ご無沙汰しております。

 月桑庵曲斎こと内田宗地でございます。

 

 この度は稲毛の茶道会館さんよりお声掛けいただき釜を掛けて参りましたが、前日、師匠の葬儀に臨席するという、思わぬ事態となり、お目だるい席となってしまったのではないかと。

 

 御家流の松平様・乙葉様にもご臨席賜り、御家流香道の板橋先生、宗徧流の神林先生、十数年来の茶友・梅ちゃん、九州よりご来駕くださった表千家のあまゆみ様、常連の雪枝僧都様、都千家の小笠原先生がお見えくださいました。

 

 北見先生一家とはもう二十年近いお付き合いになります。一家仲良くお茶をされていて羨ましい!

 

 琵琶床には、茶友からお借りした大名鐙をどん!と置いて、床には大きな双鯉図と瀧一字を掛けることで、端午の節供感がバリバリです。

 

 それだと、主茶盌が浮いてしまうので、主茶盌の銘と建水を呼応させて「黒潮」に「皮鯨」。兜と鎧櫃が呼応しており、風炉の雲華と三茶盌の不二写を呼応させました。茶杓「馬来田」と馬蝗絆、鐙、瓢釜が瓢箪から駒で、菓子器に独楽塗を使い「馬」が全体を取りまとめ、五行の五色を散りばめて「吹き流し」というような盛り込みでした。

 

 蓋置は、季節的なもので「杜若」ですが、中の黄色は文目(綾目)?と思いますよね(笑)

 

 私の点て方にみなさま興味津々。

 

 全部で十二服点てたのですが、甘くてふっくらしていたかと思います。香りを高くし、テアニンがでやすくするのがお湯の注ぎ方。そしてお茶を煉ってから点てるのが、更に甘くきめ細かい泡を点てる点て方。そして、最初の師匠伝来の「二度点て」。

 

 是非、多くの方に飲んでいただきたいのですが、大寄せでは二服点てが限度。今後の自宅茶会は、三服点てにして、四客さま以降は点出しとさせていただくかと思います(濃茶を除きます)。

 

令和八年四月廿九日 端午之節供
《西暦2026年6月14日》


床 軸  瀧 雪尾要道禅師筆
     双鯉図 川原玉章筆
  花入 大樋 鯰尾兜 掛 泉喜仙作
  香盒 鎧櫃香盒 道場宗廣作

 琵琶床 大名鐙 立原家伝来

釜 瓢釜 笠井宗裕贈
 風炉 雲華 面取 月松斎作
  敷板 真塗 荒目小 津田哲斎作

棚 三角棚 都流好
  水指 黄瀬戸 加藤唐三郎作
  茶器 京瀬戸 内海 桶谷定一作
  茶盌 主 今高麗 金三竜作 先代家元銘『黒潮』
     次 青磁 馬蝗絆写 今岡妙見作 銘『備蝗絆』
     替 黒楽 不二写 佐々木松楽作 印『赤人』
     員 三島 
  茶杓 安住樂風作 慈照院喜山公御作笹葉写 銘『馬来田』
  馬来田の嶺ろの笹葉の露霜の
  濡れて別きなば汝が恋ふばそも 詠人不知
  蓋置 染付 杜若 高野昭阿弥作
  建水 唐津 皮鯨
 菓子器 青漆内朱 高坏 而妙斎宗員在判 岡本漆専堂造
     独楽塗 時代物
  菓子司 松乃露  越前坂井 浅野耕月堂
      和三盆       亀屋則克
      麩のやき      亀屋清永
      花詩(琥珀糖) 城州賀茂 長久堂
      麦落雁     上州桐生

                以上より三品
  御 茶 四方の薫 城州宇治 山政小山園詰

※慈照院喜山公=足利義政

 

 さあ、外のお茶会も終わりましたから、次は自宅の茶室開きです。

 7月19日(日)とさせていただきます。

 現在、お茶券の募集をしておりますのは以下の通りです。

 

【稲毛茶道会館・月釜】

令和8年6月14日(日)

 こちらは、私と北見宗綾先生の二人で席を持つことになっております。点心付きで4500円。

 

 6月14日(日)は旧暦四月廿九日。端午の節供が近いので、道具組みはそのようにしたいと考えております。

 

