寄付が牡丹の間で、楓の間が本席……普通逆じゃね?(笑)

 

 いや、面白いから有りなんですが、実際には牡丹が夏の季語(初夏)で、楓が秋の季語(晩秋)ですので、春には合致しないんですけど。護国寺の月光殿にある書院は、楓の間が新書院(八畳+八畳)、牡丹の間が小書院(十畳+控えの間四畳)という違いがあります。

 

 大玄関や牡丹の間は、もとは東京麻布の鍋島藩邸にあったもので、月光殿と同じ機に移築されたものだそうです。

 

 楓の間は、実は炉が2箇所切られていて、2つの部屋として使うことも可能な書院です。四畳半の立ち水屋、六畳の控えの間があり、大寄せのための人数が待機できるスペースがあります。

 

 床は、泉福寺の装飾経切で、法要に合わせて選ばれたのだそうで、寄付が遠州公辞世の書捨文一対(十四代宗忠筆)でしたし、どちらもかなり格調高い掛物です。

 

 圧倒されてしまう存在感。

 

 花入は柳営会のときとは違って東大寺転害門古材。

 香盒は青磁の布袋唐子遊び文。

 

 炉椽には龍光院祖堂(遠州公)の古材とのことで、花入とは古材つながり。

 

 釜は芦屋の霰真形。芦屋は真形ですからね。いい釜でしたよ~。

 円窓に竹梅文で、摘みが松になってました。

 

 風炉先も東大寺の古材。

 

 棚は、中央卓。

 かなり大振りな香炉卓で、青貝で楼閣を描いた山水文です。

 これはかなり細かく、素晴らしい品。

 

 水指は染付の竹。みずみずしさを感じさせます。

 

 茶入は紹鴎好の丸棗(飾)。

 日の丸棗とはちがってちょっとぼってりした感じが愛らしさを感じさせます。

 香道を嗜んだ紹鴎の好みがなんとなく見えてきます。紹鴎袋棚と合わせてもよさそうなぼってり感は、春慶塗に映えそうです。

 

 高麗粉吹(粉引)の茶盌は「茶[石完]」と書かれており、遅桜の銘。

 流石歌銘のお家柄。初花に遅桜。完璧。

 

 茶杓は初瀬山。こもりくの~を枕詞とする奈良の初瀬(泊瀬)の山です。しかも遠州公の茶杓。

 これ写したい。

 

 菓子器が「楪子」で、少し驚きました。

 いや、かなり大きい楪子だったので。

 

 なるほどなー。こういう楪子もあったのか。

 

 ほんと勉強になることだらけでした。

 

 また、お邪魔させていただければと思いつつ、最後の席に回ります。

 本日は旧暦二月廿六日、二十四節気の第五節「清明」です。

 清明とは「清浄明潔(清らかで活き活きとした様子)」を略した言葉で、春先の躍動感に溢れる情景を意味します。『暦便覧』には「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれるなり」とあります。

 花が咲き始め、枯れた草花の中から新芽が出てくるなど「復活」の印象が強い時期ですね。ちなみに、キリスト教では3月末~4月中旬ぐらいに「イースター(復活祭)」があり、これはキリストが死後三日後に復活したことを祝う祭りとされていますが、実はユダヤ教の「過越の祭」を雛形として成立したもので、時期も近いことですし、キリスト教圏で茶道を行うということにおいては、クリスマスと並んで取り込みやすいものかもしれません。

 日本では全国的に桜の開花時期にあたり、花見真っ盛り。
 南国(九州など)では燕が渡ってきます。雨が多くなり、暖かくなったのち小雨が降り続いて寒さが戻ったりします。この戻りは、実際にそれほど寒くはないのですが、体感的に寒く感じることが多くなるため、風邪を引きやすいのもこの時期です。

 支那では、先祖供養をします。沖縄でもこの風習が残っているそうです。全国的には彼岸にこの習慣は含まれてしまい、日本ではあまりこうした行事をする習慣はありません。これは、支那の花見といえば梅で、彼岸が日本独自の行事であるため、夏になる前に墓を清めることで、先祖供養の一環となったのかと思われます。

 茶道では桜の道具が登場したり、月遅れだとひな祭りの道具立てなどが行われるのもこの時期になります。実は、炉を掘れる場所では野点も行われ、吊釜として代表的な雲龍釜の故事などを偲びます。また、旅箪笥が小田原陣中で用いられたのもこの時期です。謡曲「隅田川」に因んだ隅田川文様もこの時期のものです。梅若丸と花御前の故事から、橋(弦)、枝垂柳、渡舟が描かれます。

 和服は、雨が降りやすかったり、夜はまだまだ寒い時期になりますので、傘や上着を余分に一枚持っておくのがいいですね。袷では暑いと感じる人も多くなりはじめるので、春分を過ぎると人形仕立てにし、清明を過ぎる頃には襦袢を薄手の物に変えるなどの工夫が始まります。

