『数寄の長者』を執筆していて武田家臣団(若狭)を調べている訳ですが、逸見繁経と同世代の粟屋繁○というのが「繁誠」であるという資料がありました。

 

 

 一方、逸見繁経も真正同様守護武田信賢の奉行人として加判に列しており、康正二年(一四五六)七月ニー日付文書には内裏造営段銭に関して粟屋繁誠(越中守)と連署している(粟屋繁誠・逸見繁経連署状案『東寺百合文書に』)。これは東寺領太良庄(現小浜市太良庄)にかかわるものだが、安芸国でも同じく馬越元親(左京亮)書状に「熊谷美濃入道信直在国候之間、先以逸見弾正忠加判候」とあって、安芸守護代であろうか、熊谷信直に替って加判しており、真正・繁経ともに安芸・若狭の領国支配の一翼をになっていた。

 

 とあります。

 

 また、粟屋繁盛という名前もあり

 

前述の永享一二年(一四四〇)武田信栄が若狭守護となった以後である。同年には代官として熊谷信直・山懸信政(下野守)・粟屋繁盛らが入部しており(『明通寺文書』)、この段階では逸見氏はまだ出典がない。

 

 という記載もあるので、系譜にあたると、ないw

 繁■というのが繁誠(しげまさ)にあたり、この兄として繁盛がいるのではないかと思われます。

 

 繁誠の子・賢家、国春はともに当主から偏諱をもらっていますし、粟屋氏は、他に二流あって、まぁ、なんとなく読み取れます。

 

 しかし、逸見氏は難しい。

 繁経の兄とされる真正ですが、どうにも偏諱が繋がりません。

 誤読ではないか?と思っているのですが、私としては「繁正」ではないかと思っています。

 

 

 

 

 親子だとすると偏諱が同一人物からというのは不自然なので、兄弟であろうと考えます。

 

 また、三郎国清・美作守高清も兄弟だと思われます。

 

 ただし、国清はおそらく継いだであろうという言い方をされていますが、その次の代が昌経であり、通字がありません。繁経と昌経は「経」、国清と高清は「清」ですから、この兄弟は別系統と考えたほうがよく、祖も間に「元経」というような人物がいたと考えた方がいいのでは?と思えます。

 

 ただし、昌経には虎清という子がいたともされるので、経と清が交互に通字となっていることも考えられます。

 

 

 

 引盃の始まりは「古田織部がお椀の蓋で飲んでいた」ものを利休が面白がってそれを好んだことから始まったという伝承があります。

 

 では、それまではどうしていたのか?といいますと、実は「土器(かわらけ)の酒盃」だったんですね。

 

 これは神前などでも使われている白い瓶子と土器の盃です。

 

 その後、引盃が作られ、江戸時代に利休形や藪内形などが整うと、現在の形式になっていきます。

 

 ちなみに一般的に使われている引盃は「小」で、大は二周りほど大きいようですよ。

 

 なんでこんなことを書き始めたのか?というと、利休時代の懐石に引盃が登場しないからなんですね。

 

 引盃はもともと黒塗から始まり、朱塗への変化し、その後、酒盃に磁器が登場します。

 

 磁器が登場すると瞬く間に陶器を駆逐していき、器がどんどん磁器へと切り替わっていきます。

 

 その中にあって、茶道では引盃が漆のまま残ります。

 

 会席の方では煮物椀すら磁器や陶器へと変化し、引盃も磁器や陶器のものが主流になっていきました。

 

 歴史小説を書くというのは、かなり細かいことまで調べて書かないととんでもない嘘を書いてしまうんだなぁ~と、怖くなりました(やめないけど)。

 

 

 こういう投稿をされた方がいらっしゃいまして、これに対し

 

 

 こういうリツィートをされた方がいました。

 

 結論から言えば「表千家」「裏千家」「武者小路千家(官休庵)」というのは、身内=千家流内での区分けです。

 

 親戚が多い方は解ると思うんですが、地名で親戚のことをいいません?

 

 私も父の親戚は「藤岡の叔父さん」とか「高崎の仲父さん」、「富岡の季父さん」「本家の伯父さん」と呼んでいます。

 

 表千家は表通りに面しているから表千家。

 裏千家は裏通りに面しているから裏千家。

 武者小路千家は武者小路にあるから武者小路千家。

 

 これ、地名みたいなものです。

 

 他流からすれば、「同じ千家」なんですが、明治以降、千家流が茶道界を席捲したため、その身内での区分を他流でも呼んでいるに過ぎません。

 

 千家さんからしたら、石州流だってそれぞれお○○派があるのに「石州流」でまとめてらっしゃるでしょ?w

 

 伊佐派・怡渓派・清水派・野村派を筆頭に多くの分派がありますが、それをきちんと分けて考えられている人は少ないのではないでしょうか。

 

 なのに、千家だけは特別と思うのは間違いです。

 

 千家は千家。

 京千家の後裔ですから。

 

 何も間違ったことはありません♪

 台目席は必ず小間扱いというのは、誰でも知っているかと思います。

 

 台目席とは、点前座が台目畳でできた、台目囲いのある茶室のことです。

 

 この台目畳は、本畳の四分の三とか言われていますが、実は間違いで、一尺四寸と屏風の一寸を省いた畳です。

 

 本畳の四分の一は、六尺三寸÷4=一尺五寸七分半で、一尺四寸より大きくなってしまいますが、台目畳は四尺八寸なので、違います。

 

 この「一尺四寸」とは真台子大の奥行きのことです。

 

 ですので、四分の三と覚えるのは間違いで、【台子の目数を欠いた畳】=台目欠畳=台目畳と覚えるのが良いかと思います。

 

 ただし、利休はこの台目畳を「半(半端な畳)」と呼んでいます。

 

 一畳半や二畳半という利休時代の呼び方は、一畳台目、二畳台目のことである訳ですね♪

 

 織部時代には、「台目」と呼ばれるようになり、以後現代まで続いています。

 いつの頃からか、我が家に蔦が付きました。


 子供の頃から憧れていた蔦の繁る家です。


 洋風の我が家にはピッタリの蔦。

 その蔦が紅葉を終え、葉が散っています(笑)


 この蔦紅葉は、三秋の季語ですが、今年の異常気象で、今頃に終わりを迎えているのでしょうか。


 蔦には常緑の蔦と紅葉する蔦があるそうで、紅葉する蔦は「夏蔦」というのだとか。これはブドウ科ツタ属の植物とのこと。平安時代には早春に幹から樹液を採り、煮詰めて甘味料を作ったので「甘蔓(あまづら)」と呼ばれていたようです。


 紅葉が美しいので「錦蔦」とも呼ばれます。

 原産は日本・朝鮮半島・支那地域です。日本では北海道から沖縄まで広く分布しています。


 蔦文として描かれるのは、夏蔦であることが多いですね。ほぼ蔦紅葉でしょう(笑) 9月頃から紅葉が始まり、11月には終わりを迎えるのだそうですよ。



 常緑の蔦は「木蔦」で、冬にも常緑であることから「冬蔦」とも呼ばれます。ウコギ科キヅタ属の植物で、こちらは日本・朝鮮半島・支那南部地域・台湾に分布しています。


 蔦なのですが、どちらも樹木で、金輪寺棗が作られたとされる伝承があります。


 見上げれば季節外れの蔦錦

 紅き葉の舞ふ冬の木洩れ日 月誧