 会館主さまより、「お流派らしい道具で」とのオーダーをいただいておりますので、流儀の棚物などを使いたいと思います。

 

 お茶券は時間指定となります。

 第1席 10:40〜

 第2席 11:30〜

 第3席 12:20〜

 第4席 13:10〜

 第5席 14:00〜

 【ご希望の回をご指定ください】

 

 外部で持つ初めての席になりますので、皆様のご参加お待ちしております。

 

 ご連絡は、 darkpent@gmail.com または、X(Twitter)のDMInstagramのDMThreadsのDMまでお願いいたします。

 

 その他、手配可能な茶会がありましたら、告知いたします。

 月桑茶道教室では、随時お弟子さんを募集しております。
 
■月桑庵の特徴
点前偏重はしない
 月桑庵のモットーは「主客を大事にする」です。
 主客というのは「亭主=点前をする人」と「正客=連客の中で一番上座に座る人」のことです。
 
 点前偏重というのは、お茶を点てることばかり教えて、お客さんとしての振る舞いとか、道具の由来や掛軸の意味、お菓子の種類と食べ方などを教えないということです。
 
 慣れてくれば正客の稽古もできますし、さらには御詰め(末席のお客さん)の稽古もできます♪
 
 月桑庵はそういうところを大事にしています。
 多くの教室は、免状や許状などをとることを主眼にしていますが、月桑庵はそういう点を重視しません(急がれる方は特訓しますけど)。しかし、自分で恥を掻いて覚えるものよ!という言い方もしません。
 
 

先生の点前が毎月見られる
 そして、毎月「お茶会へ行こう」を開いておりますので、私の点前を見ることができます。
 普通の教室ではだいたい年に1~2回見せていただければ多い方などという話を聞きますが、下手をすると、先生の点前など見せてもらえないなんてお教室の方が多いらしいです。
 
 ですが、月桑庵では毎月薄茶と濃茶の点前を私がさせていただいております。
 自分と何が違うのか、よーく見ていてください。
 
 

お茶の雑学が学べる
 私がいろんな流派に関心があって、歴史が好きで、道具の由来が大好きなので、いろんなお話をいたします。道具組みのお話もいっぱいいたしますよ。

 
 
■都流って?

 当流は「表千家都流茶道」が正式な名前です。
 でも、表千家と名乗りながらも、表千家さんからの分流ではありません。
 家元先生は「荒木宗仙」とおっしゃいまして、信長に叛旗を翻した戦国武将として有名な「荒木村重」の子孫にあたります。直系ではないそうですが(荒木村重の三男の家系のようです)、家伝として茶道が伝わってきたとか(お寺に)。

 荒木村重は、信長に仕えていたころから「数寄者」でありましたが、信長の死後、大阪に戻って利休に師事して千家の茶を学びました。利休十哲にも数えられるほどの数寄者でした。茶名は「道薫」といいます。

 大正時代になって、『広く大衆に弘めたい』と発起され、上京し、流派を興したそうです。



■稽古日
 土曜日教室/内田宗地
  第二土曜日、第三土曜日、第四土曜日
  第一日曜日、第二日曜日、第三日曜日、第四日曜日

  祝日から2回
  お茶会へ行こう・お茶事へ行こうの日はお稽古なし

  お茶会へ行こうの前日は準備を手伝う人だけ稽古あり

  お茶事へ行こうの前日は稽古なし

 その他平日・祝日についてはご相談ください。
 

■料金
 月謝制
 入会金/一カ月
 7,000円+

「お茶会へ行こう」または「お茶事へ行こう」の参加費は別途頂きます。

・その他
 水屋料 1000円/回または2000円/月

 ※水屋料は奥伝以上より頂きます。

 ※水屋料とは道具の片付け方やメンテナンス方法の教授と水屋道具、消耗品の使用料です。


 薪料   2000円/都度

 ※薪料は炭点前をするときだけです。


 中元・歳暮 年二回(1ヵ月分の月謝と同額)
 初釜   別途
 流茶会(年一回) 別途
 教授会(年一回) 別途

 点前料 7000円(お茶会の際に点前をする際にいただきます)
 ※演奏会などのエントリーフィーみたいなものです。

 ※学生は割引があります。




■内容
 点前は、三千家と似ているようで違い、武家茶とも異なる茶道は、古流に近い流れを持ちます。丁度、古流から利休を経たのち、古田織部が武家茶を確立させる前の手であることが解ります(荒木道薫は利休十哲の一人。直伝されているとされます)。

