「自分には関係ない」として遠ざける。
決定的に異なるのは
「義務」とされ、
制限または強制する、というもので
レールの上の車両なのだ。
ほとんどの場合、
「神罰」として下される。
物騒なものではなくて
あたりまえな振る舞いや言動
日常に溶け込んでいるのが
まだ2、3歳の幼児だった頃、
よく思っていたことがある。
「いまこうして目で見えている世界は
実は全部作り物で」
「見えていない後ろ側に
「本当の世界」が
あるんじゃないか?」
「ぼくはきっとだまされているんだ」
ときおり何度も、
そう思い起こしては
すばやく後ろに振り向いて
「本当の世界」を見ようとしていた。
「本当は自分以外は
はじめから誰もいなくて」、
「まわりにいる
大人たちや兄弟たちは」、
「作り物の世界の一部で
本当は存在していない」、
「生まれてからずっと」、
「つくられた虚構の 幻実に騙されているんだ」
このとき感じていた
こうした違和感は
実は幼いがゆえの 妄想などではなく、
かなりの年月を経たのちに
あれは
幼いがゆえに感じた 「世界の本当の姿」を
ありのままに 捉えたものであったと
ずいぶんと後になって知った。
つまり
この世のなにもかもは
すべてあらかじめ虚構である。
信仰者がいなくなれば
神ははじめから
存在しなくなるように
誰かが感じていなければ
世界など
はじめから存在しないのだ。
いまや私は知っている
あらゆる感情や感覚、
色や重さ、
愛や怒りや痛み、希望や涙、
そして
肉親であろうと
他人であろうと
他者との関わりや
繋がりの尺度すら
突き詰めればあられもなく
数値化できてしまうということを。
それならば世界は?
私が今生きている
「ここ」はどうなるのか?
すべての万象が
数値化できてしまうのだとすれば
なぜ私はここにいて、
そもそも私が見ている
「これ」は一体なんだ?
誰かが
「コギト エルゴ スム」
と称したこれは誰のことだろう?
これは気づいては
いけないことだったのかもしれない。
この問いがゆえ、
私はこの半生をずっと漂流していた。
ここに告白しよう
もう取り返しもつかないが。
われわれは誰一人として
そして
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(続き)
南川の集会所にだんじりが到着してすぐに
私も集会所の中に通された。
どうやら先刻のカツ入れの唄が
気に入ってくれたようで
青年団長の方からお昼の食事に招かれた。
中に入ると
たくさんの八咫烏の法被がずらりと座っていた。
老若男女入り混じって
とても盛り上がっていた。
私は青年団長さんの近くに呼ばれ、
屋台や祭りについての話題に花が咲く。
配られたお弁当もとても美味しい。
正面や隣に座っている若衆とも
いろいろと話しながら
楽しい時間が過ぎていった。
食事を終え、集会所の玄関に戻ると
ちょうど宮司さんの神事の最中だった。
宮司さんは足が悪いようで
車椅子で神事に臨んでいた。
半日通して延べ十数か所になるだろうか、
宮司さんは車椅子とタクシーを
相互に乗り分けながら
もう十月の後半だというのに
強い日の照りつける夏と同じ猛暑の中
幾度も立ったり座ったりして
淡々と過酷な神事を続けていった。
神職というのは かくも大変なものなのかと
今ごろになって頭が下がる思いだった。
お昼を過ぎて、
神事が終わると だんじりが再度出発した。
止まらない汗でぬらついた額を何度も手で拭きながら
神輿のあとに続くだんじりを追いかける。
ふと気づくと いつのまにか
学校を終えたであろう若衆と
小若衆のチビッ子たちも屋台の周りに群れていた。
午前中は鳴っていなかった鉦の音も入っており
自然と唄われ出した伊勢音頭。
あとはこれで台車を外して
若衆の肩で担げば完璧なのだろうが、
若衆たちはまだ数が少なく
ちび若衆は数は多いがあまりにも若すぎた。
まあそれでも
午前の静かさと対照的に
南川のだんじりは
すっかり祭り屋台としての賑やかさを纏っていた。
だんじりの軽快な囃子に併せて、
揚々と歌い上げられる若衆の数々の祭り唄。
「 だんじりが生き返った 」
そう思いながら、
三日間続いてふらついた足を頼って
