安藤家御家流さんの席を後にして、向かったのは不昧軒。

 

 こちらは、石州流伊佐派の御席です。

 

 茶道といえば現在は千家が主流ですが、江戸時代は総じて石州流(幕末は鎮信流……といっても、鎮信流も石州流の一派で、石州流鎮信派と称していたこともあるとか)が主流であったといいます。

 

 これは、将軍家御茶堂が石州流だったからでもあり、家光以後、御茶堂頭を務めたのが伊佐派です。

 

 どうして伊佐派に行きたかったのかというと、先日購入した「三日月棚」の話を伺いたかったからです。

 

 

 これは瓢の天板と瓢の透板という替板が付いているのを伺いたかったのですが、それは会が終わりましてからということで。


 掛物は待合に使われた圓成庵に不昧公の「楽」一字。歌が添えられており、


楽しみは生命のほかに何かあるらん

ながらえて見る有明の月


 とあります。

 

 本席は柳営御物とのことでしたが、記憶に残っておりません。というのは、竹台子に載った風炉が火鉢か?巨大な手焙か?というような唐銅の物で、藤田宗勝作の平型とおっしゃいますが、風窓のない風炉というのは初めて見ました。


 釻付は鬼面……なのでしょうが、平たく潰れていて、五角形をした釻が付いています。口には宣徳銅器のような装飾があしらわれていました。


 そして釜は石州好の切子釜。


 瓶掛のような風炉にちょこんと載った愛らしさのある組み合わせです。


 ただ、不思議なのは竹台子に載せていること。訝しがって居るのが伝わったのか、御家元(礒野宗明宗匠)から「こちらの台子は行の物で」どのご説明がありました。


 これは後から気づいたのですが、竹台子が利休好より高いのです。巾は利休好と同じ寸法ですが、高さが竹台子大と同じ高さになっていました。


 なので、竹台子小特有の狭さを感じさせず、巾は狭いまでも、皆具でなかったのでそこまで詰まった感がなかったのですね!


 水指は瀬戸四方……なんですが、「これ、微妙に対角がずれてますよね?」と確認すると「そうなんです。面白いでしょう」とのこと。


 形としては菱形ですが、菱置きに出来ない形をしています。パッと見は菱形なんですが、正しくは歪み菱だなぁ……と心のなかで(笑)


 茶入はずんぐりとした芋塊という茶入で、伊佐派に伝わる物だとか。釉薬が胴の中程までしかなく、気をつけないと地肌に触れてしまうので、慎重に取り扱いをしないといけません。


 茶杓は二節なのですが、真ん中画薬研樋になっていてやや太めの茶杓。作者の野村瑞典は全日本石州流茶道協会を立ち上げられた方で、石州流の研究家でもあります。


 豪放磊落な方だったのだろうと茶杓から御人柄が偲ばれました。


 また、目を引いたのは替茶器。面中次の面朱かと思いきや面取ではなく唐戸面。石州の好らしく唐戸面が朱になっていますが、「寸切」とのこと。


 現在、寸切と書かれて売られているものにほとんど寸切がなく、金輪寺のような嵌め込み底ばかりですが、これは刳り貫きになっているそうです。


 臨器に似た唐戸面の茶器を石州が好むとは、創意工夫をされるのに利休以前に遡った方だったのだなぁ〜と、感心しました。


 臨器には高台がありますが、面朱寸切にはなく、碁笥底でした。


 また、お?と目を引いたのが石州作の竹花入。一重切りで、明らかに年代物。流石は伊佐派。いいものが残っていらっしゃる。


 また、香盒が初代伊佐幸琢遺愛のたぬき! なんとも可愛らしい!


