こんな悲しい偶然があるんですね。無為に過ごしていたゴールデンウイークの真っ只中の五月三日の昼、そろそろノックさんの思い出、カナダ旅行話でも書き込もうかと思っていたときに電話が鳴りました。

放送作家の伊東桂子君からです。「今読売テレビにいるんですが変な情報が入りました。横山ノックさんが亡くなられたというんですが、先生なにかご存知ですか」。一瞬背筋に冷たいものが流れました。「そんなあほな、確かな情報か?」「いえ今のところ未確認なんです。誤報だったらいいんですが、ひょっとして先生ならノックさんのことお分かりかと思いましたんで・・」

電話をおいたあとしばらくは呆然自失の状態でした。我に返って「誤報であってくれ」と思いながら息子の一貴君に電話を入れましたが応答なし。そのうちに数社の新聞、放送の関係者から同じく「ノックさんのことで何かお聞きになってませんか」という問い合わせが来ました。

親しい仲ではあるが私が知るわけないやろ。確かかどうかこっちが聞きたいくらいや、と何故か腹が立ってきました。その腹立たしさと真偽のつかめないもどかしさが、夕刻の各テレビ報道によって悲しい確認に変わってしまったのでした。

半年ほど前、電話で話したとき「今ちょっと体調崩して入院してますねん。ま、検査入院みたいなもんやから、出たら電話入れますわ、何かうまいもんでも食べに行きまひょ」といたって元気な声で話していたあれが私が聞いたノックさんの最後の声になってしまったわけです。

いつのときも相手に心配をかけまいと元気に明るく振舞っていたノックさんらしい応答だったんです。

身内だけの密葬ということでしたが、せめて最後に顔を見たくて断られるのを覚悟でお通夜にいきました。同じ思いの芸人タレント仲間がずいぶん来ていました。

棺によこたわったノックさんの顔はきれいで穏やかでした。「先生、よう来てくれましたな、ほなら飯食って麻雀に行きまひょか」と起き上がってくるんじゃないかと思いました。

「ま、目一杯いろんなことやってきましたし、いろんな目にも遭うてきましたわ。ここらでピリオド打ってもええかもしれませんな」と言っている声が聞こえたようにも思いました。

中咽頭癌。奥さんにいわせると100%たばこが原因だっただそうです。「お医者さんがそう言わはったんです。

先生もたばこやめなさい」「いやもうこの年になって今更やめてももう手遅れかと・・」「この人もそんなこと言って最後までやめなんだんです。お願いやからこの人の前でたばこやめると誓って頂戴」。横から家内が「奥さんもっと言ってやって」と同調。助けがほしくてノックさんをみたら「まあ好きにしなはれ」と狸寝入りしているみたいでした。

一年前一緒に食事をしたときに「のどに癌ができよりましてん。治療で大分良うなってるねんけど困るのが食べるものが限られることですわ。人間好きなものが食べられへんというのは生きてる甲斐がおまへんな」といかにも淋しそうに話していたことも思い出されます。

もう一度ノックさんを囲んで好物だったガーリックステーキなんか食べたかった。

「ご冥福を・・」といった月並みな言葉ではノックさんを送れないような、今はそんな心境です。

傑出した芸をもっているわけでもなく、小器用に話芸をこなしていけるタイプでもありませんが、天性の明るさとどんな仕事でも目一杯演じようとするバイタリティーとサービス精神、先輩芸人にも後輩の若手芸人にも等しい優しさで接することの出来るキャラクター、それらが彼が出演する場面をパッと明るいものにしてくれました。 

「ノックは無用」や「ラブアタック」での上岡龍太郎とのコンビは、勝手知った上岡の転がし方もあって横山ノックを得がたい存在にしたものだと思います。

はるか後輩の芸人達のからかいやつっ込みにも素直に応じてぼけてみせる、並みのタレント、芸人にはなかなか真似の出来ないことなのです。

色んな彼の出演番組の台本を書いているうちにプライベートでの付き合いがはじまりました。

なかなかの食通のところがあって、不思議な臭覚でうまい店を探してきます。よく誘われていきましたが、はずれたことがありません。

アルコールが駄目な分食べることには目が無く、「また食べますのか、ひょっとしたらさっき食べたこと忘れているのと違う?」「人をボケ老人みたいに言いなはんな」なんてこともよくあります。

