ちょっと前に、「附下げに紋を入れます」と言っていた知人の茶道家がおられて「え?」と思ったのですが、あまり親しい訳でもないので、黙っておりました。
ですが、私の認識では「附下に紋は入れない」となっていたので、Threadsでそう書きましたら、「附下は附下訪問着の略です!!!!!」と噛みつかれました。
では、本当のところ、どうなのか、服飾の本や着物の本、文献にさらりと当たってみました。
附下とは、元々は仕立て方の名前で、訪問着と同じく、すべての模様が肩山を頂点として上向きになるよう「反物の状態で絵付けをしたもの」を言います。
上から下に向けて柄が大きくなるようにするのを基本としていますが、衿と肩や、衽と前身頃、後身頃の模様が横につながっていないものです。これはわざとずらしたのではなく「元々合うように作られていない」ものなのですね。
附下が生まれたのは大正時代。時代の要請で、外出の増えた女性向けに、訪問着ほど格式がなく、小紋よりも高級なものということで、「外出着」として始まります。当然紋は付けません。ここで訪問着と一線を画します。
太平洋戦争中、絵羽柄の訪問着が禁止された(奢侈禁止令・華美禁止令・贅沢禁止令などといわれる)ため、代用品として訪問着扱いされるようになります。
戦争が終わり、奢侈禁止令は解除されましたが、物が少ない時代のこともあり、この状態は昭和30年代頃まで続きましたが、徐々に豊かさを取り戻した民衆は、附下を外出着に戻していったんですね。
ところが、世代の断絶が起こり、こうしたことが伝わらなくなって、紋の付いた附下を観た人が「附下に紋をつけてもいいんだ」と勘違いを起こし(それは時代的な背景を無視して)、呉服屋もそれを訂正しな事態が発生します。
これは、バブルが弾け、呉服屋が衰退し始めたこともあって、いつの間にか礼装や平服のルールがブレるようになっていったのですね。
さらに、技術の発達と売れない呉服の状態からか附下訪問着というものが登場します。これはコンピューターで絵羽になるよう計算して反物に柄を配置するようになったものなど様々な物があるそうですが、附下訪問着と訪問着の区別は玄人でも難しいんだそうです。
改めてこういうことは正しく時代背景を理解して、きちんと踏まえた上ですべきです。
ですが、敢えて私はいいましょう、「附下げに紋は付けない」と。