こんにちは、デイヴです
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2020年3月半ばに脳出血を発症。
左片麻痺の後遺症があるも、リハビリに勤しみながら
五体満足の身体に戻すべく奮闘中💪
日々の暮らしの中で起きた小さな出来事や
半年間の入院中のエピソード、
自分の歩んできた半生、
好きな鉄道ネタを気ままに綴っています
よろしくお願いします
画像はネットからお借りしていますm(__)m
昨日(12月8日)は、開戦記念日でした。
今を去ること80余年の
1941年12月8日、
ハワイ・オアフ島の真珠湾(パールハーバー)に停泊していた
米海軍の艦隊に日本海軍の戦闘機が爆撃を仕掛け、
太平洋(大東亜)戦争の火蓋が切られたのです。
その後の経過は、私たちが歴史で学んだ通りに進んでいき、
1945年8月15日のポツダム宣言受諾で、無条件降伏する
事態になりました。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」とたとえ通り、
敗戦国の指導者は
その後の東京裁判で徹底的に責められ、
その責めは戦勝国からだけではなく、
それまでは従順だったはずの国民からも怨嗟の声が
突きつけられてしまったのです。
終戦記念日の時期になると、決まって戦争責任者は誰か?
という問いかけが巷間に湧き立ち、
当時の軍部や政治家の名前が散りばめられていて、
「あくまでも国民は被害者」というテイです。
僕も若い頃は同じように「国民が被害者」という議論に首肯していましたが、
ここ最近、当時の指導者にすべての責任を押し付けるのは酷だな、
と感じています。
というのも、元々は1937年から始まった日中戦争(支那事変)の戦況が思わしくなく、
当時の覇権主義の日本に待ったをかけた連合国がウザくなって、
窮余の策として米国に牙を剥いたのが、真珠湾攻撃だったのです。
国民の中には、徐々に近づく戦争の足音に不気味さを感じて、
戦争は嫌だ、という者も多くいたと思います。
しかし、戦争反対を叫ぶ者は
「非国民」のレッテルが貼られ、
精神的にも物理的にも追い詰められていった史実があります。
じゃあ、これはすべて軍部主導で行われたことだったのか?
ここでいろんな説が出てきていますが、
僕は「一般の国民が戦争遂行を煽った」という説も
あながち空論ではない、と思っています。
当時の国民がしたためた日記からは、
「連合国と早く戦闘すれば良いのに」
という文章がそこかしこから発見されている
そうなんです。
要は、当時の閉塞した状況を打破するために、
「乾坤一擲」の国策を求めたのは、
政府の方ではなくて国民の側、になるわけで、
なかんずく、国民をその気にさせたのは、
新聞や雑誌などの活字メディアだったと言われていますが。
(メディアの功罪については、長くなるので割愛します)
実際、戦争反対者に先頭きって
非国民のレッテルを貼ったのは、
地元の町内会だったり、婦人会でした。
純粋に行く末を案じる人たちを
近しい組織が一刀両断にしました。
ちなみに当時の日本政府は
米英の戦力を十分承知しており、
戦争すれば間違いなく負けることが
わかっていたため、
本当は開戦したくなかったものの、
「戦争しません」と言えば、大暴動が起きて
政治家の政治生命が絶たれる恐れがあったことから、
「短期決戦ならなんとか和睦に持ち込めるかも」
という甘い予測で開戦しちゃったわけです。
それだけ政府も国民からの突き上げに切羽詰まっていた、といわれています。
敗戦となり、その後の東京裁判で
開戦当時の首脳はA級戦犯として断罪されて
罪を償うことになり、
国民は被害者ヅラするだけでしたが、
実は、一国民として開戦を煽ったことに
後ろめたさを感じたのは
1人や2人ではなかったんじゃないか、
そう思います。