結果的に手を合わせているんです | 樂車道樂のお旅所巡礼/DanjiriDouraku

樂車道樂のお旅所巡礼/DanjiriDouraku

◆( 'ω') 四国の愛媛県は伊予西条からお送りしています。
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  「宗教」というとうさんくさく、
  「信仰」というと生臭い。
  「神様」といえば縁遠いシロモノで、
  「仏様」といえばカビ臭い。
 
   おおよそはそんな理由から、
   皆それを
自分には関係ない」として遠ざける。
 
 
―――おいおいねえちょっと待ってよ
 
 
  小さな頃は七五三で神社に参り、
  お盆は親族集って故人を偲び、
  結婚すれば教会や神社で挙式して、
  
 元旦は神社に初詣、
  身内が亡くなればまず仏式の石墓に入り、
  キリストの生誕日をケーキを買って祝い、
  合格祈願に絵馬をあげ、
 
  食事の前の「いただきます」で合掌し、
  大晦日には除夜の鐘を聞いて年の瀬を実感し、
  西欧の殉教者の日に
  義理と下心入混じったチョコレートを手渡して、
   せめて故人の墓参りぐらいするだろう、
 
 
  感謝の意を表した時、両手はどうなってた?
 

 

  日本人が海外のどの民族とも
決定的に異なるのは
  この「宗教」とか「信仰」の概念。
 
 
  他の民族での「信仰」という行為とは、
  「教義」と「戒律」という
強制力をもった一種の法律により
「義務」とされ、
 
  罰則への「恐怖」と引き換えに
  個人の行為と思考を
制限または強制する、というもので
  このとき「信仰者」とはつまり
レールの上の車両なのだ。
 
  「戒律」のレールから「脱線」すれば
  ほとんどの場合、
  「神の代理」として「人」からの 
容赦のない仕打ちが
「神罰」として下される。
 
 
  一方、日本人にとっての信仰とは
  神様から高圧的にお仕着せられる
物騒なものではなくて
  毎日のなにげない日常の
 あたりまえな振る舞いや言動
  それらの悉くが
  すでに信仰そのものの本体であり、
 
  つまり「何かにそうさせられている」
 という概念などははじめから存在せず
  ゆえにそれらはすべて無意識のうちに
  「いつもの自然なこと」
   として溶け込んでいる。
 

 

  「自分は無宗教だ」なんて嘯いてても、
 
  「日本人である」時点で
  みんな結果的に「信仰」している。
  「それ」に気づかないほどまで
  日常に溶け込んでいるのが
   日本人にとっての信仰の正体。
 
  ほぼ習慣的な反射でやっているのだから
 本人もまず気付いてないんだ、
 人格と一致してると言っていい。
 
 
 

 

 

  おいそこの日本人、
  もっと胸はっていいんだぞ。
  俺たちは存在そのものがすでに信仰だ
 
  地球広しといえども
  世界で唯一、日本だけが
  先祖代々のネイティブなら
  もれなく全員が生まれつき
   信仰とか宗教の最先端で
     究極のゴール地点に   
   最初から立っている。
 
 
   その動かぬ証拠として、
   いまや世界で日本だけが 
 
  他国や他民族と異教徒であるがゆえ
   暴動や殺戮をする理由が存在せず、
  信仰の相違ゆえの内乱や弾圧、
  大量粛清なども発生しない。
 
 
      世界で日本だけが。(本当だぞ) 
 
 
こんなミラクルな状態、
ガイジンが聞いたら
普通はビックリするんだよ。