前にもこのネタは書いたのですが、小説がいよいよ花会(はなのえ)に差し掛かり、青蓮院で村田宗珠が添え釜をする話になって、どうしても書かなければならないのが、「蹲」の話なんですね。

 

 この頃の蹲は、現在のように役石が整っておらず、手を洗うための目的で、庭の一画に水鉢石と前石があるのみでした。

 

 江戸時代に入って、茶の湯が茶道になっていくに従って、手燭石と湯桶石が添えられるようになり、水門(海)が作られ砂利が敷かれて跳ね返りの水が出ないような心配りが作られていきます。

 

 初期は正方形の縦に長い石を使っており、蹲とはよばれていませんでした。これは立って使うもので、手水鉢と呼ばれます(慈照院方形手水鉢)。

 

 これが、利休の時代につくばうようになっていくのは、待庵のにじり口の考え方に添っていると思われるのです。

 

 この手水は、トイレが廁から御手洗いと呼ばれるようになる大きな変化であり、それ以前は手を洗う場所がなかったというのに、いつしか水で手を洗うという習慣が広く定着していきます。

 

 それ以前は疫病の際に、神社に手水舎が設けられたり、潔斎をするのに水を使うなど「浄める」という役割で水が使われていましたが、誰しもが使っていた訳ではありませんでした。

 

 それが、衛生観念の高まりとともに、普及していったのが室町後期であるということです。

 

 これは、日本の歴史の中で、人口の密集が都ではないところでも起こっていたことによると考えられます。

 

 都の上水・下水の在り方が、多くの都市にも普及していき(だからこそ近世までの都市は川の近くに都市ができる)、衛生観念が発達したといえるかと。