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バイカルアザラシのnicoチャンネル

 サイコロジストの日常と非日常を季節の移ろいを交えて描いています。バイカルアザラシのnicoちゃんの独り言です。聞き流してください。

 松阪市笠松町の運河沿いにはヒカンザクラの並木道があります。ここは伊勢平野のど真ん中、冬は鈴鹿おろしが吹いてきて寒いです。例年ならもう満開なのですが・・・

 

 ここに来る前、ライブカメラを見たら満開だったので期待してきたら、現地はこのとおりです。今年は寒いのか蕾だけで、殺風景限りなしです。

 

  かろうじて一つの樹に数輪咲いているのが関の山。満開まであと二週間はかかりそうです。

 

 ライブカメラで「今日のヒカンザクラ」とあったので、だまされました!!!

 

 確かに二年前の今日はこんな感じでした。

 

 今年の季節は二週間は遅れています。ヒカンザクラ祭は今日が最終日とか。

 

 そんなことをつぶやいていても空しく鴨が水辺を蹴って泳いでいくだけ。だれだ! あんな偽のライブカメラを仕組んだのは?

 

 

 枯れていたススキの穂が風に靡いています。日が西に傾き銀色だった穂が金色に変わっていきます。夕暮れ時は寂しいものです。やがて綿毛は大きく開き、ススキの穂を離れ風に吹かれて種が飛んで行きます。それは三月に卒業を迎える人たちにも似ています。

 

 お地蔵さんを祭る坂に咲くシロウメの老木。つぼみが沢山付いていました。今日の温かさで一気に咲き始めています。この勢いが始まるとどんどん一気咲くことでしょう。週末には満開かも。

 

 今年のタンポポは本当に少ないです。やっと見つけました。それでもいち早く咲いた一輪はもう綿毛になってしまい、北風が吹くと種を散らしています。密かに咲いて、密かに種を飛ばす。季節の移り変わりは留まるところがありません。

 

 あんなに寒かったのに、いつのまにイヌフグリの群落ができたのでしょう。薄青と言うよりも白い青です。つい先ほどまで枯れ野だったのに、春の息吹が枯れ野を緑に変えていきます。野原は茶色から緑へ。春のパワーは野原に浸透して、冬の寒さは劣勢に。今週は少し春が近くなりました。

 

 

 サザンカの花が咲いています。残念ながら花びらの美しさは少しあせて花のリレーは次の時節の花へと移り変わりつつあるのでしょう。

 

 凍った枯れ野に芽吹き始めたのは菜の花です。綺麗に圃場整備された田圃の畦道には誰が植えたのか、菜の花畑があります。

 

 菜の花は群落を作ってその下には薄青の花びらを開いたイヌフグリも仲間に入りました。いよいよ春です。

 

 畦道のそばを流れる祓川。平安時代、天皇陛下のご名代となった斎王(いつきのみや)がここで潔斎しました。天皇の未婚の皇女である斎王は、天皇の代わりに伊勢神宮に仕えます。清流は古代の流れとともに今日も静かに流れています。桜の木の陰が祓川に映って趣があります。

 

  ここから見えるのは堀坂山です。もっと左に局ヶ岳、中央に白猪山、そして堀坂山と端正なピラミッドがお伊勢さんから見えます。伊勢三山です。鎌倉時代の歌人藤原定家は、祓川の橋を渡ってこんな一首を詠いました。

 

 のちに又 たれか来て見む 竹河や むすぶしずくも 紅葉散る山

 

 藤原定家は高倉天皇の皇女潔子内親王が斎王であったとき、ここで詠んだ歌だと言われています。

 

 青空を颯爽と飛ぶ白鷺、祓川には様々な山鳥が住んでいます。川には小魚が泳ぎ、餌には事欠きません。平安の雅の斎王様もここに来ては禊ぎをし、和歌を詠み、伊勢神宮の神様にお仕えなさったのでしょう。今は、菜の花の黄色さだけが当時の華やかさを留めています。

 

 

 

 

 朝起きてみると伊勢三山の中央に聳える白猪山が雪化粧です。昨日からの雪雲は去って晴天となりました。

 

 朝日が昇るとトタン屋根の雪が溶けて北斜面の屋根は氷柱ができています。さらにそれが日差しに溶けてさかんに水滴を落としています。氷柱の中に封じ込まれた空気は冷たそうです。