 清明に相応しい御軸といえばやはり「渓水山風共清」「碧潭清皎潔」「清坐一味友」あたりでしょうか。個人的には茶掛らしい「清坐一味友」を推したいですね♪

 艸雷庵は、青年部 小堀宗晋先生のお席です。

 

 小堀家の方かと思われますが、しっかりしていらして、道具の説明も淀みなく、大変若者らしいお席でした。

 

 寄付は 円覚別峰筆 「無 月有花有」。

 円覚寺別峰老師ーーつまり朝比奈宗源老師です。水戸黄門、大岡越前など、時代劇の題字を手がけたことでも知られている御仁で、明治24年生~昭和54年歿。静岡出身で円覚寺派管長を務め、著に「碧巖録訳註」などがあります。この方の色紙を一枚持っておりまして、「何処かで見たことある字だな」ぐらいは分かったのですが、別峰という号は記憶にありませんでしたw

 

 次は覚えておきましょう。

 

 こちらは立礼席です。立礼台という宗圓宗匠好の立礼卓でのお点前でした。

 

 風炉が鉄の遠州好瓢形。

 これは、釜と風炉が切合のようにピタッとくっつくもので、全体で瓢の形をしているという面白い風炉釜です。

 前に、ネットでは意見したことが有り(ヤフオク)、印象に残っていたのでスグ分かりました。

 

 献茶で使われていた桑花輪違の香盒はこちらに飾られていました。

 

 水指は「朝鮮唐津ではない、唐津でもない、古曽部に似てるがやっぱり違う、なんだ?」と思ったら、静岡繋がりの志戸呂!そうです、遠州七窯の一つではないですか。あーーーー、まだまだ引き出しがきちんと整理されてないなーと感じながら、話に聞き入っておりました。

 

 そもそも、寄付の朝比奈宗源老師も静岡繋がり。

 

 床の清流富士画も静岡繋がり。

 

 平棗の三保の松原蒔絵ときて、茶杓が羽ごろも(十三代宗博作共筒)、主茶盌が「不二」とくれば、羽衣伝説がモチーフという繋がり。いやぁ、見事な道具組ではありませんか。

 

 建水が南鐐の六角捻(長野烈先生作)、蓋置が南鐐月(大西清右衛門作)とくれば、夜から夕方に掛けての羽衣の舞が見えてくるようです。

 

 同席された豊平良彦先生の長盆が拝見に周り、霞蒔絵とのことで、富士の雲海が、席を一周して富士の周りに棚引く様子を感じさせてくれました。

 

 将来有望な若手が要ることを知り、小堀遠州流の未来が明るいことを知りました。

 

 とてもうらやましい限りです。

 

 次は家元席ですので、楓の間に移動します。

 艸雷庵から月光殿は、つながっているので、ショートカットして履物だけ玄関に置いて向かいます。

 一席目は薄茶で、月窓軒ということなので、本殿(月光殿)に戻り、中から待合(月光殿の縁)に並びます。

 

 後で知ったことですが、誰を正客にするかというのは、事前に通達されていて、メンバーが変わらない訳ですから、ずっと同じ方が正客をなさることになっていたそうです。

 

 釜は、長野垤志先生のもので葉文とありますが、蛤形の葉っぱの地紋が有る平べったい釜でした。

 炉のときの蓋置の位置が千家と違うのがまた面白いですね。

 都流はこのあたり千家と同じなのですが、炉畳隣の3目3目に置きますが、小堀遠州流さんは、点前座の側に入れて置かれていました。

 

 これはなんでなんだろう?と思いながらも面白いなーと思いました。

 

 水指は、変わった染付で、金彩の入った竹の絵です。西村徳泉作だそうです。お隣になったのが豊平良彦氏(漆芸家)だったのですが、配り会記を御手許に出されながらだったのが、気になります(勿論何も申し上げませんでしたが)。

 

 茶杓が、宗圓宗匠のお手作りで、銘・山桜。

 先日使われたお道具と共通する「雪のむら消え」がどなたも出てこなかったので差し出がましいですが、ボソッと「雪のむら消えですね」と申し上げておきました。

 

 この席の見処は「蓋置」でした。

 

 隅田川焼の七代白井半七のもので、都鳥透。

 八代からは小林逸翁の招きで兵庫県に移られており、隅田川焼ではなくなったのですが、実は一般に言う隅田川焼と茶陶における隅田川焼は異なっていて、一般的に言われる隅田川焼は「今戸焼」といいます。隅田川の中洲の土を使った焼物は「隅田川楽焼」といい、別物です。

 

