本日は旧暦三月十三日、十三詣りです。

 十三詣りは旧暦三月十三日に数え十三歳で寺社に詣でる京都の子供のお祝いです。
 
 十三歳は厄年にあたり、半元服でもあり、大人の仲間入りをすることから、初めて本裁ちの晴れ着を着ます。このとき必ず肩上げをして、着付けます。事あるごとにこの着物を着せて自然に立居振舞を身につけさせるはじめとします。
 
 また、半紙に自分が大切にしている一字を毛筆でしたため供え、ご祈祷を受けて、お守り・お供物を頂いて帰り親に感謝を述べて、お守りを身につけるのだとか。
 
 なお、参詣の帰路、本堂を出たあと、後ろを振り返るとせっかく授かった智恵を返さなければならないという伝承があって、狭い長い石段を降リ切った鳥居をくぐるまでは、または渡月橋を渡り終わるまでは周囲の誘いにも動じず後ろを振り向かないで貫き通す習俗があるそうです。黄泉の国の話のようで面白いです。
 
 主に関西の風習ですが、着物を大人のものにする機会であるため、現在は他の地域にも広まっているそうです。

 

 この日に相応しいお軸は「竹有上下節」ではないかと。すくすくと育つ竹の軸を掛けて、子どもの成長を祈りましょう♪

 本日は、旧暦三月十一日、二十四節気の第六「穀雨」です。
 

 田畑の準備が整い、それに合わせて春雨が降るころです。穀雨というのは「穀物の成長を助ける雨」の意味で、昔風に言えば「春雨が百穀を潤す」となります。『暦便覧』には「春雨降りて百穀を生化すればなり」と記されています。「百穀春雨」とも言います。種まきなどに適した時期なので、農作業の目安にされたりしています。

「清明以降雪が降らなくなり、穀雨になると霜が降りることもなくなる」とも言われますが、日本では春分過ぎると霜が降りることはまずありませんし、四月の雪など見たこともないですね(北国を除く)。北国では冬支度から完全に開放され、南国では蜻蛉が飛び始める頃ともいいます。

 変わりやすい春の天候も安定し、陽射しも徐々に強まり夏の気が近づいていることを感じさせます。穀雨の終わりには八十八夜があり、茶道にはゆかりの深い雑節を迎えます。

 茶道では最後の炉の時期です。
 表千家、武者小路千家では吊釜、裏千家では透木釜。
 個人的には「これは趣向によるのでどちらでもよいのでは?」と感じるところですが、穀雨を過ぎると気温と湿度の具合から、「透木釜の方がいい」と感じるのですが、皆さんはどうでしょう?
 これまた個人的ですが、初風炉には眉風炉に雲龍釜か筒釜という組合せが好きなので、吊釜だと似たような釜が続いてしまうのが面白みに欠ける!と思ったりするのですよね。

 着物的には早取りの褝(例えば大島の褝など)が始まります。
 男性は襦袢を早々に麻に替え、暑さに備え始めます(半襟が夏物ではNGなのでそこを注意しないといけませんが)。雨が多いのもこの時期ですから、雨具の用意や雨にぬれても大丈夫な着物のセレクトが重要になってきます。

 この時期に相応しい御軸は「雨収山岳青」「得雨一時開」「雨洗娟々浄」などがいいかと思います。特に花との関係性が春は喜ばれますから「得雨一時開」がお勧めです♪

紫のはじめて咲きし八角蓮

大きく開きし葉に隠れなば 月誧

 

 

 茶友のWAさんからいただいた斑入り八角蓮。実は初めて花を着けました!

 へー!こんな花なんですね。

 

 大きな葉っぱで花を隠してしまうのはなんでなんでしょう?

 

 面白いですね♪

 

 残念ながら中国原産の植物で、帰化していないため、当流では使えません。

 八角蓮がテーマならいいでしょうけれど(道具組みが難しそう)。

 

 瀟湘八景の釜や水指が手に入ったら考えてもいいかもしれませんね~♪

 

 

習ひをばちりあくたぞと思へかし書物は反古腰張にせよ

 これは利休百首の九七番の歌で、書物【かきもの】とは現在のノートや参考書とされていますが、私は記録道具だと思っています。


 つまり、ノートだけでなく、カメラやスマホといったものから、古きは筆箱、矢筈まで、ありとあらゆる記録できるもののことです。


 書物にされたものを読んだり、動画や写真を観て、誰しもが茶を美味く点てられるなら、流儀も流派も教室も先生も不要です。ですが、みんな先生から習い、教わり、マニュアルや書物から得るものはそれらを補完する情報でしかないことは、習っている人は理解できていると思います。しかも、習っていても、教えていても必ずしも美味しいお茶が点てられるとは限りません。

 学校の勉強に例えるなら、書物は教科書。教科書さえ読んでいれば理解できるのなら、授業を受ける必要はありませんよね?

