フェリーで行く四日間の長崎の旅。始まりました。航跡を残して瀬戸内海を西に進みます。この日は海が穏やかで快適な船旅でした。
西の水平線に太陽が沈みます。光が屈折しているので、本当は日没なのですが、名残惜しそうに日影が残っています。太陽が低くなるほど海の色が真っ赤に染まりました。海にあるありとあらゆる物を赤く染めて沈んでいきました。
大鳴門橋は夕食を取っていたので、窓から見えました。本四連絡橋は見逃さないように船首の展望台からこの通りの画像。しまなみ海道も見たかったのですが、午前様になるのでやめました。
2日目の朝は太宰府天満宮に参詣しました。大楠が屋根を突き破っています。今は本殿が修復中で仮殿でお詣りします。
菅原道真を慕って一夜で翔んできたという梅。飛び梅として有名です。
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
讒言によって福岡の太宰府に左遷された菅原道真が詠んだ歌です。東風が吹いたら香りを漂わせておくれ。主人がいなくても春は忘れないで。
そんな思いを越えて、梅の木は都から太宰府まで一晩で翔んでここに来たと言われています。
天満宮からハウステンボスへ。オランダの風景が広がっています。この広さには驚きます。長崎は近世からオランダと貿易をしていました。
お腹がすいたので、ステーキハンバーグを頂きました。美味しかったのですが、ステーキと言うよりも焼き肉です。テーマパークの食事はやはり割高ですが、ここで食べるというのに意味があるのかもしれません。
観覧車からの眺めはなかなかのものです。オランダは国土のほとんどが干拓地なので、海に浮かんだ国と言ってもいいでしょう。運河をのんびりクルージングしてきました。あまりに気に入って、ここを住所とした人もいるようです。
ミッフィーに会いたかったのですが、90分待ちなので諦めました。そのかわりミッフィーのグッズを買いました。
夜のお宿は長崎にっしょうかんです。バスが登れるのかと思うくらいの急坂。食事は美味しかったです。自分で作るちゃんぽんのお鍋は美味。
世界三大夜景の長崎。モナコと香港と並びます。神戸の方が豪華なのではと思いますが、山にへばりつくように煌めく夜景はその価値はあると思いました。
長崎はキリシタンの街。至る所に聖堂があります。港には聖母マリア像が建っており、船を見送ります。
この島々はかってキリシタンの殉教地となりました。松浦氏による迫害は厳しさを極めました。それでも彼らは教えに従いました。なぜ教えのために命を捨てるのか。同時代に和歌山県で補陀落渡海が行われていました。ここの寺の住職は60歳になると生きたまま船にのせられて観音浄土に旅立ちました。同じ頃、一向宗の人たちが一揆を起こし、退くは地獄と権力者と戦いました。平均寿命が30歳前後の時代です。この世界は生きにくい。苦しみが多ければ、天国や浄土への憧憬はより強かったのかもしれません。すべての物は移り変わります。常なる物はこの世界にはありません。諸行無常。これだけなのです。
島々は沈黙し、そのことを何も語ってはくれません。ただ船から見る聖母マリアは慈愛に満ち、何事もなかったかのように今日も船の安全を見つめています。
旅のお目当ては軍艦島です。昭和の時代ここは海底炭鉱でした。質の良い石炭を採掘でき八幡製鉄時に送られて日本の高度成長時代を支えました。
平日でもクルーザーは満席になるほど好評のようです。なぜ、人は軍艦島をめざすのか。この廃墟にどんな魅力があるのでしょう。高度成長時代を支えたエネルギーがこの壊れたコンクリートの塊に今でもそのエネルギーを発するのか。
改めてクルーザーから振り返ると魅力が伝わってきます。人々の暮らしが見えてきます。いったいこの密集した中でどんな生活や息づかいがあったのでしょう。それを想像したくなります。地下600m、室温30℃湿度95%の危険極まりない重労働が終われば、風呂と家族と娯楽が待っていました。そして窓からの眺望。富が人々をここを惹きつけました。半世紀経ってその残照はここかしこに見ることができます。
軍艦島から長崎原爆死没者追悼平和祈念館に。時計は1954年8月9日11時2分で止まっています。ここは今から80年前の時空で進むことがありません。
浦上天主堂の聖ヨハネ。十二使徒の一人です。ヨハネは愛の人でした。焼け焦げた大理石像。聖母マリアも被爆しました。長崎では80年前、聖人達も被爆したのです。
11時2分プルトニウムが入ったファットマンは火の玉となり、熱線を発しました。解けた緑のガラス瓶。当時の熱さを物語っています。
女学生のお弁当。あと1時間で彼女は楽しく食べることかできました。原爆はそれを永遠に奪ってしまいました。彼女の胃袋を満たすはずだったご飯、ただの炭素となり戦争の悲惨さを伝える展示品になりました。
自分がここに来たかったのは一枚の写真があるからです。しかし、それはありません。順路を行くと果たして最後に展示がされてありました。
見たかったのはこの写真です。最後に展示してありました。うなだれた弟をおんぶした一人の少年。唇をかんでいます。あまりに激しく噛んでいるため、唇には血がにじんでいます。前からは明るい光。ここは原爆でなくなった人の体を焼いているのです。少年は薪に弟を寝かせると回れ右をして去って行きました。彼はどこに行ったのでしょう。この写真を撮ったのはアメリカの従軍記者です。
80年経って、世界のリーダーはここに来るべきです。80年前に何が起こったのか。現地に来ないと分かりません。感じることはできません。原爆を投下することによってアメリカの数十万人の若者の命を救った。こんな言葉は詭弁です。7万人の長崎の方が亡くなってもいいのですか。20万の広島の市民が犠牲になってもいいのですか。蒸発して泡だった瓦を触ってください。熱線で変形した銅板の門標に触れて感じてください。コールタールを塗った板壁に焼き付いた人の影を見てください。彼らはブルトニウムの熱線に蒸発したのです。
帰りの朝のフェリーの食事。朝からカレーです。窓からの眺望は今朝は靄で何も見えません。ただ海が広がっているだけ。それてもこの眺望からの食事は最高でした。船に乗るなら一回はカレーがいいです。この四日間の旅、雨にたたられることもなく快適でした。暑さはどうしようもなく汗が噴き出るままに。
隣を同型のフェリーが航行しています。大鳴門橋を越えるともう六甲アイランドに。神戸の街が見えてきました。ブルートレインは超高級でなかなか乗れませんが、フェリーで夜行はなかなの魅力。一度乗船すれば何もすることがありません。ロビーでライブコンサートを聴くか、読書をするか。船首の展望台でぼんやり過ごすか。それともデッキで過ぎ去ったことを語るか。露天風呂で一風呂浴びるのが楽しみ。食堂では年配の方達がお酒を楽しんでいました。楽しみ方は人様々です。
夜行で行くフェリーは冒険です。それは不思議な空間です。おそらくそれは非日常。いつもの暮らしから離れて、何もしないで過ごす。新しい自分を発見する契機になります。
この旅の四日間は、いわば巡礼のようなものになりました。どんな旅になるかは百人100通りの旅になることでしょう。旅は心の洗濯だと昭和の時代によく言われました。そんな陳腐な言葉を思い出して自分を笑ってしまいました。島巡り、キリシタン殉教の地、昭和の高度経済成長時代の残照、テーマパークと長崎は深掘りすれば、どれだけでも新しい発見があることでしょう
四日間の旅を15分の動画に浸ました。画面をクリックするとご覧いただけます。4Kです。
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