本日は旧暦五月廿日、癸卯戊午丙寅。二十四節気の第十一。小暑。
夏も盛りから季(すえ)に入り、「暑中」と呼ばれる季節になります。小暑の次の節気が「大暑」で、小暑と大暑を合わせて「暑中」といいます。
これは、小寒と大寒を合わせて「寒中」というのに呼応しており、盆と暮れの行事として「暑中見舞い」「寒中見舞い」が行われます。
小暑になりますと、だいたい梅雨が明け、一気に暑さが激しくなっていきます。夏至から着物は夏物に変えはじめる訳ですが、小暑までには完全に褝は着なくなります。といっても「暑くて着る気にならない」でしょうけれども(笑)
ちなみに暑中見舞いは、大暑に出すものですので、七月下旬ごろにお出しになるのがよろしいかと思います。この暑中見舞いと寒中見舞いをしたあとに行うのが「御中元」と「お歳暮」なんですが、現代ですと、逆になってしまっているのが面白いなぁと感じたりいたします。
暑中見舞いでご機嫌伺いに参りますとお知らせして、伺うものなんじゃないのかなぁ?なんて思ったりするのですけれども、これも、新暦と旧暦の習慣の違いが、季節感を狂わせていると感じる一つであったりいたします。
茶道では裏千家さんの「葉蓋」や瀬田掃部の考案した点前(平茶盌)を復活させた晒し茶巾(馬盥茶盌)の点前、表千家さんの絞り茶巾(筒茶盌)などが行われる季節ですね。
当庵では、宗静先生と私で考案した「霙(みぞれ)点前」の季節です。
当流では、ほかに、平茶盌による洗い茶巾(裏千家さんのさらし茶巾と同じですが当流では平茶盌です)と氷点前(釣瓶水指と大板の一つ置きで風炉を用いない釣瓶大板、大盥に氷を浮かべて冷水で行う納涼点前など複数あります)があります。
この平茶盌、現在では廃れてしまった「穂が五分長い」茶筅(当流では長穂といえばこれ)にて「穂出し」をするのが当流の点前としての決まりです。
このころの御軸としては「修竹不受暑」とか「殿閣生微涼」「滅却心頭火自涼」なんていかがでしょう?
暑さを忘れるためにも「涼」の演出が不可欠ですね♪
前にもこのネタは書いたのですが、小説がいよいよ花会(はなのえ)に差し掛かり、青蓮院で村田宗珠が添え釜をする話になって、どうしても書かなければならないのが、「蹲」の話なんですね。
この頃の蹲は、現在のように役石が整っておらず、手を洗うための目的で、庭の一画に水鉢石と前石があるのみでした。
江戸時代に入って、茶の湯が茶道になっていくに従って、手燭石と湯桶石が添えられるようになり、水門(海)が作られ砂利が敷かれて跳ね返りの水が出ないような心配りが作られていきます。
初期は正方形の縦に長い石を使っており、蹲とはよばれていませんでした。これは立って使うもので、手水鉢と呼ばれます(慈照院方形手水鉢)。
これが、利休の時代につくばうようになっていくのは、待庵のにじり口の考え方に添っていると思われるのです。
この手水は、トイレが廁から御手洗いと呼ばれるようになる大きな変化であり、それ以前は手を洗う場所がなかったというのに、いつしか水で手を洗うという習慣が広く定着していきます。
それ以前は疫病の際に、神社に手水舎が設けられたり、潔斎をするのに水を使うなど「浄める」という役割で水が使われていましたが、誰しもが使っていた訳ではありませんでした。
それが、衛生観念の高まりとともに、普及していったのが室町後期であるということです。
これは、日本の歴史の中で、人口の密集が都ではないところでも起こっていたことによると考えられます。
都の上水・下水の在り方が、多くの都市にも普及していき(だからこそ近世までの都市は川の近くに都市ができる)、衛生観念が発達したといえるかと。
「赦免帰堺」というのは千道安(当時はまだ紹安ですが)が、秀吉の勘気が解け、蟄居が赦されたことにより、堺へ帰ることができたという意味です。
色々史学的な見地や、当時の常識的なことから推察するとどうしてもこうであったろうということと、利休の茶の湯と道安の茶の湯の違いなどから、道安が何を考えていたのか?ということから、利休の物語を道安が渡邊立安に語る――という形にするためのお話です。
あくまでこれは、「私はこう考える」という一つの答えでしかなく、他にも色々と考えのある方も多いと思いますが、物語の出だしとしては、いい冒頭を描けたと思います。
この話にだけ、和歌がないのは、序章だからで、第二章以降の各話にも和歌は一首ずつつけていこうと思います(時々、話中に和歌が登場する場合もあります)。
現在は第二章のプロットを練り直している最中で、第十一服を書き出しています。
別作の人気が出て、数寄の長者よりも要望が高くならない限りは、数寄の長者を優先して参ります。
引拙棚は鳥居引拙のことを調べると必ずでてくる棚物の割には、現存していないのか、写真も図もでてきません。
ただし、この道具は「台子大の大きさで、引き違い戸が付いた地袋があり、地袋に水指を仕舞っていた」とあります。
これが単なる飾棚だったのでしょうか?
