「ちょっと嫁さんと喧嘩して家出してきましたんや。しばらく居候させとくなはれ」と高座で必要な着物だけを持って一週間ちかく我が家へ転げ込んできたこともありました。

ぜいたくな居候で、「奥さん、今晩あたりは鍋物なんかがよろしいな。てっちりなんかどないです」とかいって家内にねだったりして、そのくせ折角用意した鍋でもほんの少々口つけるだけで「久しぶりに旨いてっちりご馳走になりました。あとは久しぶりに旨い漬物がたべたいですな」といいだす、若い頃から小食、というよりものを食べない体質で、しかも酒だけは留まるところを知らずの生活が彼の命を縮めたのは間違いないと思います。

居候の間に、当時まだ小学生だった息子に「落語教えたろ。将来の上方落語の名人に口移しで落語教えてもらえるというのは幸せなことやぞ」といって息子を座らせて「初天神」なんてネタを教え込んだりもしていました。

息子はその「初天神」を学校で演じて好評を博したそうですが、息子にはじめて芸界への興味を抱かせたのは桂春蝶だといえるようです。

「桂春蝶とのこと」

落語家で五一才と言う年齢は、正に脂の乗った時期です。これからが落語にも重みと風格が加わって、名実共に「師匠」と呼ばれる道を歩み始める年代ではないかと思います。

そんな五十一才での桂春蝶の死は、惜しんでも余りあるものがあります。

彼との出会いは昭和四十年代のはじめ、前に述べたラジオ大阪のサテライトスタジオからの番組「即席リレー小咄、ハイ本番」だったと思います。

痩身で、一見神経質そうで、それでいて飄々としたキャラクターで、折にふれ飛び出す才気のあふれるギャグに、独特の都会的センスが感じられる落語家でした。

三代目桂春団冶に入門する前は証券会社に勤めていたのですが、そのまま続けていたら「目先の利く才走った証券マン」として出世したかもしれませんが、彼のキャラクターから察するに、恐らく「歯がゆい上司と、組織の歯車のひとつであることに耐えかねて退社」の道を選んだのではないかと思われます。

ちょっと世の中を、すねて斜めから見ようとする性格が、得意とした「ぜんざい公社」や自作の「昭和任侠伝」や「ピカソ」といったネタでの時事風刺に表現されたのでしょう。

仕事の上だけでなく、落語家の中では最もプライベートな付き合いの深かった友人といえます。

「エロ仁鶴」などと称されて大人気をとったラジオ大阪の深夜放送や、破天荒なギャグの連発で若者達に大うけした「ヤングおーおー」などのキャラクターからは考えられない真面目で思慮深い素顔。

その演じる落語にも年輪からくる風格が感じられる昨今です。

家庭では、明るく陽気な奥さんの隆子姫を、こよなく愛しているもの静かな愛妻家です。  隆子姫といえば、彼女の実家は長崎県の壱岐の島にあり、かって壱岐へ行ったときにお邪魔して、お父さんお母さんにおいしいもずくをご馳走になったことを思い出します。

壱岐の島の山あいの家で、いかにも教育者らしいもの静かなお父さんにすすめられたあの味は最高でした。

思いがけず、ラジオ大阪の「笑福亭大仁鶴」の台本書きで、何年ぶりかで仁鶴さんと付き合えることになったのはうれしい限りです。


手前味噌になりますが、このニカクスキーに扮した笑福亭仁鶴ほど面白かったものはないと思っています。

彼とは外国旅行を一緒したこともあります。放送作家仲間の久世進氏、吉本興業の河合氏などと一緒にマニラから台湾へ行こうということになって私がコンダクターを引き受けたのはいいんですが、なんと出発の朝、寝過ごして飛行機に乗り遅れてしまったのです。慌てて伊丹空港に駆けつけると、旅行社のスタッフが「とりあえず皆さんには出発してもらいましたんで、一時間後に飛ぶ別の航空会社の便で追いかけてください。手続きはすませてます。幸い仁鶴さんたちは台湾でトランジットですので合流できますから。池田さんがいなければ皆さんどこのホテルへ泊まっていいのか、どんなスケデュールになってるのかご存知ありませんからね」ということ。