 

 北斜面の石垣は冷凍庫のように冷たく、昨夜からの雪がそのまま残っています。石垣に根を張った草の葉っぱにも雪の結晶が残っていました。それでも少し溶けたのか雪の結晶の六角形は失われています。

 

 立梅用水に白梅が植わっています。雪で凍りついた小枝に新芽が芽吹いて寒そうです。

 

 稜線から太陽が昇りました。すると一斉に小枝に凍りついた雪が溶け出しました。溶けた氷は滴になると丸くなります。その凸レンズ達が銀色に光り始めました。小さな太陽は優しく梅の小枝を照らしています。確かにその日差しは春です。こんなに寒い世界なのに、確実に春の日差しがここに届いているのです。地上は真冬なのに日差しは春。陰の世界は冬なのに日向は春です。

 

 

 今日の午後からは雪になりました。櫛田川の枯れ野に雪が積もりました。葉っぱを落とした小枝にはふんわり粉雪が舞っています。

 

 紀伊半島に雪が降るのは珍しいことではありません。鈴鹿山脈の御在所岳にはスキー場がありますし、奈良県の吉野は平安時代から雪深いところだと文献にあります。このように山間地ではともかく、平地で積雪は一年でも数回あるかないか。

 

 西の空には雪雲がどんどん湧き起こって、東の空は青空が見えています。吉野では雪も深々と積もっているのでしょう。

 

 鎌倉時代の勅撰和歌集に「新古今和歌集」があります。藤原定家がこんな短歌を詠んでいます。

 

 駒とめて 袖うちはらふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

 

 承久の変を起こした後鳥羽上皇は28回も熊野詣でをしています。都から熊野まで往復すると半年はかかります。上皇の治世で言えば、10ヶ月に一度は熊野詣でをしていたということになります。上皇は風流の方で歌会を催しました。その頃の歌人と言えば藤原定家も熊野御幸にお供していました。その様子は、「後鳥羽院熊野御幸記」に記していて、住吉社・厩戸王子・湯浅宿・切部王子・滝尻王子・近露宿・本宮・新宮・那智で行われました。

 

 馬を止めて、袖にまとわりついた雪をさっと払いのける蔭もない。佐野の渡りには夕暮れが迫っている。

 

 新宮で歌会を催しているので、佐野を奈良県桜井市狭野と見る学者もいますが、これはどう見ても和歌山県新宮市の佐野です。都から熊野三山に至るルートは小辺路、中辺路、大辺路と伊勢路がありますが、新宮の佐野を回っているので中辺路ルートをたどったのでしょうか。

 

 自分が興味があるのは、新宮の佐野で雪が降っているという事実です。那智勝浦町には那智大社、新宮市には速玉大社、田辺市に本宮大社があります。佐野はちょうど那智大社と速玉大社の中間にあります。いったいこんな南国で雪が降るのか?

 

 9世紀から13世紀は中世温暖期と言われるように暖かい気候が続きました。吉田兼好は「徒然草」で家は夏を主体に考えて建てるべきで、冬は何とかなると書いています。つまり、兼好法師の頃は、冬も温暖であったことが推測できます。

 

 それにしても紀伊半島南端での降雪。実はこのあとは小氷期が始まります。定家が佐野で詠んだ一首は小氷期を予兆させる異状気象だったのかも知れません。

 

 ちなみに藤原定家、このあと熊野詣での雲取越えで大雨に遭い、高熱のまま瀕死の状態で本宮に着いたようです。熊野詣では上皇にとっては巡礼と風流の楽しみなのですが、お付きの人たちは大変だったでしょう。特に秋口の御幸は霜が降りることもあり、何人かが凍死しています。

 

 地球温暖化は暖かくなると思えば、冬は日本海の水蒸気が盛んに上がり、湿った空気を日本列島に吹き寄せます。そして、大雪。北極の寒冷渦が二つに分かれ、偏西風が紀伊半島近くまで南下しています。温暖化は冬に大雪などの異状気象を起こします。二酸化炭素を限りなく出している人間活動を止めない限り地球の熱暴走はそう遠くない時期にやって来るでしょう。少なくとも戦争を止めなければ、武力で領土を広げても熱暴走が起これば、水の惑星自体が熱地獄になることに気づいて欲しいです。