 白井半七の従兄弟の家が今でも隅田川沿いの今戸で焼かれているとかいないとか。

 こちらは、師範披露席で、三名の席主さんが一所懸命に席主をつとめておられました。

 それと気になっていたのは、風炉先で、色紙がたくさん貼ってあり、どんな歌が書かれているのか気になったのですが、流石に写真を撮るわけにもまいらず、正客さまはあまり深くお気にならないのかさらっと聞いただけで過ぎてしまわれたので、もうちょっとお話をお聞きしたかったところでした(残念)。

 

 知り合いが正客になるというのは、席主としては安心ではありますが、連客を愉しませることが正客の役割なので、今少し趣旨や物語を引き出していただけたらよかったなぁ……と思うのは、贅沢ですね(笑)

 

 次のお席は、艸雷庵なので、「しまった!」と。中から回らずに、外から回れば、遠回りせずに済んだのに!

 

 今後は気をつけるといたしましょう。

 令和6年3月24日(日)、小堀宗圓宗匠・宗峯若宗匠よりのお招きで、遠州忌に参加させていただきました。

 

 組分けがされておりまして、組分けごとに「何時に何処の席入り」というのが決まっており、なるほどスムースに回れるように取り図ってくださってるのがわかります。私達(私と母・宗靜先生)は宙組。

 

 受付で、岩田宗匠(宗徧流正伝庵の家元)がいらっしゃいまして、ご挨拶。なるほど、さすが武家茶のお付き合いだなぁ~と。

 

 9時半より忠霊堂にて、献茶式とのことでしたので、忠霊堂に向かいます。

 岩田宗匠は貴賓席に。

 来賓席が空いていまして、宗峯若宗匠から「どうぞ来賓席に」と案内されましたが、流石に気が引けまして、宙組の一般席へ。

 

 軸は十二代宗舟筆の遠州寿像。明治三十年二百五十回忌の折のものとのこと。淡い色彩でやや線の細い武人像が描かれていました。

 

 そこに飾られていた香盒は茶道をこの上なく愛された小堀宗通宗匠の姉・百合子さまが15歳で皆伝を受けたということを記念して作られた桑花違文で、小堀宗忠宗匠の箱がついているそうです。残念ながら、百合子さまは関東大震災でお亡くなりになられたそうで、小堀遠州流の方々は口々に生きてらしたらどれほどの茶人になられただろう……と思われたことでしょうね(これは本席でお聞きした話ですが、こちらの道具なので)。

 

 台子は、遠州好みでバッチリと組み合わせてあり、七宝釻付の釜にまん丸の鬼面風炉、瓢箪形の唐銅水指に、下蕪の杓立、餌畚形の建水と揃っています。四代高木治良兵衛の作だそうです。高木家は、初代が大西家浄雪に師事し、安政二年(1855)年創業し、以後代々三条釜座で釜の製作にあたっています。初代兄は大西家十二世浄徳を継いで、十三世浄長の後見人として大西家に残っています。現在六代目。

 

 四代高木治良兵衛は明治44年生、三代高木治良兵衛の長男で、彫金を中野美海、日本画を三宅鳳白に師事、金工は三代高木治良兵衛に師事。昭和26年、四代治良兵衛を襲名。平成8年歿。今までの打肌釜肌にくわえ、挽肌釜の上に水墨画のタッチで地紋を表現する京釜を製作昭和60年京都府知事より老舗表彰を受けています。

 

 唐銅の道具がびしっ!と揃っている中で、献炭(献茶の際の炭手前のことのようです)が始まりました。

 

 じっと目を凝らすと、火箸が前にある!!!!

 面白いのは、火箸を抜くときに柄杓を前に倒し、火箸を戻す際に柄杓を後ろに掛けたことです。

 このあたりは、流儀によって違うものなんだなぁ~と。

 

 火箸も、釻も四代高木治良兵衛の作。

 火箸は遠州好針形平打、とあり、美津火箸の穴を大きくしたような、平たく角みを帯びた火箸です。

 釻も遠州好で十六大角豆(ジュウロクササゲ)とありますが……

 

 

 確かにこんな感じ!

 こんな釻もあるんですね!

 

 釜敷は、懐紙のようにみえましたが、好紙(よしがみ)と会記にあります。

 後の席で知るのですが、小堀遠州流さんは、懐紙を広げて使う習慣がある(お菓子とか)のです。ですが、これは「たしかに!」と思うほど合理的な考えからのものなんです。

 

 いやぁ、勉強になることだらけで、その上、宗峯先生のお点前の綺麗なこと、綺麗なこと。

 凛々しい姿に母と二人でうっとりしてました。

 

 終わりまして、受付に点心を取りにいき、柿傳さんの点心に舌鼓を打ちました。

 めちゃくちゃおいしい!

 

 魚介類苦手な私でも、平然と食べられるほど美味しい味付け。

 蟹と海老さえなければ、また、食べたいですな~。