いわれるままに別便で後を追いかけ、台湾の空港の中を探し回り、ようやく向こうの方からビーフジャーキーなんかを齧りながら歩いてくる一行を見つけたときはホッとしました。

平身低頭する私に怒りもせず、「いやいや、余興の仕事で寝過ごして乗り遅れるちゅうのは芸人仲間でもようあるけど、外国旅行で寝過ごして、というのは実に大胆不敵ですな」と感心されてしまったのには参りました。

「ザ・タッチャブル」は当時大ヒットしたアメリカのテレビシリーズ「アンタッチャブル」をもじったもので、アンタッチャブル(買収されない)と称されたFBIの隊長エリオット・ネスが、シカゴのマフィア達を相手にその摘発撲滅のために大活躍をするというドラマです。

「ザ・タッチャブル」のメンバーは「いつでも買収OK」というマフィア達で、仁鶴がその首領(確か、エラノビッチ・ニカクスキーという名前をつけたと記憶しています)で、毎回配下の連中を集めて会議を開く、という設定です。

そのメンバーが、コメディー№1の前田五郎、阪田利夫、上岡竜太郎にゲストを加えた顔ぶれで(例えば阪田利夫はアル・カポネをもじって「アル・アホネ」という名前で)、会議の内容は最近の世相、風俗、社会事件、などをとりあげて、マフィア連中なりにいろいろ検討してみようじゃないかというものです。

例えば、当時、田中角栄首相の「列島改造」が話題になっていて、「日本列島をどのように改造したらいいのか、我々も考えてみようじゃないか」とのニカクスキー首領の提案でそれぞれが案を出し合うわけですが、メンバーがメンバーですからろくな意見は出ません。「日本全土をカジノにして世界から客を集めたら日本国民は遊んで暮らせる」みたいな馬鹿馬鹿しい迷案ばかり。

最後はキレてしまったニカクスキーが「てめえ等とはやってられねえ」とマシンガンで全員を撃ち殺してしまうという幕切れです。

仁鶴さんとの仕事で忘れられないのが「ナイトパンチ」です。

関西テレビで昭和四十七年の年明けからスタートした深夜のバラエティー番組で、出演が笑福亭仁鶴、西川きよし、コメディー№1、のちには上岡竜太郎、桂きん枝、更にはホステス役で由美かほる、木の実ナナといった顔ぶれで毎週金曜日の夜に放送され、スタート直後から人気を集めた番組です。

番組の作、構成を一人で受け持つて、毎週文字通りバラエティーに富んだ趣向を考えるのが一苦労でしたが、その中でのレギュラーコーナーに「仁鶴ズ・トピックリー」と「ザ・タッチャブル」というのがありました。

「仁鶴ズ・トピックリー」というのは、番組のオープニングで仁鶴がその日の夕刊各紙から面白そうな記事を幾つか紹介して、そのあとにそのニュースをネタにした小咄で落ちをつけるというもので、夕方から本番までの間に私がその原稿を書き、その生原稿を見ながら仁鶴独特のテンポのある喋りを展開するというわけですが、殆んどぶっつけ本番に近い状態での喋りが逆に彼の本領を発揮させたものでした。

ときには原稿を一枚飛ばしてしまって、大慌てに辻褄の合わないギャグでその場をしのいでる最中に、前で聞いていたコメディー№1の前田五郎が「ここに落ちてまっせ」と床に落ちていた原稿を差し出してくれたのはいいんですが、それでかえって話の前後が判らなくなって支離滅裂の大爆笑になったなんてこともありました。これも生放送ならではのことです。

仁鶴さんと会って話を聞くうちに彼の「やりたいもの」がわかりました。

「心の旅、歌の旅」というタイトルはその意を汲んでで名づけたものです。

「日本の今の世の中、このままの流れでいくと、美しい自然はもとより、日本人ならではの独特の習慣、心といったものがだんだん忘れ去られてしまうのでは。歌にしてもいつまでも歌い継がれてほしいいい歌が沢山あるはず。

そんなものを拾い上げ、掘り起こして喋ってみたいんですわ」

仁鶴さんと私は殆んど同世代です。(私が二歳だけ年上ですが)