 茶席が終わりましてから、三日月棚のことをお尋ねいたしましたところ、炉・風炉共用。風炉では左に風炉、右に水指。特に変わった手はないとのことですが、こればかりはやってみないと不都合は観えてこないですねぇ。


 ただ、伊佐派さんに伝わる三日月棚には瓢の替天板や透腰板はないとのことで、どういうことなんでしょうか。


 この日はここで、時間切れ。


 点心を受け取って、小堀宗峯宗匠にご挨拶だけはと思ったのですが、残念ながらお席に入られていらっしゃるとのことで、またの機会に……ということにして帰途に就くことに。


 月光殿で母と合流(この間、母は鎮信流さんと小堀遠州流さんの御席に入ってました!)しまして、帰ろうと思ったら、私のブログをご覧になられた方がお声掛けくださいました♪


 嬉しいですね、こういうの。


 皆さんも、見掛けたら遠慮なくお声掛けくださいませm(_ _)m


【私伸】

 安野様、御電話番号頂いておりましたのに控えたメモを無くしてしまいまして、宜しければご連絡頂きたく。ご都合の宜しいときに自宅までお掛けください。

 

 

 毎年伺っている柳営茶会。

 

 年々主催側の方に知人が増えていく一方、客層が大分変わってきている気がしています。

 

 以前、安藤家御家流の先代であられる故・安藤綾信公が「色々な方に支えてもらえたら」というお言葉通り、多くの客を受け入れている結果なのでしょうが、市井の稽古が点前偏重に陥っていることが明らかになる場にもなっています。

 

 今回は、いつも通り宗靜先生と宗歌先生と宗和先生と回ることにしたのですが、残念ながら二席しか入れない結果となりました。

 

 まずは安藤家御家流さんの席に。

 

 牡丹の間(書院)を本席として、楓の間(新書院)を待合にされておいでで、こうすると、待合の話し声が本席に届かずにいいですよね。

 

 贅沢な使い方ですが、これがよろしいかと。

 

 9:30開始なのですが、みなさま8:30から来ていらっしゃるとのことで、えらく早起きなんですね。私はこれ以上早く来るのは厳しいので(近所のくせに)、二席しか入れなくても仕方ないと思っております。

 

 待合に入りますと既に大勢の方がいらして、ほどなく案内されましたが、既に正客に坐られていらっしゃるので、角辺りに陣取り、点前がよく見えるところに坐りました。

 

 点前は小寺先生。御家流小寺派のお家元ですね。分派してもきちんとお家元席の亭主を務めるのはさすがですよ。こういう在り方が、武家茶の基礎なんだろうなぁ。

 

 風炉は二条家の鳳凰風炉、棚は織部好の朱四方卓。据えられているのは葡萄棚が描かれた八方芋頭形の水指です。同手のものを畠山美術館で観た気がしますが、ツマミが特徴的です。

 本日は旧暦八月七日。上弦の月。

 上弦の月とは月入りのとき弓を張ったような形に見えるところからで、上の弓張りとも呼ばれるようになりました。

 また、支那では、玉鉤【ぎょっこう】とも呼ばれ、これは古代中国で、儀式の時に革帯をとめるのに用いた、弧状にまがって、背部に革帯をとめる装置のあるもののことで、丁度上弦の月のようであることから七日月のことを言うようになったものです。

 本来は、毎月の七日月のことですが、特に仲秋は美しい月であることから、陰暦八月の七日月を指して「玉鉤」と呼んだようです。


 この日の軸としては『万里無雲弧月円』などは如何でしょう?

 珠光好または紹鷗好とされている竹台子大ですが、どうやら、珠光好と紹鷗好は若干異なるようで、珠光好は筆返しがあり、紹鷗好は筆返しがない――というのが正しいようです(確定ではないですが)。


 唐突にこの話をするのは、先日伺った「柳営茶会」で、石州好の竹台子を拝見したからです。


 石州好は行の台子とされているそうなのですが(※)、これを真に近づけるため、二尺であった利休好(柱は一尺八寸一分)を二尺二寸にして、真台子と同じ高さにしています。



 ですが、現在は珠光好(または紹鷗好)が忘れ去られていることは間違いありません。


 風炉の竹台子は本来珠光好です。


 水屋の増築が完了したら、竹台子珠光好か紹鷗好を入手したいと思います! 新品の紹鷗好なら手に入るのですが、ちょっとお高いんですよね(笑)