習ひをばちりあくたぞと思へかし書物は反古腰張にせよ

 これは利休百首の九七番の歌で、書物【かきもの】とは現在のノートや参考書とされていますが、私は記録道具だと思っています。


 つまり、ノートだけでなく、カメラやスマホといったものから、古きは筆箱、矢筈まで、ありとあらゆる記録できるもののことです。


 書物にされたものを読んだり、動画や写真を観て、誰しもが茶を美味く点てられるなら、流儀も流派も教室も先生も不要です。ですが、みんな先生から習い、教わり、マニュアルや書物から得るものはそれらを補完する情報でしかないことは、習っている人は理解できていると思います。しかも、習っていても、教えていても必ずしも美味しいお茶が点てられるとは限りません。

 学校の勉強に例えるなら、書物は教科書。教科書さえ読んでいれば理解できるのなら、授業を受ける必要はありませんよね?

 でも、授業は受けなければなりません。そして、授業を受けた方が、教科書を一人で読んでいるよりも理解しやすくはありませんか?

 私なぞは、配られた教科書を貰ってすぐに全部読み、一年分の予習を初日にしておくタイプでして、分からないことをノートに書き出し、習ってもなお疑問であれば、先生に確認するということをしていました。進学塾にも通っておりましたので学校の授業は復習めいた感じでしたが、やはり授業で教わると理解度が深まります。

 予習という意味において、教科書というものはとても効果があると思います。では何故、茶道では「反故腰張にせよ」などと言って、書物を否定するのでしょうか?


書物に頼らば心に覚えず

 人というのは、記憶するのに「二度とない機会だ! しっかり見て・聞いて覚えなければ!」と思うと、記録していなくても|憶《おぼ》えていられるものだから……というのとは少し趣きが異なります。というのは、記録するときの問題点があるからです。


 いざ記録し始めると、書くためには紙面を見るために視線が動き、その間の細かい動きや所作を見逃します。つまり、見取り稽古(目で見て覚える稽古法)の機会を記録することで自ら失っているのです。


 また、書物には中心となる所作のことは書かれていても、その所作をするための体の動きや姿勢、挙動、筋肉の使い方や重心の動かし方というものは、書かれていません。記録するときも大抵、中心となる所作のことばかり記録して、他の細かい部分を記載している人や書物を見たことはありません。


 茶道の所作というのは、そこだけを見ていればいいのではなく、その動きのためにどう動いているのか、自分と何が違うのかを考えながら見なければならず、「記録する」という別の行動を差し挟むと「見逃してしまう」からこそ戒めています。


 私も四十年以上やってきてようやく正しい正坐を知ったぐらいですから、見るということの難しさが分かります。これは、神官や僧侶の正坐を見ていて気づいたので、単純な見取り稽古とも少し違うのですが。


 見取り稽古とはそれほど真剣に見なければならないものな訳です。そして、あるとき突然「ああ! そうか。そういうことか」と腑に落ちるものなのです。


 映画『日々是好日』でも突然雨の音の違いに気づくシーンがありましたが、本当に「ある日突然気がつく」のですね。あれは、経験した人にしかわからないですし、そういう経験というものは「普段からなんだろう?」と興味と関心を抱いて物を見ていない人にはなかなか訪れなかったりします。


 見逃さないようにするなら、動画で記録すればいいんだ!と思う人も居るでしょう。しかし、人の目よりも高精度なカメラはなく、人の視界よりも広範囲を撮るには大掛かりな機材が必要となります。体の向こう側にあるものさえ、人の目と心の目には映って居ますが、画面では見えなくなってしまいます。これらはあくまで「影」でしかないのです。それ故「撮影」と呼ぶのは至極真当であるということになります。


 少し脱線しますが、「影」というのはどういう意味だかご存知ですか?


 光が物にあたってできる形? それは正しくは「陰」です。「影」とは実は「ひかり」のことで、そこから光が物にあたって映し出された物の形を言うようになり、実体のない写し身を指すようになります。「月影」とは「月の光」のことですし、「魚影」とは水の中を泳ぐ魚の群れをいい、魚は実体でも群れそのものは実体ではありませんから「影」なのですね。このことから「まぼろし=幻影」を意味するようにもなります。


 茶道では実践を大切にしますが、この影で本物を見た気になってはいけません。即ち、映像や画像では茶道にはならないということになります。実学とでも言うべき深い教えがここにはあるのです。


 そして教科書のような物があると「見返せばいいや」とか「先生の言っていることは違う」などと言い出す人がいます。書物は誰にでも同じことを提示しますが、先生というのは弟子を見て指摘するところを変えたり、理解できないだろうと感じたら理解できるまでのことしか教えなかったりする訳です。下手をすると次のステップのためにあえて違う所作をさせているかもしれません。


 ですから、教科書的なものは勉学の為のものであり、身に付けるべき所作や体の動きという全体を見なければならないものには向かないということが分かります。


(つづく)