彼の想いに「わが意を得たり」の部分がたくさんあります。私に台本を、と望んだ意図も理解できました。

以来そんなテーマについて話を交わすたびに「二人で話が合い過ぎますな。

ひょっとして、老いの繰り言にならんように気いつけんとあきませんで」などと言い合っています。


四十年の付き合いとはいうものの、ここ十年以上は時々放送局で顔を合わせて立ち話をする程度だったのですが、何ヶ月か前に元ラジオ大阪のディレクターで人気番組「ぬかるみの世界」などを担当し、現在「エフエムちゅうおう」のプロデューサーの岩本氏から電話がかかってきました。

「先生、お久しぶりです。最近はもう放送の台本は書きませんのか?」

いきなりなにを言うのかと思いながら「いや、書かへんわけやないけど、この年になると注文がないからね」

「ほなら注文します。実は今度ラジオ大阪で笑福亭仁鶴さんの番組を始めることになったんですが、その構成台本を是非池田先生に書いてもらいたいという仁鶴さんの希望なんですわ。やってくれますか?」

「そら有難い話やけど、ラジオで、しかも仁鶴さんが喋る番組に台本なんか要るのかいな」

「仁鶴さんが是非やりたいというテーマがありまして、先生ならそれを理解して、喋りやすい台本にして貰えるやろということなんです。とにかく一辺会うてみてくれませんか」

前にも話したように、近頃のラジオ番組には「台本」といえるものは殆んどありません。もっぱら出演者が自身のキャラクターを生かして自由に喋り、

その出演者が喋るためのコーナー企画を考え、資料やネタを取り揃えるのが放送作家の仕事なのです。

放送作家というより、ブレーンスタッフと呼んだ方が仕事の実態を表しています。

昭和四十年代の関西の放送界は、新しいお笑いの波が打ち寄せることから幕が開きました。

その中心となった顔ぶれが、笑福亭仁鶴、月亭可朝、桂三枝、桂小米(後枝雀)、桂春蝶、桂朝丸(現ざこば)笑福亭鶴光・・といった若手落語家達と、それまでのいとしこいし、蝶々雄二、ダイマルラケット、AスケBスケ、などのベテラン漫才に代わって登場した、やすしきよし、カウスボタン、コメディー№Ⅰ、レツゴー三匹、といった若手漫才の集団です。

前の章で述べたように、そういった若手落語家との仕事での付き合いの始まりは、ラジオ大阪のサテライトスタジオからの生放送「即席リレー小咄、ハイ本番」という番組だったように思います。

少なくとも、笑福亭仁鶴さんとの付き合いはこれから始まったといえます。

以来、四十年にわたっていろんな番組で一緒しました。

現在も、奇しくも四十年前に付き合いのはじまったラジオ大阪で「仁鶴・心の旅、歌の旅」という番組で彼のための台本作りをしています。

九月までは毎週火曜日に放送されていましたが、十月からは土曜日の午後七時からの「笑福亭大仁鶴」という番組の中でのメインのコーナーとして放送しています。


第4章タレントとのさまざまな想い出

前章でも述べたように、四十数年の放送作家生活のなかで仕事でのつきあい、あるいは仕事だけでなくプライベートなつきあいにまでおよんだタレントは数少なくありません。

正確に記録していないので非常にアバウトな言い方になりますが、放送作家として関わったラジオテレビの番組は四十年で二百本は超えているはずです。

夫々の番組が、短くて数ヶ月、長いのは十数年続いたものもありますし、それに単発番組(一回だけのスペシャル番組など)を含めれば、延べにして数千本の番組に関わってきたわけですから当然それらの番組に出演したタレントの数も数え切れないものにのぼります。

そんななかから私自身にとって忘れられないエピソードを持つ人たちを何人か拾い上げてみたいと思います。

前章での人たちは昭和三十年代、つまり私の新人時代に少なからず「本書き稼業」に影響を与えてくれたタレントでしたが、これから述べる人たちは

四十年以降、放送作家としてなんとか軌道に乗り始めた頃から現在に至るまでの間に付き合った人たちです。