 特徴としては、裏千家と同じようなふっくらとした泡立ちの薄茶と、棚物に飾り残しをしないこと、宗旦以後の棚物については使ってもいいことになっていますが、原則として邪道とすることです(邪道とは数寄であって本道ではないということです)。

 月桑茶道教室は内田宗靜(母)と内田宗地(私・男)の二人で教えております。男の点前と女の点前とが教われます。

 茶道を習われる方には着付けを無料でお教えします。

お問い合わせ先
03-3554-4345(自宅)
darkpent■gmail.com(■を@に替えて送信してください)

 鐶とは、釜を上げ下げしたり吊るしたりするための道具で、直径二寸五分前後で、釜の両端(必ずしも両端ではないが)にある鐶付の穴に通して使う一対の道具です。

 

 一般的には丸鐶がおおいため、「釻」とも書かれます。

 

 材質としては鉄(鋳鉄)が一般的で、南鐐(銀)や砂張、真鍮があります。真鍮の鐶は水屋で使われるため「水屋鐶」とも呼ばれます。

 

【材質】
 ・鉄(鋳鉄)
 ・南鐐(銀)
 ・砂張
 ・真鍮
 ・唐銅

 

 仕上げの打ち方によって、石目、槌目、空目というものがあります。石目は表面がザラザラとした状態になるようにする打ち方で、槌目は槌跡がのこるようにする打ち方、空目は象嵌をするために格子状の溝を刻むことをいいます。

 

【打ち方】

 ・石目

 ・槌目

 ・空目

 

 形状の違いでは、基準になる丸の他、大鐶、大角豆(ささげ)鐶、竹節鐶、捻(ねじ)鐶、蜻蛉鐶、巴鐶、轡(くつわ)鐶、常張(じょうばり)鐶、相生(あいおい)鐶(割鐶)、虫喰鐶、素張(すばり)鐶があります。

 

 大角豆鐶は捧げのような丸い形で凸凹しており滑りにくく鳴ったもので、利休好と言われます。鉈豆(なだまめ)鐶とも呼ばれるそうです。

 

 素張鐶は、鐶の中が空洞になった鐶で、軽いのが特徴です。

 

 常張鐶は、鐶付の穴のあき方が特殊な釜に使うもので、鐶の端が上に飛び出していて、掻立鐶とも言います。

 

 轡鐶は轡の形、巴鐶は巴透かしの形、蜻蛉鐶は蜻蛉の形を模したもので、尾の部分を鐶付に通します。

 

 虫喰は巣跡や虫が齧ったあとを残したもので、様々な形のものに装飾として行われますので形というよりは打ち方(装飾)の一種です。

 

 相生鐶は、ひとつの鐶を二つに割ったもので、合わせるとひとつの鐶になります。割鐶の方が一般的な言い方だそうですよ。

 

【形状】
 ・大鐶

 ・丸鐶

 ・大角豆鐶(利休好)

 ・竹節鐶
 ・捻鐶

 ・蜻蛉鐶

 ・巴鐶

 ・轡鐶

 ・相生鐶(割鐶)

 ・虫喰鐶

 ・素張鐶

 

 最近は炭手前をすることが減ったので、あまり知られていませんが、こうした道具が登場するのも大変愉しいかとおもいます。

 

 私もひとつづつ揃えていきたいですね♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらいつも参考にさせていただいているブログ。

畠山尾州家の紀伊動向については不明な点が多く、こうした考察や研究者の論文を待っていたところだったので、タイミングがいいことこの上ない。

 

丁度、第一章から第三章まで見直しをしているところだたからだ。

 

畠山稙長の尾張守任官は大永五年以降とされ、大永四年までは河内次郎と表記されているとのこと。

 

ここで、稙長の紀伊国大野攻めが享禄年間であったという比定がなされいる。

 

つまり、細川高国が京より退去した際、和睦に反対して帰国(稙長勢は大永8年2月5日に京から退陣している)、賀茂氏の大野を攻めたということになる。

 

