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バイカルアザラシのnicoチャンネル

 サイコロジストの日常と非日常を季節の移ろいを交えて描いています。バイカルアザラシのnicoちゃんの独り言です。聞き流してください。

 

 今、三重県立美術館ではスタジオジブリの企画展が行われています。第一会場の博物館側では、初めに宮崎駿監督や高畑勲プロデューサーが手がけた「風の中のナウシカ」から「君たちはどう生きるか」までを年譜をおって展示されています。通っていくだけで宮崎監督の世界がよく分かります。

 次のコーナーでは回り灯籠のような仕掛けで壁にナウシカや千尋など主人公が投影されます。展示と言えば撮影禁止なのですが、珍しく撮影がし放題で面白い企画です。

 そこを抜けるとおうむのミニチュアが飾ってあります。何だ、これだけかと思えば、カーテンを抜けると実物大のおうむがいます。玉が青く光ったり赤く光って、ナウシカの最後の場面を彷彿とさせます。

 第二会場は渡り階段を抜けて総合文化センターにあります。ここは魔女の宅急便などシーンが再現されていて記念写真を撮ることができます。SNSにアップするには格好の場所です。

 

 

 ここをクリックすると動画になります。


 

 昨夜からの雨が上がりました。一雨毎に暖かくなるといいのですが、雨を降らせた低気圧が東の海上に過ぎ去ると冬型の気圧配置が強まって、警報級の大雪になるかも知れません。そう簡単には冬は終わらないようです。

 

 白梅が咲き始めました。竹藪の中に咲く梅の花。日本では古くから松竹梅が大切にされました。松は長寿を、竹は子孫繁栄、梅は純潔を意味します。歳寒の三友と呼ばれ縁起物です。梅の花が咲くと言うことは、これから春が始まることを意味します。確かに今は寒いのですが、花が咲くと言うことは嬉しい知らせです。

 

 昨日からの雨が上がり、ひよっとしてが息を吹き返したのではないかと野原に出てみました。苔は水を吸って胞子を伸ばしました。まもなく花粉が袋に充填され緑のボールがいっぱいできるでしょう。

 

 別の所には苔の花が咲いていました。小さく二輪咲いています。

 

 野呂元丈の薬草薬樹園に来ました。スイセンの群落があります。これも薬草なのでしょう。どんな効用があるのでしょう。

 

 スイセンの林には落ち葉が広がり、そこからフキノトウが顔を出しました。空は冬の空なのですが地上はもう春めいています。

 

 少し上から撮ればこのとおりです。鼻をつくような芳香は、青緑の香りがします。まぎれもなく春の香です。

 

 野呂元丈は江戸時代の本草学者で将軍吉宗から蘭語を学ぶよう命を受け、全国の薬草を集めました。蘭学の創始者であり、薬学の先駆者でもあります。

 

 それにしても静かなこと。だれもここを訪れる人はいません。この近くにはビソンという巨大観光施設があるのですが、山頂にある温浴施設は一年を通して72の薬草に入ることができます。そこで働く人たちは野呂元丈にちなんでみんな作務衣を着ています。だれもが本草学者みたいで趣があります。

 

 もう二週間もすれば三寒四温の季節になるのでしょうか。今は、一雨毎に寒くなります。一雨毎に暖かくなるのはもうしばらく。

 

 

 大陸の寒気団は過ぎ去って今朝は三月のような温かさが戻ってきました。ネコヤナギが陽光に照らされて暖かそうです。温かさに目覚めて花粉をつけているのもいます。

 

 枯れススキは枯れに枯れて朝日が金色に穂を染めています。綿帽子の種も木枯らしに吹き去られてどこかへ飛んで行きました。

 

 新芽を見つけ! あんなに木枯らしが吹き抜けていたのに、寒さに目覚めて芽吹きました。ちよっと春が近づいたかも。

 

 お地蔵さんを祭るそばに咲いているシロウメの老樹。蕾が膨らんで一輪だけ小さな花を咲かせました。春は近づいています。

 

 隣からはスイセンの芳香が漂っています。スイセンのまっ白な花びらは朝日に透過されて脈まで映し出しました。

 

