダイと家族関係の可能性もある。

アンデレ
ペテロの兄弟でイエスの最初の弟子の一人。ガラリア湖の漁師。ギリシャで処刑された。掌をこちらに向けて両手をあげるこの使徒は、何か不快なものを遠ざけようとしている。

イスカリオテのユダ
イエスを銀貨30枚で裏切る。12使徒のうちでただ一人、ガラリア地方以外の出身。会計係を務めていたとされる。その後、イエスを売った自責の念から首吊り自殺をする。陰に沈んだユダは、ただ一人感情を表に出していない。彼だけが、劇的な秘密をイエスと共有している。裏切りの報酬の銀貨が入った袋を手にして、イエスの発言に驚きのけぞっている。イエスの神体を象徴するパンに手を伸ばそうとしている瞬間も描かれている。

ペテロ
イエスの一番弟子でアンデレの兄弟。ガラリヤ湖の漁師。奇跡で大漁にしてもらい弟子になる。ローマで布教し、暴君ネロにより処刑。処刑跡がヴァチカンになった。初代ローマ教皇。ヨハネに「誰のことを言っているのだ!?」と耳打ちしている。ユダの背後から飛び出したナイフを持った手は、このペテロの手。

ヨハネ
漁師。大ヤコブの弟でゼベダイの息子。ペテロ、ヤコブとともに弟子の中心的存在だった。

イエス・キリスト
ガラリア湖に近いナザレ(現イスラエル北部)の町の大工だった。30歳前後で伝道活動をはじめ、3年後には「ユダヤの王」を名乗った罪で処刑された。ユダヤ教の厳格な律法の適用等に意義を唱え、愛と救済を説いた。「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」という衝撃的な発言をしてる。

トマス
漁師。復活したイエスを見るまでは信じないとした現実主義者。伝承ではペルシャとインドで伝道。「裏切り者は一人何ですか!?」と一指し指を上に向けている。

大ヤコブ
ガラリヤの漁師。ペテロ兄弟の次にイエスの弟子になった。ヘデロ・アグリッパにより処刑。

フィリポ
ガラリア湖の北の町ベトサイダの出身。フリギア(現トルコ)で磔になったという伝承がある。
レオナルドは伝統的なポーズを採用。ギルランダイオと同じく胸に手を当てている

マタイ
小ヤコブの兄弟で徴税人。マタイの福音書を書いたとされる。トルコやエチオピアで殉死の伝承がある。イエスに向けて両手を伸ばしながら、食卓の端にいる二人の使徒に話しかけている。その顔には疑念と絶望の感情が。

タダイ
この名は2つの福音書にのみ登場し、詳細は分かっていない。名はユダでヤコブの子の可能性が高い。

シモン
ローマ帝国に武力で抵抗する熱心党という結社に属していた。ペルシアで殉教したとされる。
当時サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会で見習い修道士をしていたバンデッロの記録からは、レオナルドの制作スタイルをうかがい知ることが出来き興味深い。レオナルドは裏切り者ユダのモデルを求めて、1年以上も街中を探し歩いたと言う。
レオナルドはよく朝早くにやって来た。それから足場に登り、仕事を始める。時には、夜明けから日没まで一度も絵筆を置くことなく、食べることも飲むことも忘れて休みなく書き続けることもあった。そうかと思うと、二日、三日、あるいは四日もの間、まったく絵筆を手に取らずに作品の前で数時間も立ち尽くし、腕組みをして、心の中で人物像を仔細に検討し批判していることもあった。また私は、太陽が一番高い正午頃に、突然の衝動に駆られた彼がコルテ・ヴェッキアから出てまっすぐにサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院へやって来るのを見かけたこともある。そうした時、彼は日差しを避けて歩くことも頭になく、そのまま足場によじ登り、絵筆を取って画面に一筆か二筆入れると、また去っていくのだった。
制作途中のスフォルツァ騎馬像のためのブロンズを、大砲の材料としてフェッラーラ公に送ってしまったルドヴィーコに「馬のことは何も申しますまい…。」と、レオナルドは文句の手紙をしたためた。
その後始まったこの壁画プロジェクトは無事に完成を迎えたのだが、フレスコではなくテンペラで壁画を描くというその実験的な手法が裏目に出てしまい、完成直後から壁面が剥落し始めてしまう。更に500年以上の歳月の中でこの食堂は、ナポレオン占領下では馬舎とされたり、中央下部に出入口の穴を明けられたり、第二次世界大戦中は連合軍の爆撃により大被害を受けたりと、様々な危機を乗り越えてこの奇跡的な壁画は現在に至っているのである。教会と修道院とも1980年に世界遺産に指定されている。

1943年、第二次世界大戦中に爆撃を受けた直後の修道院食堂。壁画を保護するための幕のおかげで、爆撃で飛び散った破片による損傷を受けずに済んだ。
かつてサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の南~サン・ヴィットーレ修道院との間辺りに、レオナルドは1ヘクタール程の葡萄畑と家を所有していた。ちょうど最後の晩餐が完成した頃に、ルドヴィーコから贈られた土地だ。後にここはサライと母親が暮らす所となり、現在ではミラノの上層ブルジョワ階級が住む地区になっている。近くには「レオナルドの菜園~オルティ・ディ・レオナルド」という名のレストランがあるらしい。