さてその横山ノックさんですが、あれほど売れていた漫画トリオをいきなり解散して参議院選挙に立候補。「なにをするやら」と思っていたらなんとトップ当選。当人にどれほどの政治意識や信念があったのか、その後二十数年間参議院議員を務めたにもかかわらず私には最後までうかがい知ることが出来ませんでした。

正直言って政治家としての山田勇氏にはさほどの興味も関心もありませんでした。

当時の首相であった佐藤栄作に「栄作兄さん」と芸界での先輩への呼び方で話しかけたとか、代表質問に立つときに周りの議員に「お先に勉強させてもらいます」と声をかけたとか、これも昔の芸人のしきたりで、舞台に出るときには楽屋に居る先輩たちにそんな挨拶をしたわけです。そんな芸人達の口さがない冗談に笑わされもしましたがその反面皆がノックさんについて政治家としてのどれほどの評価を下しているのか常に疑問を感じていました。

政治のかたわらタレント業にいそしんだのか、タレントのかたわらに政治に関ったのか、どちらなのかはわかりませんでしたが、わたしはタレント横山ノックが大好きです。

ちょこちょこテレビやラジオの番組にゲストみたいな形で出演するようになっていた私に、KBSラジオ(当時は近畿放送)から週五日間の生放送の帯番組のパーソナリティーをやらないかという話が舞い込んできました。

もともと表に出るのはそんなに好きでもなかったし、週に五日間も三時間もの生放送を喋る自信などまったくありません。

引き受けるかどうか躊躇しているときに、当時ノックの参議院選出馬で漫画トリオが解散し、独立をやむなくされ、ようやくラジオ番組で人気を集め始めていた上岡龍太郎がいいました。

「そんなん、やったらよろしいがな。ラジオで毎日喋るのは面白いでっせ」

「あんたは喋るのが本職やからそうかもしれんけど、その面白く喋るというのが大変やないか。だれかが面白く喋るための台本なら書く自信は無いでもないけど」

というと「面白く喋ろうとか、上手に喋ろうとか、ええこと喋ろうとか考えてたら毎日三時間も持ちますかいな。それに先生は本書きですやろ。誰もアナウンサーみたいなきれいな喋りを期待してませんわ。地で行ったらよろしいがな、地で。幸い、職業柄硬軟とりまぜいろんな話題の引き出しがありますやろ、その中から小出しに喋ったらよろしいねん。知識も常識も話題も無いやつがなんぼきれいに喋っても聴く人はついてきませんやろ。それと、二日酔いでしんどいときはしんどいということですな、夕べ麻雀で負けて気分が悪いときは気分が悪いといいますねん。無理して格好つけんこと。それがラジオの場合聴いてる人に親近感を持ってもらえるコツですわ。やりなはれ、やりなはれ」

そんな後押しではじめた「池田幾三のザ・ツデー」という番組は七年間も続けることが出来ました。

彼の引退にはびっくりもさせられましたが、そのいさぎよさには感心もしています。横山ノックと共に、もう一度返り咲いてほしいタレントです。

仕事での付き合いはNHKのお昼の演芸番組で漫画トリオのための台本を書いたのが始まりだったと思います。

漫画トリオが売れ出して間もなくの頃ですからもう三十五年ほど昔です。

出来上がった台本にクレームをつけたのがパンチ(上岡龍太郎)でした。そんなにたいしたクレームではなかったのですが、「ここの話の運びがちょっと不自然と違いますか。こう変えたらどうですか」と私に相談をもちかけてきた彼に「漫画トリオの知恵袋」の役割を感じました。

天衣無縫ともいえるノックのボケを操りながら強烈なつっ込みのパンチ、そのはざまでボケもすればつっこみにもまわるという役割のフック(現青芝フック)、三人三様のキャラクターの組み合わせが見事に噛み合ったトリオでした。

