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バイカルアザラシのnicoチャンネル

 サイコロジストの日常と非日常を季節の移ろいを交えて描いています。バイカルアザラシのnicoちゃんの独り言です。聞き流してください。

 今年のAmazonプライムディーに、ウエザーステーションをポチりました。風速や雨量や温度・湿度等、気象データを測定するグッズです。

 

 本体は画像の通りですが、少し改造を加えました。一つは足場ボルトに直付けしました。

M6の100mmボルトナット四本でワシャーをかましています。これで強度は格段に上がります。もう一つは雨量計の皿に防鳥スパイクを銅線で半田付けをして自作しました。これで鳥からのいたずらを防ぐことができます。

 

 送信機からは無線でコンソールにこのようなデータが送られます。一度パソコンで設定をすると、パソコンを介さずに定期的にデータをアップロードしてくれます。表示できるのは下記の通りです。

 

 時間 月日 時刻 曜日

 屋外 温度 湿度 露点温度

 屋内 温度 湿度

 風  風向 風速 平均風速

 雨量 一時間雨量

 月齢

 気圧

 

 

 気象データはweather cloudとweather undergroundにアップロードできます。undergroundは登録は無料ですが、後で課金されるので使っていません。weather cloud basicは無料でこのようなグラフを描くことができます。ただ、データのダウンロードができないなど機能に制限があります。気温・湿度・風速などの最高・最低を表示できます。

 

 

 このグラフですと一日の温度・湿度・風速・風向・雨量を描くことができます。自分の場合は、水田の水管理のために購入したのでこれで充分です。weather cloudはIDを取得すれば全国の私設の気象データをリアルタイムで見ることができます。また、外出先からも自分のデータを見ることができ、水田の水管理には便利です。

 

 気象庁のアメダスは21kmごと840箇所に温度・湿度・風速・風向・雨量を10分おきにデータを取っています。ウエザーステーションで45mmの雨量を記録したとき、2km離れたアメダスではその日の最大雨量が34mmで、これでは局地的な豪雨は見逃されてしまいます。

 

 特に中山間地では土砂災害警戒地域や鉄砲水が起こる地域があり、局地的豪雨は命を脅かすことがあります。私設の気象データなので誤差はあるにしても私たちの迅速で的確な避難や備えには、ウエザーステーションが教えてくれることは多々あると思いました。

 

 紀伊半島は伊勢湾台風で五千人の方々が亡くなりました。櫛田川も増水し、濁流にのまれたエピソードは生々しい話が残っています。地球温暖化で異状気象や異常高温などウエザーステーションが送ってくれるデータは私たちの命を守るうえで大切な情報の一つとなりつつあります。

 

 今から台風シーズンに入ります。そのときどんなデータを送ってくれるのか、楽しみです。むしろ活躍の場がなければそれが一番いいのですが。

 7月19日、宮川河川敷で神宮奉納花火大会が行われました。9,600発の花火により夜空を彩り、夏の風物詩です。昭和28年の第59回神宮式年遷宮から奉納されたのが始まりで、秋田県大曲と茨城県土浦と合わせて「日本三大花火大会」です。 

 

   

 当日は猛暑でしたが、河川敷に出ると風が吹いて夕方には涼しくなってきました。夜になると湿気が多くなり風も凪いできたので、花火で出る煙が立ちこめて何度か中断しましたが、花火日和としてはいい方だったと思います。

 

 県内だけでなく関西からの見物客が多かったようです。観光バスも数十台来ていました。

 

 規模的に言うと熊野花火大会の方が豪華です。熊野花火大会はもともと地元の人が合同の追善供養として打ち上げたことに始まります。今でも海岸には灯篭が並べられ、花火の特等席は亡くなった方々の霊です。フィナーレの花火は最後には海岸近くの山の木に燃え移ります。消防団が消火活動をするのは恒例の行事です。中でも船が全速力で花火を海上に浮かべ点火する海上爆発は熊野花火大会の見所です。豪華客船が何隻も連ね、熊野灘の地形を生かした大会は一度は見たいものです。今年は8月17日に行われます。

 

 熊野花火大会のもう一つの特色は、個人でもスポンサーになり打ち上げることができます。理髪組合の花火はハサミの形をしています。ニコニコマークがあったり、アニメのキャラも打ち上がります。極めつけはプロポーズのために二人のために打ち上げるというのも。まったくプライベートなうちあげ・・・! その結果はどうなったのでしょう? 成功する確率は格段に上がるかも。

 

 

  スターマインなのでBGMが入っています。これをそのままアップすると閲覧禁止になるため、音はミュートしてあります。私たちは著作権を侵害する意図は全くありません。ただ、花火師さん達の素晴らしい作品を一人でも多くの方に伝えたいだけです。花火は音を伴わないとその迫力が伝わりません。せめて画像だけでもその一部が伝われば幸いです。

