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バイカルアザラシのnicoチャンネル

 サイコロジストの日常と非日常を季節の移ろいを交えて描いています。バイカルアザラシのnicoちゃんの独り言です。聞き流してください。

 松阪市笠松町のヒカンザクラ、今週こそ満開か?

 

 と思えば、先週と変わらず咲いてなあ~い!!!

 

 満開なら運河に逆さに映るヒカンザクラでベストショットのスポットは満員。今ならその場所も独占できます。肝心の花がついてないので閑古鳥が鳴いています。

 

 運河の水面が春の日差しに反射して花びらをキラキラと照らしています。その乱反射が美しいので、いつまでもカメラを向けていました。

 

 今日も空しく水鳥が泳いでいます。いつになったら満開になるやら。来週はきっと咲いてるはず!!!

 冬の名残のサザンカ。まだ咲いています。それでも桃色の花びらは冬の寒風にさらされて花はボロボロ。

 

 去年のほおずきは赤さが失われて繊維だけで形を留めています。いっぱい実ったのでしょう。こんな化石みたいのがいっぱい。

 

 その下ではイヌフグリの群落かあります。野原一面が薄青と緑で覆われています。

 

 水路のそばに咲いている水仙の花。小さな虫が花びらに止まっています。啓蟄が終わるの本当に虫たちが地上を這いずり回る季節。

 

 誰が植えたのか菜の花の小径。どこまでも続きます。祓川のそばにどこまでも咲いています。小径を散歩する人は寡黙でだれも坦々と歩いています。斎王が潔斎された祓川、今は静かに流れ、人の行き来も静か。ここに来ると時間の流れもゆるやかで静謐

 

 やっとヒカンザクラが咲き始めています。一日一日花の数を増やしています。菜の花の間を吹き抜けていた空っ風だけだったのに。今は、麦が芽を出して緑になりました。

 

 の緑と菜の花の黄色。黄色と緑はよく映えます。この色は春色。いつの間にか冬と春のせめぎ合いは、春が優勢となりました。

 

 やっぱり春です。春が来ました。

 昨日からの雨は過ぎ去ったようです。その代わりに西風が吹き始めました。するとどんどん寒暖計の目盛りは下がっていきます。瞬く間に10℃も。

 

 地蔵坂の白梅はこの雨でどうなったのでしょう。一輪も落ちること無く咲いています。老樹なので花は小ぶりです。その分、風には強いのでしょう。

 

 よくもこんな強風でしっかり枝について咲いているものです。

 

 

 棚田の高垣の下に咲く水仙の花。ここは風を避けてふんわり咲いています。雨で水をたっぷり吸えるようになって元気そのもの。

 

 棚田の畦道のホトケノザは冷たい西風に晒されてカメラの焦点があいません。それでも風が凪いだ一瞬を切り取ると美しい姿が浮かび上がりました。

 

 花びらが産毛に包まれているのは、どんな進化の過程があったのでしょう。やはり寒さから花を守る者なのか、それとも昆虫を引き寄せる仕掛けなのでしょうか。柱頭には昨日の雨粒が半透明の花びらから見えています。

 明和町には祓川が流れています。この川は天皇のご名代として明和町斎宮に使わされ、伊勢神宮に仕えました。斎王様はここで禊ぎをなさったと伝えられています。川のそばには菜の花が植えてあります。今年は雨が少ないため例年より長が短いくて小ぶりです。

 

 斎王がお詠みになった短歌は多くはないのですが、大伯皇女の歌にこんなのがあります。

 

 うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上山を 弟背と我れ見む

 

 大伯皇女は大津皇子という弟を持ち、文武に優れ才能もあり人望もありました。それが恨みに出て謀反の疑いで処刑されしまいました。後ろ盾の天武天皇も崩御され、失意の中で生きながらえた大伯皇女は帰郷します。

 

 この世の人である私 明日からは二上山を 弟として私は見て生きていこう

 

 確かにこの世界は時代を問わず住みにくい、生きにくい世の中です。戦いや陰謀がうごめき、欲望は限りがありません。理不尽の極みを生き抜いた大伯皇女。斎王として神に仕えながら、どれほど弟が天皇に即位する姿を夢見ていたことでしょう。

 

 第一首の「うつそみ」は蝉の抜け殻で、魂が過ぎ去ったことを語源とする言葉です。この歌が詠まれたのは万葉時代なので、この世が空しいというニュアンスはまだありません。それでもむなしさと言うより、一首の虚無感が感じられる表現です。

 

 当時、二上山では火葬が行われていました。死者が赴くところです。もともと日本の素朴信仰に、死者は山の頂に宿り、やがて子孫を見守ると考えられていました。

 

 弟は黄泉の世界に、そして、私自身はこの世にいる。悲嘆と失意の淵源の中でこの一首が生まれました。大切な者を突然失った悲しみ。一度起こったことは二度と蘇ることはありません。この世は常に移り変わり、留まるところがありません。それが「うつそみ」の世界なのでしょう。

 

 常に変化する「うつせみ」に対して「常世 とこよ」と言う考え方があります。あの世は永遠に変わることがありません。

 

 そんなことは知らず、今日も菜の花は咲いています。春風に揺られて温かさの中で、斎王の悲しみも苦しみも知ることはありません。春に気づいた虫たちは、蜜を集め花粉を運んでいます。川の隣にある雑木林では小鳥たちの鳴き声が聞こえます。この長閑さの中で大伯皇女の慟哭は聞こえようもありません。

 

 そんなことを考えながら菜の花の小径を通っていくと、ヒカンザクラが蕾をいっぱいつけていました。そして、一カ所、花が咲いています。ありのままに。大伯皇女が悲しみ失意の中で、私は今ここにいる。ここに生きている。それがうつそみなのだ。そういうのもなのだ。皇女の透徹した目は、諦念へと昇華されていったのでしょう。諦念とは諦めることではありません。うつそみを受け入れ、ありのままを生き抜いていく。新しい生きるパワーがそこから生まれていったのでしょう。それは悟りのようなものだったのかも知れません。自分にとってはヒカンザクラの開花が一隅を照らす光のように感じられました。

 

 闇が深ければ、光はより煌めき輝きます。そして、皇女はそれを三一音に定着し、その想いは文字を通して、遙かなる時空を越えて永遠に私たちの心に生き続けるのでしょう。

 二月の寒波は過ぎ去って、弥生三月やはり暖かくなってきました。お地蔵さんの白梅の老樹は小さな花を沢山つけています。ここが春だと言わんばかりに咲いています。

 

 その下のスイセンも見頃です。あたりは、白梅の春の香とスイセンの芳香が漂っています。

 

 お地蔵さんの坂を抜けると棚田が広がっています。畦道にはホトケノザが群生しています。

 

 ここから見ると伊勢三山の白猪山よりも高く咲いています。

 

 ハコベや春の野草は畦道を覆ってこのとおり。春の神ペルセフォネの足跡はもう見渡す限り緑の絨毯で敷き詰められました。

 

 春の野草の盟主イヌフグリも仲間に入りました。棚田の畦道は薄紅色のホトケノザ、薄青色のイヌフグリ、純白のハコベの群落で覆われました。秋の錦のように濃くはありません。春の野草はみんな薄色。なぜか控えめです。それはこれから暖かくなる季節への敬意なのかも知れません。

 

 咲きたいほど咲きなさい。そして野原を覆いなさい。畦道の野草はどこまでも広がってしました。ここには雑草という草はありません。全部名前を持った一つひとつが春の野の花です。