演劇と脚本に関する私論の試論(第4回) | おだんご日和

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Dango茶屋・いちのせの徒然記

 ほとほと困り果てていた時、塩田明彦さんという映画監督の『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』という本に気になる一節がありました。大体、次のような意味合いです。

 

『長編と短編はまったく違うノウハウで作られている。短編は思想がなくても作れるが、長編は思想がなければ作れず、思想とは中身のことである』

 

 ごく当たり前のことのように、本文中にさらりと書かれていました。最初に読んだ時、まったく意味が解らず「ナンダコンナモノ芸術家ノタワゴトデハナイカ」と思いました。

 しかし、塩田監督の文章はどれも論理が明快で、具体的で、こういう人が短文とはいえ経験則からの思い込みだけで文章を書くとは思えませんでした。

(『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』は面白くてためになる本です。ちなみに、塩田監督は妻夫木くんと柴咲コウさんが主演した『どろろ』の監督で、こちらも明快で具体的なエンターテインメント映画でした)

 

「思想=中身」とは、どのような意味なのか?

「映画の思想」とはありうるのか?

「映画の中身」とは何なのか?

 考えるほどに、見当もつかない疑問が次々に連なって出てきます。

 

 しかし、よくよく考えると1つだけ心当たりがありました。私の知る限り、「映画の中身」とは、「承転」のことです。

 脚本作りのテキストを読むと、そのほとんどで次のような説明がなされています。

『「起承転結」の「起」とは、物語の発端です。「結」は物語の終端です。「承転」が物語の中身、いわゆるドラマ部分になります』

 

 映画が脚本に沿って作られ、脚本に「起承転結」があり、起承転結の「承転」が脚本の中身であるなら、映画の中身とは「承転」ということになります。

 もし、塩田監督の言う「中身 = 思想」と、私が仮定した「中身 = 承転」のどちらもが正しいとしたら、「映画の中身 = 映画の承転 = 映画の思想」という等式が成立することになります。これから「映画の」を因数分解すると「中身 = 承転 = 思想」ですね。

 仮に、この等式が成立するとして、「短編は思想がなくても作れる」とはどういう意味なのか。

 

 そもそも、「短編」とは何なのか?

 短ければ短編なのか?長ければ長編なのか?

 

 私の結論は

「短編と長編は物語の骨格に違いがあり、物語の長さは関係がない」

 

 

(つづく)