話はちょっと横道にそれますが、私が本書きという裏方の仕事からラジオ番組のパーソナリティーなどの表に出る仕事をなんとか今までやって来れたのは上岡龍太郎のアドバイスのお陰だと思っています。次回はそのエピソードを・・・

横山ノックとのこと」

もう一度芸人、タレントとして花咲かせてほしいという人が何人かいます。

その一人が横山ノックさんです。政治家、知事といった面での横山ノックは正直言って私の評価はさほどではありませんが、芸人横山ノックの存在は関西の芸界では得がたいものだったと思います。

三十年以上前「パンパかパーン・・今週のハイライト」ではじまる漫画トリオで爆発的な人気を集め、なにを思ったのかいきなり参議院選挙に立候補、大量の得票で当選、議員のかたわらタレント業を続けること二十数年、はたまたなにを思ったのか今度は大阪府知事選に打って出て当選、次の選挙運動の最中にご存知の不祥事を起こして裁判の結果執行猶予つきの有罪。

公私ともに長いつきあいの私にも「なにをしでかすやらわからん」という思いをいつも抱かせてきたものです。

もう三年近く前になりますが、なんとかもう一度芸界への復帰のきっかけを作ってあげたいという思いで、私の出演している「とっぴもナイト」(KBSテレビ)に出演させるべく話を進めたことがあります。

執行猶予の期間もすんで、出演するにはなんのやぶさかも無いだろうという判断でしたが、事前に新聞社に知れて「横山ノック復帰!」なんて騒がれたことで放送局へ二,三の反対の電話があったことから「今回は見合わせてほしい。どこか他局での出演があった時点でうちの方も・・」というなんとも臆病な申し入れがあってノック復帰は陽の目を見ずに終わってしまいました。

仕事の上での付き合いは朝日放送テレビの夜のバラエティー番組「ナイト・イン・ナイト」で二人でキャスターつとめたのが最後でした。

「男の遊び」というのがテーマで、毎回色んな遊びごとを二人で競い合うという趣向の番組でした。

大阪駅ビルの中の公開スタジオからの放送でしたが、毎回仕事が終わるとみんなでビルの中の店で食べたり呑んだりするのがお決まりでした。

相変わらず彼は料理には殆んど口をつけず呑むばかりでしたがその呑む量も以前に比べるとぐんと落ちて簡単に酔っ払うようになっていました。

「もうちょっとしっかり食べて体力つけたほうがいいよ」と何度もいったものでしたが・・・。

その以前に、倒れて入院したときに見舞いにいったら「仰山輸血してもらいましたわ。いま、この体の中には他人の血が仰山入ってますねん。ひょっとして文楽、小さんの血が混じってへんやろか。そしたらもうちょっと落語が上手になるかもしれん」なんていったのが忘れられません。

文楽、小さんはともかくとしても、もし健在なら今の上方落語界の大きな存在になっていただろうと思うとその夭折が残念でなりません。

彼が亡くなって四,五年も経った頃、暮から正月にかけてマレーシアのランクアイ島で過ごしたことがあります。そのときのある夜どういうわけか春蝶君が夢に出てきました。背広姿で「久しぶりでんな、なんぞ旨いもんでも食いまへんか」なんて話しかけてきました。

あとで気がついたんですが、その日は彼の命日だったんです。ちょっと背筋が寒くなりましたが、きっと一緒にランクアイの島で遊びたかったんでしょう。

息子の春菜君が頑張っています。今年は春蝶を襲名するとか。親父を超すいい噺家になってくれることを願っています。

そのうちに遠くの方から「ドドドド・・」というエンジン音が聞こえてきたかと思うといきなり目の前の霧の中に宇高連絡船の巨体が迫ってきました。

汽船の方は接近を知らせる汽笛を鳴らし続けるわ、こちらは慌てててエンジンをかけて逃げ惑うわ、必死です。

やがてようやく空が白んできました。またエンジン音が聞こえてきましたがどうやら連絡船ほどの大きさではなく、近づいてきたのは一隻の漁船です。

まさに渡りに船とばかりに春蝶が声をはりあげて「すんません!道に、いや海に迷ってますねん、女木島へ行くのはどっちの方角でっしゃろ!」

船の上から声がかえってきました。「女木島か!空見てみい!」「はあ?」

何で島へ行くのに空見上げるんだ、と思いながら「空ですか、見ました」

「お月さんがあるやろ!」明け行く空に月が残っています。「右手でお月さん指せ!」「指しました!」「左手でお月さんに向かって45度指せ!その先が女木島じゃ、すぐにつくわ!」。

