演劇と脚本に関する私論の試論(第6回) | おだんご日和

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Dango茶屋・いちのせの徒然記

 アマチュア演劇や自主制作映画をよく見る人にとって、

「興味のない話がだらだら続いて、なかなか本筋が始まらない」

「殺陣が始まったけれど、登場人物の誰を応援する気にもなれない」

「なんか、急に心情を叫び始めたけれど、その人がなんでそんなこと言うのかわからない」

「はじまって、ずいぶん経ってから重要らしい人物が登場する」

 ・・・などは、本当によくある、「あるあるネタ」だと思います。

 これらは、演出・映像・編集とか、時には役者の演技の問題として論じられがちです。しかし、そのほとんどは「脚本の問題」、特に「短編の骨格に沿って、長編を作ってしまった問題」であると、私は思っています。

 

 約30分の短編は、大雑把に下図のような骨格を持っています。

 

 

 脚本や演出の意図によって、「①物語の発端」が5分になったり、「③見せ場」が10分になったりはすると思いますが、おおむねこの形で間違いないはずです。(7分×4=28分で、2分間どこかに消えちゃってますが、誤差の範囲内ということで・・・)

 この時、「②人物の紹介、状況の説明」が非常に短いので、劇中に登場できる人物はせいぜい2~3名(もしくは一人芝居)にならざるを得ません。脚本や演出のアイディア(言い換えると、その作品におけるチャレンジ)もそんなにたくさんは盛り込めません。

 この「短編の骨格」をそのまま応用して、80分の長編を作ろうとすると、次のようになります。

 

 

 単純に考えても、7分で終わっていた「①物語の発端」が、約3倍の20分になっています。「興味のない話がだらだら続いて、なかなか本筋が始まらない」と思われてしまう原因です。

 また、「②人物の紹介、状況の説明」は、物語の中盤まで続くことになりますので、「はじまって、ずいぶん経ってから重要らしい人物が登場する」という違和感が起こりやすい上に、登場したばっかりで観客が感情移入できていない人物も「③見せ場」に関わるので「殺陣が始まったけれど、登場人物の誰を応援する気にもなれない」や「なんか、急に心情を叫び始めたけれど、その人がなんでそんなこと言うのかわからない」ということも起こりがちです。

 

 短編だと、時間の制約で許されていたことや、観客が気にしなかったことが、長編になることで問題化しやすくなると言えるでしょう。

 私の作った「雨」も、まさにこのパターンでした。50分の中編ですが、骨格は完全に短編のもので「長い短編」になってしまっています。中編は、「短い長編」でなければ、観客の興味をつなぎとめておくことができません。

 

 短編の骨格(短編のノウハウ)そのままで長編を創作するのは、不可能ではないにしても、かなり難易度が高いと思います。短編を書くことは、「頭の中にあるものを文字に書き起こす」という、もっとも基礎的で、重要な技術の修練になりますが、短編を書ければ、長編を書けるのかというと、それは、また別の問題なのだと思います。

 

 では、「長編の骨格」とはどういうものなのか?

 

 

(つづく)