 棚田に咲くホトケノザ。枯れ野だった茶色の畦道はいつのまにか緑に変わって、そこから薄紅色の花びらの群落を着々として広げています。薄紅の仲間はどんどん増えて、名峰白猪山の麓まで届きそうな勢いです。仏像の基壇の形をしているところから名付けられた花の名前。いったいこの畦道にはどれだけの仏様がいらっしゃるのでしょう。それは日ごとに増えて一面は緑から薄紅色に変わります。

バレンタインの土曜日 自死したドイツの詩人ヨッヘン・クレッパーの日記から

 ドイツの詩人
ヨッヘン・クレッパーは敬虔なキリスト者で賛美歌を作詞しています。詩人は人間の弱さと強さを知っていました。歌詞の中で「御子の慈しみのほかは何ものも助けをもたらさず、御子こそがあなたを救うために来られると信じるなら、いかに大きな罪であれ、あなたは忘れてかまわない。」と歌いました。自分は弱いままだけれども、それを思い煩う必要はないというのです。

 彼の妻と息子はユダヤ人でした。第二次世界大戦中です。ドイツのユダヤ人狩りが始まります。彼は強制的に離婚させられ、二人が強制収容所に連れて行かれることになりました。それを聞いた三人は一家で心中したのです。
キリスト者が神から与えられた命を自ら絶つことは大罪です。当時、自死した者の亡骸は十字路に埋めて人々の足で踏みつけられる存在でした。もちろん教会は葬儀を拒みます。キリスト教では人間は罪人だと考えますが、自死だけは決して許されない罪と考えられていました。

 
ひよっとして彼はわざと罪を犯したのかも知れません。肉体は殺すことができても魂まで殺すことはできない。どんな権力者であろうが内心の自由まで侵すことができないように。彼の最後の日記にはこう残されていました。ここでは自死を自殺と訳します。

すべてことは人間に許されている、すべての善いことも悪いことも。・・・・私は、どうして自殺を例外だとすることができたのか。・・・・どんな権利をもって、この罪について、それは許されるはずがないなどと言ったのか。・・・・自殺は他の全ての罪のように神の赦しの中におかれていると信じる」。

 詩人は自死は罪ではないと正当化したのではありません。聖書の教えでは、はっきりと罪です。しかし、それは他の罪と同じようにイエスが十字架の身代わりとなった罪の一つなのでしょう。「
わたしはキリストの微笑みの中で死ぬ。」詩人は絶望のまっただ中でキリストを見いだしたのです。だれもが彼の行いを責めることはできませんでした。むしろ、ナチスドイツという政権の暴走を押しとどめることができなかったこと。多くの人がそれに協力したこと。責められるべきは自分たちだったのです。彼の日記には新約聖書の言葉が記されていました。「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」ヨハネ第一の手紙

 伝説の殉教者バレンチヌスの殉教の前日、司祭は後世に何を願って命を捧げていったのでしょう。
ドイツの詩人が自死しなければならない社会から今日までまだ百年も経っていません。人間は400万年前に誕生し進化し続けてきたはずです。なのに一世紀も経っていない社会にこんな悲劇が存在し、今日に至るまで生きづらい生きにくい社会は形を変えて残っています。自死を罪かどうか論じるよりも、何が彼らを死に追いやったのか。その原因を追及する方がいいと思います。どうすれば自死がなくなるのか、みんなの心が潤い喜んで一日を送れる社会を実現するにはどうすればよいか。バレンチヌスは伝説の司祭ですが、にもかかわらずなぜ今日まで語り継がれているのか、考えてみたいとと思います

 ノーベル文学賞を受賞した大
江健三郎さんは祈っていました。彼は神仏を信じたわけではありません。彼の祈りは願いと言うよりも集中することでした。コンセントレイト、無心に何も考えずに心を静めるやり方です。一日の始まりに、一日の終わりでもいいと思います。あるいはお昼休みに。一分でも何も考えないで無心になる時を持つ。心静かに自分の心の声に耳を澄ませてみる。そんな時があってもいいのではないでしようか。そこから新しい何かが生まれるような気がします。昨日も今日も明日も様々なことは起こります。でもその狭間にあって一時心を静め、福音記者使徒ヨハネがエフェソスの信徒達に送った手紙の言葉を観想してみてはいかがでしょうか。

バレンタインの金曜日 キリシタンの世紀になぜ殉教が起こったのか?