やがて来るであろう祭りの終わりまで
撮りきることにした。
途中、少し足を休めて座っていると
先刻の青年団長の方から
とても光栄なものを首にかけられた。
私は南川の若衆のひとりとなっていた。
その後も 何度目かの神事をくりかえして
神輿はようやく もとの神社に到着した。
長い急坂を上って、拝殿まで到着し
宮司さんが最後の神事をする。
御供の南川だんじりは
鳥居が小さいので上まであげることができない、
神域の下の鳥居の前に据えられて
若衆の戻りを待っていた。
やがて戻ってきた青年団の人たちとともに
祭りの記念に屋台の撮影をする。
失敗ができないのでプレッシャーが強かったが
なんとかきれいに撮影枠に全体を納めて
数枚シャッターを切る。
これは後日、プリントしたものを
青年団の皆さんに送ることになった。
こうして
すべての祭りの一部始終を追った旅の記録も
大きな怪我もなく終わりを迎え、
南川の青年団のかたがたに何度もお礼をして
今回の撮影の予定をすべて終了した。
これまでも何度かの撮影のたび
地元の方々の有形無形の暖かい心遣いに
いつも深い感動と申し訳なさを覚えるも、
気づけばもう年齢も若くなく
今ではまともに屋台に追いつけない
ポンコツの身となった私にとっては
これが現在の祭りとの関わり方となっていた。
今回は
南川青年団の皆さんと過ごし
数時間だけども何日分にも相当した
密度の濃い時間を帰りの電車の中で反芻し
いつか
あのちび小若衆たちが
わが地元のだんじりを肩で舁き
差し上げられるようになれた日に
もう一度、撮りに来ようと思いながら
もう遠く過ぎ去った祭りの記録を
何度も眺めなおしては
ホテルに戻り帰路の支度をした。
「次はどこの祭りを撮ろうかな」、
そしてもうそんな事を考えつつも
長い白日夢のようだった今年の祭りを終え、
日常への帰路についた。
最後に、
南川青年団のすべての皆様に
あらためて感謝の意を表明して
今回の祭りの記録を
締めくくることにした。
団長N氏はじめ南川青年団の皆様、
本当に有難うございました。
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(続き)
だんじりと神輿が出発して数十分が経過した。
南川の町内のいくつかの場所で
神輿を据えては宮司さんが祝詞を奏上して
また次の場所へと移動する。
神事は淡々と進んでいった。
たくさん集まるはずだった多くの若衆たちは
まだ姿を見せておらず、
子供の姿もない。
仕方ない、今日は本来は平日なのだ。
最低限の青年団の役員と若衆が
本来、担ぐはずだっただんじりを
曳いて移動させ(察してほしい)、
神輿の後をついていく。
ここでは南川だんじりは御供屋台だった。
神事が始まると太鼓を止め、
数分間のおごそかな沈黙が訪れる。
時間が経つにつれ、
若衆もぼちぼちと増えてきたが
昨日、一昨日と
地元の同じ形式のだんじりの奉納を
目にしてきたわが自身にとっては、
どうしても少なすぎる若衆たちが
あまりにも静かすぎるのを
このままただ撮っていていいものかどうか
しばらく自問する。
太鼓はともかくとして
まず唄がない。
隣々の神社では競って唄いあっていた
伊勢音頭をはじめとする多くの祭り唄を
だれも口にしようとはせず
ただ太鼓の囃子だけが
閑静な昭和の住宅街を移動していた。
私は勝手に飛び込んできたよそ者なので
できるだけ出しゃばって邪魔をすることは
本意ではなかったが、
目の前にはだんじりがあって
太鼓が鳴り続けている、
ついに我慢できずに
覚えている限りの祭り唄を
屋台についている若衆に向けて
唄いだしていた。
伊勢音頭から始まり、
ノーエ節、
お杉お玉節まで歌い続け、
なんとかこの沈黙を打ち破りたかった。
どのくらい唄ったのだろうか、
唄うにも体力を使うのだ。
唄い疲れていったん撮影に専念することにした。
しだいに、
すこしづつではあるが
若衆もつられて唄に参加するようになった。
だんじりの周囲に色がよみがえってきた。
青年団の役員のかたがたにも話したが
「だんじりに血が通い始めた」のだ。
神輿の巡幸が3時間ほどを迎えただろうか、
祭礼の一行は
いつのまにか集会所に到着し
