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おだんご日和

Dango茶屋・いちのせの徒然記

 

 では、「長編の骨格」とはどういうものなのか?

 

 おそらく、長編と言っても、いろいろな書き方や、いろいろな骨格があり、何が正しいとは言い切れないと思います。

私は短編を書きつづる内に、いつしか長編を書きたいと思うようになった人間なので、短編との比較でしか「長編とは何なのか」「長編はどう書くべきなのか」を考えることができませんでした。

 

 短編との比較で考えますので、繰り返しになりますが、まずは私の考える「短編の骨格」を再度確認します。

 

 

 この「短編の骨格」を応用しつつ、発展させたのが、次のような「長編の骨格」です。

 

 

 長編とは、短編の間に「エピソードA・B」を挟み込んだものというのが、私の解釈です。100分の長編ならば「エピソードC」を書き足し、120分ならば更に「エピソードD」を書き足すと考えます。

 または、エピソードがあるのが「長編」であり、エピソードがなくても成立するのが「短編」である、と言い換えることもできるでしょう。つまり、前述の「短編の骨格そのままに書かれた長編」は、何時間あろうと「長い短編」であって、長編ではないのです。

 

 そして、長編を書く上で確認しておかなければいけないのは、「短編と長編では、『起』と『結』それぞれが果たすべき役割も違っている」という点です。短編における「起承」は、長編の「起」に包含されており、短編における「転結」は、長編の「結」に含まれています。

(更に気を付けなければいけないのは、『短編の「起承」と、長編の「起」は、時間的な長さが、ほとんど変わらない』という点です。これは主要登場人物の人数や役割にも関わってくるので、後ほど詳しく考えます)

 

 脚本の構成で考えると、長編における「エピソード」とは、起承転結の「承転」であり、先に説明した「中身 = 承転 = 思想」に追加するならば、

「中身 = 承転 = 思想 = エピソード」と、いうことになります。

 

しかし、「思想=エピソード」とは、どういう意味なのか?

そんなことがありうるのか?

 

 

 

(つづく)

 

 アマチュア演劇や自主制作映画をよく見る人にとって、

「興味のない話がだらだら続いて、なかなか本筋が始まらない」

「殺陣が始まったけれど、登場人物の誰を応援する気にもなれない」

「なんか、急に心情を叫び始めたけれど、その人がなんでそんなこと言うのかわからない」

「はじまって、ずいぶん経ってから重要らしい人物が登場する」

 ・・・などは、本当によくある、「あるあるネタ」だと思います。

 これらは、演出・映像・編集とか、時には役者の演技の問題として論じられがちです。しかし、そのほとんどは「脚本の問題」、特に「短編の骨格に沿って、長編を作ってしまった問題」であると、私は思っています。

 

 約30分の短編は、大雑把に下図のような骨格を持っています。

 

 

 脚本や演出の意図によって、「①物語の発端」が5分になったり、「③見せ場」が10分になったりはすると思いますが、おおむねこの形で間違いないはずです。(7分×4=28分で、2分間どこかに消えちゃってますが、誤差の範囲内ということで・・・)

 この時、「②人物の紹介、状況の説明」が非常に短いので、劇中に登場できる人物はせいぜい2~3名(もしくは一人芝居)にならざるを得ません。脚本や演出のアイディア(言い換えると、その作品におけるチャレンジ)もそんなにたくさんは盛り込めません。

 この「短編の骨格」をそのまま応用して、80分の長編を作ろうとすると、次のようになります。

 

 

 単純に考えても、7分で終わっていた「①物語の発端」が、約3倍の20分になっています。「興味のない話がだらだら続いて、なかなか本筋が始まらない」と思われてしまう原因です。

 また、「②人物の紹介、状況の説明」は、物語の中盤まで続くことになりますので、「はじまって、ずいぶん経ってから重要らしい人物が登場する」という違和感が起こりやすい上に、登場したばっかりで観客が感情移入できていない人物も「③見せ場」に関わるので「殺陣が始まったけれど、登場人物の誰を応援する気にもなれない」や「なんか、急に心情を叫び始めたけれど、その人がなんでそんなこと言うのかわからない」ということも起こりがちです。

 

 短編だと、時間の制約で許されていたことや、観客が気にしなかったことが、長編になることで問題化しやすくなると言えるでしょう。

 私の作った「雨」も、まさにこのパターンでした。50分の中編ですが、骨格は完全に短編のもので「長い短編」になってしまっています。中編は、「短い長編」でなければ、観客の興味をつなぎとめておくことができません。

 

 短編の骨格(短編のノウハウ)そのままで長編を創作するのは、不可能ではないにしても、かなり難易度が高いと思います。短編を書くことは、「頭の中にあるものを文字に書き起こす」という、もっとも基礎的で、重要な技術の修練になりますが、短編を書ければ、長編を書けるのかというと、それは、また別の問題なのだと思います。

 

 では、「長編の骨格」とはどういうものなのか?

 

 

(つづく)

 

 そもそも、「短編」とは何なのか?

 短ければ短編なのか?長ければ長編なのか?