 殉教というとキリスト教に限りません。キリスト教の殉教はステパノから始まり、使徒ペテロやパウロが続きました。日本では二十六聖人の殉教や元和の大殉教が知られています。日本でも教えに従い命をかける行為が史料に残っています。南の海に船出する渡海船です。有名なものは和歌山県那智勝浦町の
補陀洛山寺の渡海です。「熊野年代記」によると868年から1722年の間に20回行われました。補陀落渡海についてイエズス会宣教師で「日本史」を書いたルイスフロイスもローマに報告しています。

 渡海船は那智曼荼羅にも描かれており、現在でも渡海船を再現した物が補陀洛山寺境内に展示してあります。船の中央に箱が設置してあり、四方は鳥居で囲まれています。ここの住職が還暦を迎えるとこの渡海船に乗って三十日分の食料と水を入れた箱の中に入ります。人々は漂流していく船を見送ります。


 南方の海にはサンスクリット語のポータラカがあると言われています。観音様が住むという浄土です。日本書紀でも少彦名命が熊野にたどり着いて、常世に往ったとありますから、熊野は神話の時代から黄泉と現世の境目だったのでしょう。熊野灘から少し沖合に出れば黒潮が流れており、岸に漂着することはほとんどありません。しかも、まれに親潮に押し流されて循環流で元に帰ってくることがあります。もし、渡海船に人がいなければその人は観音浄土に行き着いたと考えられたのでしょう。


 補陀洛山寺の渡海僧に葛藤はなかったのでしょうか。これをテーマにしたのが井上靖補陀落渡海記です。金光坊のように渡海したくない人もいたでしょう。中には渡海船を蹴破って密かに島に上陸した僧もいました。これを送った人たちは僧を殺して渡海船に閉じ込め再び渡海させたという記録があります。江戸時代になると住職が亡くなった後、亡骸を渡海船に載せて沖に出す水葬に変わっていきます。


 補陀落渡海が圧倒的に多いのが中世です。戦乱の時代にあって人々は観音浄土を希求しました。この世が苦しければ苦しいほど浄土への憧憬は強くなったことでしょう。人々の生きづらさが浄土信仰を寄り強いものにしていったのでしょう。

 
ザビエル来航以来の百年間をキリシタンの世紀と呼ぶこともあります。前半は殉教の嵐でした。しかし、彼らの多くは潜伏し、生き抜くことを選びました。とことん真実を貫けば教えに従って殉教するしかないでしょう。潜伏キリシタンはもはやキリスト教ではないと後世の者が批判するのは簡単なことです。注目すべきは、彼らが一番大切な教えを外面的には捨てて生きることを選び、内面では神に許しを請い教えを禁教令が解けるまで信仰を貫いたことです。そして、それが現在にまで息づいている。これは奇跡と言うしかありません。生きづらい生きにくいこの世界にあって、真実を捨てでも密かに生き抜いていく。それは現代の殉教者なのでしょう。内心の自由まで誰もが侵すことはできません

 昭和の時代に中学生が渡海して世の中を驚かしました。南の海に接している港町の少年です。ある男の子は南にある島を描いています。日本人には南の海に浄土のような理想郷があるという共通の遺伝子が組み込まれているのでしょうか。
生きづらさ、生きにくさが彼らを南の海に誘ったのかも知れません

 バレンタインの金曜日、私たちは生きづらい生きにくい世界をどう生き抜くか。殉教とは最後まで命をかけて教えに従うことで、決して教えに死ぬことだけではありません。
命をかけることは死ぬことではなく生き抜くことです。長崎の潜伏キリシタンの世界遺産は教会や遺跡だけでなく潜伏キリシタンの信仰そのものが大いなる遺産なのでしょう。それは、生きづらい生きにくい世界を生き抜いた世界でもまれに見る神の奇跡そのものです。