お昼休みの時間となっていた。
(続く)
いつも出会いとは不思議なものだ。
数年前に新調した地元西条の錦町だんじり、
歌手の秋川雅史さんが愛した地元の屋台。
彼は私の高校の母校の先輩だった。
かつての屋台は売却されたと聞き、
その後その屋台はどうなったのかを
いろいろな人に聞いて回った。
「小松の南川っちゅうところに買われたよ」、
やっと見つけた。
「高鴨(たかがも)神社」、
そこの祭礼に今は奉納されているようだ。
神社に直接電話して確認する、
「お祭りは毎年10月の17日にしよる」
とのこと。
他の神社の祭りの撮影との予定を組みなおして
なんとか段取りを整えた。
撮影当日は午前3時に起きて
まずは予定していた飯積神社の太鼓台の撮影。
太鼓台が集合する場所までは遠くて、
タクシーが必要だったがなかなか掴まらない。
そうこうしているうちに時間は過ぎていき
30分ほどしてようやく1台手配することができた、
ひさびさに見る太鼓台の群れ。
撮ろうとしていた場面はもう終盤を迎えていた、
かつぎ上げられては次々と落ちる屋台たち。
期待していた光景とは違ったが、
それでも別の意味で壮絶な場面を撮ることができた。
現地で小一時間ほど撮影をして
西条の拠点のホテルに戻り
再度、所持品のチェックをする。
できるだけ装備を軽くして
長丁場になるであろう
祭りの準備を整えて出発。
慣れないワンマン電車にゆられて20分、
懐かしのわが母校の最寄り駅に着いた。
タクシーで「南川まで」と伝えて
現地に着いたのはもう朝の8時ごろ。
見覚えのある屋台が据えてあった。
かつて十数年前に伊勢神宮で奉納された
先代の錦町だんじりだった屋台。
運転手に礼を言い車を降りる、
まだ誰も来ていない。
とりあえず何枚かパチパチと写真を撮る。
しばらくしてぞろぞろと
地元の人たちの法被が集まってきた。
染め抜きの背中には3本足の鳥の紋様、
どうやら八咫烏を祀っているようだ。
「明日は町内を廻るだけ」、
電話でそう話した神職の人の言葉を思い出す。
もしかしたら昨日から
祭りをしていたのかもしれない。
撮り切れなかったのであろう
あとの祭りを悔やんだが
なにぶん足を踏み入れたことがない場所だ、
気を取り直して
何があるのかもわからない
今日の一日に思いを向ける。
ほどなく青年団の人たちが集まって
屋台から鳴り出した太鼓の音、
祭りが始まった。
屋台はきれいに磨かれており、
細部の金具などはピカピカの金色に輝いていた。
後で聞くと金箔を使っていると聞く。
すごく大切に使われているのがわかる。
出発した屋台を撮りながら移動、
荘厳な神社の入り口に到着した。
小さな鳥居をくぐり 長い階段を上る、
拝殿の奥に神輿が鎮座してあった。
よその神社より大振りの神輿、
だいぶ使い込まれているようで
かつて金色だったはずの部分は
全体がくすんだ鈍い色だった。
しばらくして神輿が出発、
境内の脇にあった急な坂を下っていく。
あわてて階段を下って先回りする。
境内の下で鎮座していた屋台と合流、
これから南川の町内を巡幸する。
いつのまにか増えていた八咫烏たちとともに
すっかり明るくなっていた境内を後にした。
(続く)
https://ameblo.jp/danjiridouraku/entry-12826935815.html
富士の白雪はノーエ、富士の白雪はノーエ
(富士の サイサイ)
白雪は 朝日に融ける
融けて流れてノーエ、融けて流れてノーエ
(融けて サイサイ)
流れて 三島にそそぐ
三島女郎衆はノーエ、三島女郎衆はノーエ
(三島 サイサイ)
女郎衆は お化粧が長い
お化粧長けりゃノーエ、お化粧長けりゃノーエ
(お化粧 サイサイ)
長けりゃ お客が困る
お客困ればノーエ、お客困ればノーエ
(お客 サイサイ)
困れば 石の地蔵さん
石の地蔵さんはノーエ、石の地蔵さんはノーエ
(石の サイサイ)
地蔵さんは 頭が丸い
頭丸けりゃノーエ、頭丸けりゃノーエ
(頭 サイサイ)
丸けりゃ 烏(カラス)がとまる
烏 とまればノーエ、烏とまればノーエ
(烏 サイサイ)
とまれば 娘島田
娘島田はノーエ、娘島田はノーエ
(娘 サイサイ)
島田は 情に融ける
(※2番へ続く)