 

 私の結論は

「短編と長編は物語の骨格に違いがあり、物語の長さは関係がない」

 

 ここから述べることは、すでにわかっている人にとっては「今さら、当たり前のことを・・・」と、感じるでしょう。ちょっと本を読めば書いてあるし、脚本を書く時は誰でも実践していることだと思います。

 私も少し前までは、わかっているつもりでした。しかし、それは「言葉の意味は理解しているのだけれど、それを実感できていない、言葉の概念を捉えきれていない」状態だったのです。

 

 金ショーを見てきた経験、自分なりに脚本を書いてきた経験を総合すると、私が面白いと感じる短編演劇にはパターンと言うか、骨格のようなものがあります。

 

①物語の発端になる場面

②登場人物の紹介と状況の説明

③演劇的な見せ場(殺陣、歌、ダンス、討論など)

④物語の終端になる場面

 

 大体、上の4つの場面を描くと20~40分くらいの短編演劇ができあがります。

(③を「映画的な見せ場」と書き換えれば、短編映画もほぼ同じだと思います)

 この骨格は、①~④がそのまま「起承転結」になっており、この骨格を守っていれば「面白い・つまらない」はともかく、物語の流れ自体を観客が理解できない、共感できないということは、ほとんどないと思います。

 私が思い出せる限りで、面白かった金ショー作品、自主制作短編映画は全部この骨格を持っていました。

 金ショーの「魔法熟女じぇるそみーな」「ヒーロー論」などは、短編の骨格と、その役割がわかる良い例だと思います。(←と言われても、見てない人に伝わりませんが・・・)

 

 脚本やシナリオの教本には「いきなり長編を書き出すよりも、短編で修練を積みましょう」という意味合いの言葉が書かれていることが多く、最初の一歩としては全くその通りだと思います。

 しかし、短編で学んだノウハウのみで長編を書こうとすると・・・つまり「短編の骨格」を応用して長編を書こうとすると、どういうワケか、脚本は突然、冗長に感じられたり、舌足らずになったりして、破綻を始めます。

 

 アマチュア演劇や自主制作映画をよく見る人にとって、

「興味のない話がだらだら続いて、なかなか本筋が始まらない」

「殺陣が始まったけれど、登場人物の誰を応援する気にもなれない」

「なんか、急に心情を叫び始めたけれど、その人がなんでそんなこと言うのかわからない」

「はじまって、ずいぶん経ってから重要らしい人物が登場する」

 ・・・などは、本当によくある、「あるあるネタ」だと思います。

 これらは、演出・映像・編集とか、時には役者の演技の問題として論じられがちです。しかし、そのほとんどは「脚本の問題」、特に「短編の骨格に沿って、長編を作ってしまった問題」であると、私は思っています。

 

 

(つづく)

 ほとほと困り果てていた時、塩田明彦さんという映画監督の『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』という本に気になる一節がありました。大体、次のような意味合いです。

 

『長編と短編はまったく違うノウハウで作られている。短編は思想がなくても作れるが、長編は思想がなければ作れず、思想とは中身のことである』

 

 ごく当たり前のことのように、本文中にさらりと書かれていました。最初に読んだ時、まったく意味が解らず「ナンダコンナモノ芸術家ノタワゴトデハナイカ」と思いました。

 しかし、塩田監督の文章はどれも論理が明快で、具体的で、こういう人が短文とはいえ経験則からの思い込みだけで文章を書くとは思えませんでした。

(『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』は面白くてためになる本です。ちなみに、塩田監督は妻夫木くんと柴咲コウさんが主演した『どろろ』の監督で、こちらも明快で具体的なエンターテインメント映画でした)

 

「思想=中身」とは、どのような意味なのか?

「映画の思想」とはありうるのか?

「映画の中身」とは何なのか?

 考えるほどに、見当もつかない疑問が次々に連なって出てきます。

 

 しかし、よくよく考えると1つだけ心当たりがありました。私の知る限り、「映画の中身」とは、「承転」のことです。

 脚本作りのテキストを読むと、そのほとんどで次のような説明がなされています。

『「起承転結」の「起」とは、物語の発端です。「結」は物語の終端です。「承転」が物語の中身、いわゆるドラマ部分になります』

 

 映画が脚本に沿って作られ、脚本に「起承転結」があり、起承転結の「承転」が脚本の中身であるなら、映画の中身とは「承転」ということになります。

 もし、塩田監督の言う「中身 = 思想」と、私が仮定した「中身 = 承転」のどちらもが正しいとしたら、「映画の中身 = 映画の承転 = 映画の思想」という等式が成立することになります。これから「映画の」を因数分解すると「中身 = 承転 = 思想」ですね。

 仮に、この等式が成立するとして、「短編は思想がなくても作れる」とはどういう意味なのか。

 

 そもそも、「短編」とは何なのか?

 短ければ短編なのか?長ければ長編なのか?

 

 私の結論は

「短編と長編は物語の骨格に違いがあり、物語の長さは関係がない」

 

 

(つづく)

 

とある出来事を経験し、SNSは、私に興味のない人の元にも情報が届いてしまう可能性があるのだと、気付かされました。(だいぶ前だけれど)

 

使い方はいろいろなのだろうけれど、私にとってSNSは「仕事のツール」だなぁと感じて、それ以来、相応の使い方をしないといけないなと思っています。

ブログは、少なからず私の活動に興味を持ってくれている人が読んでいるのかなと思っているので、個人的に語りたいことや、活動の紹介をしています。

なので、ブログは不定期になりがちですが、書きたいことを書き散らしています。

(ほったらかしの話題も気にしない~)

 

SNSはビジネストーク、ブログは居酒屋でのダベりみたいな使い分けなのです。