真台子大は横幅三尺(約90.9cm)です。
このサイズでは普通、風炉を置くようにすると考えられ、地袋は二尺ほどの幅に引き違い戸でついていたとしたらどうでしょう。
袋棚の風炉用があったということになります。
もしくは、地袋が横いっぱいだったとして、高さが地袋分台子より大きかったらどうでしょう?
この鳥居引拙は珠光に師事した、津田宗柏の従弟であり、津田宗伯が本名です。
この宗伯の引拙棚を改良して炉用にしたのが武野紹鴎です。
ちなみに砂張の捻梅水指は胴径が大体19.5~22.5cm程度で、60cm(二尺)の引き違い戸があれば、十分入りますし、出し入れすることも可能です。
風炉も30cmもあれば置くことができますし、現実味を帯びてきましたでしょうか。
引拙棚を想像しながら風炉の袋棚を考えるのが面白く感じられます。
皐月のお茶会へ行こうは、端午の節供をテーマにさせていただきました。
濃茶は真台子、盆点。唐物写の平唐物点前です。
真塗四方盆をつかいまして、行いました。
初遣いの鍋島青磁がいい色合いでした。
馬蝗絆はこれと合わせると色味が違うのであえて薄茶にしました。
天の色に対して黄瀬戸の色がよく似合いましたね。
道具組みは以下の通り。
床 軸 瀧 雪尾要道禅師筆
花入 織部 双魚耳付 加藤景陶作
花 季のもの
濃茶
釜 平丸釜 川邊庄造作
風炉 唐銅 鬼面 添
棚 真台子
皆具 鍋島青瓷 小笠原長春作
茶器 京瀬戸 茄子 桶谷定一作
仕覆 江戸和久田金襴
盆 輪島 真塗四方
茶盌 黄瀬戸 鬼佛庵楽生作 銘『醍醐』
茶杓 安住楽風作 教授八種 元節
火箸 唐銅 鳥頭
菓子器 杉木地風 縁高
菓子司 柏餅 武州板橋 梅香亭
御 茶 神楽殿 山政小山園詰
薄茶
棚 瓢棚 裏千家淡々斎好 笠井宗裕贈
水指 京高取 大管耳 桶谷定一作
飾棗 唐物写 独楽棗 道場宗廣作
茶盌 主 青磁 馬蝗絆写 今岡妙見作
次 乾山写 兜絵 田中渓峰作
替 色絵 利休所用甲冑図茶盌 山川巌作
茶杓 村田珠光作茶瓢写 銘『玄瓢』 安住樂風作
建水 唐銅 箪瓢
蓋置 黄瀬戸 三つ瓢透 野田東山作
菓子器 黒爪紅 蛍蒔絵団扇盆 男庵贈
菓子司 餡蜜 自家製
琥珀糖 洛中四条 永楽屋
御 茶 四方の薫 山政小山園詰