 

 

 

 

 紀伊半島は大雨です。今の時間雨量は45mm。半島の中央を東西に流れる清流櫛田川は焦げ茶色の濁流になっています。音を立てて降っています。雨脚が見えるほど。

 

 アマゾンプライムディーでポチったウエザーステーション。早速、働きました。今も10mm程度降っています。警戒情報は解除となりました。一安心。今日一日は降ったりやんだりの繰り返し。

 

 この機種は観測データをweather cloudにアップロードでき、このような形で閲覧することができます。気象庁はアメダス観測地点840箇所(全国21km間隔毎)に風向・風速・降水量のデータを10分ごとに把握してます。さらにweather stationのような私設のデータを駆使すれば局地的な豪雨や異常高温を把握でき、災害や避難の参考になると思います。安価な物なので精度には限界がありますが、参考にはなるかと。

 

 こんな感じで風向・風速・温度・湿度の日変化をグラフ化できます。weather cloud basicは無料で、premiamなどアップグレードするとデータのダウンロードができますが、自分はそこまで必要ないので無料版を使っています。

 

 ちなみに近くにアメダスがありますが、この時刻には45mmも降っていませんでした。わずか2kmも離れれば全く降水量が違うことがあるのでょう。雨の降り方ってかなり局地的なのが分かります。

 

 明日からは晴れ間が続くようで、猛暑日の連続になりそうです。どちらがいいかと言えば、晴れて昼からは夕立がさっと降って、乾いて火照った大地が気化熱で涼しくなるのかいいです。それに萬古焼の豚の蚊取り線香の煙からたなびく香りがあれば、これは日本の夏です。でも、豪雨と猛暑日の連続で極端な夏が来そうな予感が。台風も一個も生まれなかったのに、今は連続で発生して平年並みを追い越そうとしています。

 九州に戦跡、南は知覧飛行場。鹿児島県に置かれた特攻基地のあるところです。北はと言えば、やはり長崎を忘れることはできません。1945年8月9日、アメリカ空軍のB29が九州の小倉を目指していました。沖縄がアメリカ軍に接収されて、日本がポツダム宣言を受け入れなければ、次は九州に上陸して地上戦が行われるという時期です。

 

 小倉は雲が多く攻撃目標は長崎に変更されます。長崎は山に囲まれて原爆が炸裂したときの威力を実験するには格好の地形をしていました。午前11:02で止まっている柱時計。プルトニウムが核反応を起こしファットマンは炸裂しました。

 

 その瞬間、何が起こったのでしょう。熱線で解けたガラス瓶。長崎の地上がどんな温度になったかを伝えています。こんな兵器を人間の頭の上に落としていいものなのでしょうか。戦争では人道の罪が国際法で決められています。市民を無差別に攻撃することは認められていません。しかし、彼らはそれを行いました。

 

 もうすぐお昼の時間。女学生が食べる弁当はピカドンで炭になってしまいました。それは弁当箱とともに原爆の恐ろしさを伝える遺品となりました。彼女の夢はどこに行ったのでしょう。彼女の未来は一瞬の閃光とともに消えました。

 

 救世主イエスの十二人のお弟子の一人、聖ヨハネ。彼は気性の激しい男でしたが、愛の人に変えられました。大理石のこのお顔は、もとはどんな表情だったのでしょう。一見オランウータンのような眼差し。長崎原爆死没者追悼平和祈念館には救い主を抱いた聖母マリアもいます。涙を流しています。それは、光の加減なのかもしれません。自分の心に宿った心象風景だったのかもしれません。ローマ教会に列聖された殉教者達、2000年後、プルトニウムの光に浴びるとはだれが想像したでしょう。そのとき、聖人達も被爆したのです。

 

 順路をたどっていくと一種の違和感を覚えました。あの写真がない。あの画像がなければどうしても長崎の原爆を語れない。なぜ展示してないのか?

 

 果たして、展示してありました。順路の最後で見つけた一枚の画像です。これがなければ祈念館の意味が失われてしまうほど大切な一枚です。

 

 

 アメリカの従軍写真家ジョセフ・ロジャー・オダネルは私用のカメラで長崎や広島を撮影していました。「焼き場に立つ少年」という題名をつけられた一枚。この写真は長く彼のトランクの中に密かにしまってありました。私的に被爆後の広島・長崎を撮影することは軍の規律に反することでした。しかし、戦争の惨禍を伝えなければ・・・。彼は重いトランクを開けました。45年間封印された写真が日の目を見た瞬間です。秘められた文書は歴史が必要とするときに発見されるものです。

 