 でも、授業は受けなければなりません。そして、授業を受けた方が、教科書を一人で読んでいるよりも理解しやすくはありませんか?

 私なぞは、配られた教科書を貰ってすぐに全部読み、一年分の予習を初日にしておくタイプでして、分からないことをノートに書き出し、習ってもなお疑問であれば、先生に確認するということをしていました。進学塾にも通っておりましたので学校の授業は復習めいた感じでしたが、やはり授業で教わると理解度が深まります。

 予習という意味において、教科書というものはとても効果があると思います。では何故、茶道では「反故腰張にせよ」などと言って、書物を否定するのでしょうか?


書物に頼らば心に覚えず

 人というのは、記憶するのに「二度とない機会だ! しっかり見て・聞いて覚えなければ!」と思うと、記録していなくても|憶《おぼ》えていられるものだから……というのとは少し趣きが異なります。というのは、記録するときの問題点があるからです。


 いざ記録し始めると、書くためには紙面を見るために視線が動き、その間の細かい動きや所作を見逃します。つまり、見取り稽古(目で見て覚える稽古法)の機会を記録することで自ら失っているのです。


 また、書物には中心となる所作のことは書かれていても、その所作をするための体の動きや姿勢、挙動、筋肉の使い方や重心の動かし方というものは、書かれていません。記録するときも大抵、中心となる所作のことばかり記録して、他の細かい部分を記載している人や書物を見たことはありません。


 茶道の所作というのは、そこだけを見ていればいいのではなく、その動きのためにどう動いているのか、自分と何が違うのかを考えながら見なければならず、「記録する」という別の行動を差し挟むと「見逃してしまう」からこそ戒めています。


 私も四十年以上やってきてようやく正しい正坐を知ったぐらいですから、見るということの難しさが分かります。これは、神官や僧侶の正坐を見ていて気づいたので、単純な見取り稽古とも少し違うのですが。


 見取り稽古とはそれほど真剣に見なければならないものな訳です。そして、あるとき突然「ああ! そうか。そういうことか」と腑に落ちるものなのです。


 映画『日々是好日』でも突然雨の音の違いに気づくシーンがありましたが、本当に「ある日突然気がつく」のですね。あれは、経験した人にしかわからないですし、そういう経験というものは「普段からなんだろう?」と興味と関心を抱いて物を見ていない人にはなかなか訪れなかったりします。


 見逃さないようにするなら、動画で記録すればいいんだ!と思う人も居るでしょう。しかし、人の目よりも高精度なカメラはなく、人の視界よりも広範囲を撮るには大掛かりな機材が必要となります。体の向こう側にあるものさえ、人の目と心の目には映って居ますが、画面では見えなくなってしまいます。これらはあくまで「影」でしかないのです。それ故「撮影」と呼ぶのは至極真当であるということになります。


 少し脱線しますが、「影」というのはどういう意味だかご存知ですか?


 光が物にあたってできる形? それは正しくは「陰」です。「影」とは実は「ひかり」のことで、そこから光が物にあたって映し出された物の形を言うようになり、実体のない写し身を指すようになります。「月影」とは「月の光」のことですし、「魚影」とは水の中を泳ぐ魚の群れをいい、魚は実体でも群れそのものは実体ではありませんから「影」なのですね。このことから「まぼろし=幻影」を意味するようにもなります。


 茶道では実践を大切にしますが、この影で本物を見た気になってはいけません。即ち、映像や画像では茶道にはならないということになります。実学とでも言うべき深い教えがここにはあるのです。


 そして教科書のような物があると「見返せばいいや」とか「先生の言っていることは違う」などと言い出す人がいます。書物は誰にでも同じことを提示しますが、先生というのは弟子を見て指摘するところを変えたり、理解できないだろうと感じたら理解できるまでのことしか教えなかったりする訳です。下手をすると次のステップのためにあえて違う所作をさせているかもしれません。


 ですから、教科書的なものは勉学の為のものであり、身に付けるべき所作や体の動きという全体を見なければならないものには向かないということが分かります。


(つづく)

