吸茶とは一盌の茶を複数の人間で飲み合うもので、現在の濃茶はこれが基本となっています。
これは、「利休が改めた」とされていますが、どうも、「利休が」という能動的なものではなく、戦国の慌ただしさの中で「合理的にした」という受動的な工夫であったようだという論文を発見しました。
この論文の中で「侘び茶」とされているのは「侘数寄」のことなので、用語の理解としてはちょっと差異がありますが、その部分を除いて、非常に分かりやすく、発生とその洗練過程、定着までを詳しく論じています。
面白いのは、濃茶の後に「白湯二杯」を出したという部分と、その初見が利休の会ではなく天正十四年十月十三日の中坊源吾が亭主、客は宗治・(鍋屋)宗立・松屋久政が客という部分です。これは亭主相伴の流れで亭主を含めた四人で吸茶をしており、現在のような客だけが吸茶をするという形式ではなかった事がわかります。
また、神屋宗湛の『見聞記』天正十四年十二月十九日に津田宗及が「二名を一服(一盌)にするとはあんまりだ」と発言している記録があり、当時は各服点てが茶会として丁寧であるという認識が強かったことも分かります。
また『多聞院日記』の天正十六年二月九日に、秀吉所有の井戸茶盌に煉られた濃茶を五名で吸茶せよと出された折に、客が茶盌を奪い合って我先に飲もうとして、茶盌を割ってしまったという話があります。この場を取り繕ったのは細川幽斎で、『伊勢物語』にちなんだ和歌を即興で詠み、秀吉が感心したというエピソードが知られます。
このシーンは何を表しているかというと「順番に飲む」ということが「決められていなかった」ことを表しています。
ここで論文に面白いことが書かれています。
初見とされていたものの二週間前に、既に吸茶が見られるというものです。これは天正十四年九月廿八日の豊臣秀長の茶会で、山上宗二が点前、客は松屋久政、これは、久政と宗二の二人で飲んだらしいです。
この中で
・亭主と客が二人で一緒に吸茶
・客同士が二~五名で吸茶
・正客は各服、次客以下は複数で吸茶
というパターンが有った事がわかります。
このことから、吸茶が「徐々に臨機応変に取り入れられていった」様子が分かるのです。
また、この頃は「大名茶の湯(茶杓四~五匙に柄杓一杓)」と「町人茶の湯(茶杓三匙に柄杓一杓)」という区別があったことも書かれています。
つまり、現在、千家が濃茶三匙・薄茶一匙半、武家茶が濃茶五匙・薄茶二匙半というのは、この頃既に行われていたということになります。