 真っ赤な夕日のようなほのおは、直立不動の少年のまだあどけないほおを赤くてらしました。その時です、ほのおを食い入るように見つめる少年のくちびるに、血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年があまりきつくかみしめているため、くちびるの血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のようなほのおが静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。

 

 これは彼の手記です。拙い訳で申し訳ありませんが。彼の前では多くの遺体が焼かれ真っ赤に燃えた炎が彼の顔を照らし出しています。直立不動で無表情。唇には血がにじんでいます。これから弟を荼毘に付さなければならない。固くかみしめたために血さえ流れない少年の心はどんな状態なのでしょう。少年は弟が灰になるのを見届けて、黙って焼き場を去りました。その後、少年はどこへ行ったのでしょう。

 

 この写真は長崎ではないという指摘もありますが、長崎本線道ノ尾駅近くの踏切と地形がほぼ一致することが日本放送協会の調査で明らかになりました。この画像は名札の位置が反対なので裏焼きで左右が反転しています。

 

 「焼き場に立つ少年」は長崎原爆資料館に寄贈され、ローマ教皇のフランシスコが、この写真を印刷したカードを、戦争がもたらすものという言葉を添えて、世界の教会に配布するように指示を出し、世界的に広まりました。

 

 1945年8月9日11時2分、B29は長崎に原爆ファットマンを投下しました。死者 73884人。当時の長崎の人口は24万人です。ニュースでは多くが原爆投下時刻を11:02としています。しかし、長崎では原爆炸裂時刻と呼んでいます。投下と炸裂では受け取る意味合いが大きく異なります。

 

 大きく見渡せば7万4千人の人が亡くなったのでしょう。しかし、一人の死は、「焼き場に立つ少年」のように亡き方を愛する人たち、関わりのある人たちがどれだけいるのでしょうか。 73884人の一人ひとりの死の瞬間を一枚の写真で切り取れば、どれほど戦争が悲惨なのかがあぶり出されてるでしょう。

 

 20世紀は二度の世界大戦があり、その後も朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など戦争の世紀でした。21世紀は平和の時代なのかと思えば、早くもウクライナ戦争が起こり、人間は歴史に学ぶことをしませんでした。戦争は何をもたらすのか。一枚の写真から心を静めて考えたいと思います。

 

 人間の心理には極めて偏った感じ方があります。今、出刃包丁の刃を上を向けて心臓を突き刺した事件が起きたとします。被害者は苦しみながら亡くなりました。それはそれは凄惨な殺人現場です。もし、73884人の人を同じように出刃包丁の刃で突き刺した事件が起きたとしたら、どんな感じ方をするでしょう。約7万4千人の被害者とひとくくりにすると一件の殺人事件よりもその凄惨さは伝わってきません。戦争の悲惨さは大きくなりすぎると人はそれが悲惨とは感じられなくなる。そんな鈍さが私たちの心には巣くっているのです。

 

 阪九フェリーで行く四日間の船旅。その最終目的地は、長崎でした。はからずもその四日間は巡礼の旅となりました。

 長崎港からクルーズ船で2時間半の船旅に出かけました。目的地は端島。通称軍艦島です。日本の高度経済成長時代を支えた島です。

 

 島に上陸するには宣誓書に署名しなければなりません。島にトイレはありません。ガイドの人はいかめしい叔父さんかと思えば、紳士でした。地価600mまでエレベーターで降りて、気温30℃湿度55%の行動で8時間、ひたすら石炭を採掘します。

 

 地上にあがってくる頃には石炭の粉で体は真っ黒。海水を浴びて石炭を落として、真水の浴槽に入る。壮絶な労働環境です。それでも待遇は抜群で当時、カラーテレビや洗濯機など庶民には手の届かなかった電気製品も各家庭にあったそうです。

 

 正面は小学校と中学校で千人規模のマンモス校です。四階までが小学校で、五階からは中学校でした。運動会も開かれました。どの階にも巨大なガラス窓がはめられていて豪華な校舎でした。当時としてこのような高層ビルはここだけでした。

 

 映画館や居酒屋もあり島を出なくても娯楽は整っていました。各部屋から見える眺望は最高の物だったでしょう。逆に言えば、それだけ環境が良くなければ過酷な労働の見返りにはならなかった、人を集めることもできなかったのでしょう。

 

 ここで採掘される石炭はコークスに加工され、八幡製鉄時に送られました。鉄鉱石はコークスで還元炎で鉄に精製されます。まさしく日本の高度経済成長時代を支えた所です。

 

 廃墟マニアでもなくても人々をここに惹きつけるのは何なのでしょうか。廃れた中に美しさがあります。かってここで生活していた方々の息づかいが今も伝わってきそうな所です。映画やアニメの舞台になりました。かって五千人が暮らしていた端島。人を惹きつける魅力は衰えることがありません。