 いまだに上手く答えられない質問の一つがこれです。

 

 というか、これはおそらく「人の数ほどある」のではないか?と思うのですが、最小公倍数というか最大公約数というか、多くの人に共通することを探ってみることで、見いだせるのではないかと思ったので、少し掘り下げて見ることにしましょう。

 茶道の目的


 

 茶道の目的は「茶会を開けるようになること」です。

 この茶会とは、一般の人が思っている大寄せの茶会や、薄茶・濃茶のいずれか片方または両方を出す会ではなく、懐石と八寸(お酒)があって、その後に濃茶・薄茶のある「茶事」のことです。

 

 これら一連の流れと道具の扱いを覚え、数寄屋の掃除の仕方や水屋の道具の使い方、準備の仕方を覚えて、ようやくできるようになります。

 

 つまり「もてなすための準備と道具の使い方、作法と所作を身につける」のが目的といえます。

 

 では、楽しさはどこにあるのか?というと「道具の組み合わせ」にあります。

 

 道具組みとは


 

 道具組みというのは、文字通り道具の組み合わせ方ですが、単に「見栄えだけで組み合わせていいものではない」という点に注意が必要です。これは流儀ごとにいろいろと違いますから、あまり詳しくは書きませんが、駄目な組み合わせ方というものもあるので、これに従って組み合わせていきます。

 

 とはいっても、道具組みの規矩というのは、ある程度自由度があるので、その中で「その日の茶会に使われる理由」というのものを設定していく訳です。

 

 これを「物語」といいます。

 

 物語には上手(じょうて)と下手(げて)があり、そのものズバリを持ってくることを「下手」、それにまつわるものを添えることでそれだと示唆することを「上手」といいます。

 

 例えば、餌畚をつかって「大黒さま」、鯛で「恵比寿さま」、琵琶で「弁天さま」、槍の鞘で「毘沙門天」、寿文で「寿老人」、布袋竹の花入で「布袋さま」、福文で「福禄寿」などの七福神を示すというのもあります。勿論これに限定されるものではなく、もっと上手(じょうず)な物語をつけられる方もいらっしゃいます。

 

 槍の鞘建水と駅鈴蓋置の組み合わせはどの流派でもなさる組み合わせですが、これは「騎馬」を示す道具組みで、端午の節供によく見られます(私も必ずやります)。勿論これは、建水ではなく槍鞘肩衝茶入と駅鈴蓋置とですることも可能ですが、組み合わさっていることから一対のように扱われることも多いです。

 

 他には金の瓢箪なら羽柴秀吉を、五角形なら桔梗形ですから明智光秀をイメージするということもできます。雁金から柴田勝家(柴田勝家の家紋)とか、こういうものも広く物を知っている必要がありますが、それは亭主側の話です。

 

 客としては「これはどこに物語があるのだろう?」と考えて、亭主に話を振れればOK。

 亭主が愉しそうに話をしてくれます。

 

 城楼棚+近江八景水指なら、安土城、彦根城など、近江国にある城をテーマに自由自在でしょう。石田三成でも、井伊直政でも、色々と道具を組み合わせることもできます。

 

 他の道具でもお城をイメージできればこの城楼棚は色々使えるんじゃないかと思いますね~。

 

 こうした物語で情景を描き、それを主客(亭主と正客)で問答をして答え合わせをするという遊び方です。

 

 掛け軸に「無事是貴人」を掛けておいて「禅語の意味とは違いますけれども、皆様の無病(六瓢)息災を祈って道具に六つの瓢を隠して置きましたから、是非、六つ探し出してください」とか。

 

 ただし、同じ道具は重ねないのがよいとされることが多く、私等は「三つは重ねないものよ、最後の一つはお客様のお召し物や持ち物に残しておきなさい」と教えられました。または「二つを重ねるにしても、月の蒔絵と月の文字などのように、別の形が好ましいわね」と言われております。

 

 こうして、知識とお金とを注ぎ込んで、お客様をもてなすのが、茶道ーーいえ、茶の湯であると言えます。

 

茶道とは?


 

 つまり、心を豊かにするためにするものといえるのではないでしょうか。

 知識や教養というものを蓄えて、道具の景色を見立てて物語を紡ぎ、組み合わせて一つの席を作り上げる。

 

 これは小説を書いたり、絵を描いたりするのに似ていると私は思っています。

 

 ただし、自分で書いたり、描いたりするのではないところに難しさがあったりするわけです。

 

 どうです?

 みなさんも茶の湯やってみませんか?