このときの仲間の一人が今は無き安達治彦です。ソフトな語り口のDJや司会で人気を集めたタレントとして今も記憶に残っている人は多いと思いますが、その安達治彦がすぐさまボートの舳先に立って右手で月を、左手を45度に突き出しました。なんと、ものの5分も走ったかと思うと女木島に着いてしまったのです。

「どういうことや、今まで何時間も海の上で過ごしてきたのは何やったんや」という春蝶に「すごいね、これは。長年の漁師さんの生活の中で、この時間のお月さんの位置から、辺りの方角や距離が判断できるすべが身についてるんやから」というと彼も感激の声でいいました。

「ほんまですな。そうか月に向かって45度か。よし、今度心斎橋あたりで誰かに道聞かれたら「月に向かって45度や」いうて教えたろ。格好ええがな」。

彼を含めた遊び仲間とはしょっちゅう方々へ出かけました。

ある夏に四国高松の沖合いにある女木(めぎ)島へ遊びに行こうということになりました。高松の沖合い4キロほどのところにあって鬼が島の伝説で知られ、実際島の中央には鬼が住んでいたといわれる洞窟などのある島です。

高松に着いたのが夜の11時過ぎ、島へ渡るフェリーも運航していませんでしたが、春蝶のお父さんの故郷が高松で、知り合いの人が小型ボートで一行を運んでくれることになりました。

高松の港を出たのが12時過ぎ、4キロほどですからものの20分もあれば女木島にはつくはずです。ところが30分走っても40分走っても女木島がみえてきません。どうやらあの辺りの激しい潮流に流されて方角を見失ってしまったらしいのです。

春蝶の「このまま明石海峡まで流されて大阪へ帰ってしまうのと違うか」なんて冗談をとばしているうちはよかったんですが、2時間たってもなんの灯りも見えない海の上を走っているうちにだんだん不安が増してきてみんな無口になってきます。

やがて向こうのほうにポツンと灯りが見えました。「あれや!」と誰かが叫ぶと操縦している人が「いや、あれは屋島の山の上の灯りですわ。えらいところまで流されてますな。それよりもこのままやみくもに走ってたらガソリンがもちませんわ。しばらくエンジン止めて明るうなるのを待ちましょう」

というわけで、波に漂いはじめたのですが、その頃から今度は辺り一面に霧が漂いはじめてきてあっというまに数メートル先の海面が見えなくなってきました。

ギャンブルが大好きで、その辺が私と馬が合ったんでしょうか麻雀、競馬などもよくやりました。二人で競馬場に出かけて大負けで最終レースが済んだ帰り道、競馬場の係員に「もう1レースやってくれまへんか。馬が居らなんだらその辺の人間走らせて・・」なんて言ったりしていました。

競馬といえば、仕事仲間8人ばかりで京都へ遊びにいこうということになり、会費の中から一人当たり千円で馬券を買って、京都見物と競馬の両方を楽しもうと言い出したのも彼でした。

「八千円の元手でひょっとしたら全員の費用が全部ただになるかも知れんからね。何を買うかは春蝶、池田の二人のプロに任せて頂戴んか」というわけで出発前に二人で相談して5レース分くらい馬券を買って、三千院から嵯峨、嵐山と、道中ポータブルのラジオでレース中継を聞きながら回ったんですが、なんとこれが次から次へと的中。結果は予言どうり全員の費用がただになり、おまけに一人当たり五百円あまりの配当にまでありついたといったこともありました。