この賀茂氏は、畠山尚順に従い、稙長と対立、のちに総州家に合流するという動きをしており、反稙長陣営である。

 

この一連の流れは、高屋城を失ったものの柳本賢治と和睦をしたことで河内国内の尾州領が安定したために紀伊への軍事活動が可能だったということになる。

 

・享禄2年
9月23日 史料② 小山俊次が稙長の大野攻めに対して音信を送る
10月1日 畠山九郎(稙長弟)が賀茂・貴志・宮崎・梶原氏との連携を依頼
10月16日 史料⑧ 丹下盛賢・遊佐長清が賀茂・貴志・宮崎氏と接触(翌年でも可)
12月15日 畠山義総が大野の稙長に対して音信を送る

・享禄3年
2月6日 史料⑦ 賀茂氏が稙長方に色立。湯河・貴志・宮崎氏と連携を行う
3月12日 丹下盛賢を介して小山俊次が式部大夫に推挙される(翌年でも可)
6月26日 史料④⑤ 賀茂荘の不入を畠山稙長が保証
7月28日 小山俊次の保呂城が敵対勢力に敗れ落城し、稙長がその際の感状を出す(翌年でも可)
8月3日 史料⑥ 稙長の有田進発が延引中。賀茂氏の家の事を改めて保証
8月15日 畠山義総が大野の稙長に対して音信を送る


・享禄4年
5月10日 史料③ これ以前に稙長方が藤並荘を確保しており、賀茂氏に去年以来の貢献により藤並城周辺が与えられる

 

 稙長が大永8年に京を退去後は、細川高国が10月頃までに近江に没落していることが確認でき、11月には甲賀衆と共に大和に赴くという風聞が立っているとある。


稙長は10月頃から柳本勢に高屋城を攻撃されているが、大和は畠山尾州家の勢力範囲であり、この行動は稙長と連携を試みたと考えられる。


その後11月16日に高国は伊賀に向かうも、12月頃に高屋城は和睦によって明け渡されたため、稙長を頼ることが難しくなった。


それを受けてか翌享禄2年伊勢を出た段階で近江海津・越前敦賀を経由して丹後から播磨に向かうことを述べるなどある程度の計画性を持っており1月23日に高国は伊賀から伊勢に移っている。本命は西国勢だったこと、また最初に頼ろうとしたのは尾州家だったと考えるのが自然である。

 

 ここまでは概ね同意である。しかし、

 

享禄4年3月には足利義晴は高国方の細川尹賢に御内書を発給しており明確に高国方と連携していることが確認できる。

 

という一文は少々疑問である。というのは細川尹賢は享禄元年に三好元長に下っており、享禄四年段階では晴元陣営の武将であり、三好元長麾下となっているからだ。この事は義晴は晴元との和睦を諦めていない証左となる。

 

この時期の高国方と稙長方の明確な連携の様子は確認できなかったが、義晴方と稙長方の連携については引用記事の小山俊次への官途推挙が当て嵌められるかもしれない。
俊次は大野攻めの際には三郎五郎表記だが、享禄4年3月以前に畠山稙長の推挙により式部大輔に任官している。
この推挙が紀伊での貢献に対する報酬と仮定すると、(この記事で享禄3年と推定している)賀茂進発や有田進発が行われる前だと些か早すぎる気もするため、奥三郡(有田・日高・牟婁郡)を概ね抑えた翌年と考えるのが妥当ではないかと考えている。

以上のように確実性はないが、稙長の紀伊での活動は連携相手である義晴・高国の動きとある程度関連していたという理由付けを述べておく。

 

 細川高国と畠山稙長が連動していたというのは別段不思議ではなく、伊勢の北畠国永が女婿であり、稙長が姪(女系の甥)であることを鑑みれば、高国との連携はぐるりと若狭・近江・伊勢・紀伊という遠回りではあれ、連絡線は繋がっていたとするのが正しい。特に享禄三年頃からは京に再び進出しているのだから、稙長も河内への影響力を強めていたと考えられる。

 

 しかし、大物崩れによって細川高国が敗れたため、堺幕府包囲網は破綻し、稙長は紀伊から出ることにならなかったのではないだろうか。