けど、考えてみれば有難い稼業です。原稿料を貰って台本書いて、書くことで放送作家としての技術も磨いていくことが出来、書いた番組がヒットし、そのタレントが売れればそれが作家の実績になってもいくわけですから。

「あのタレント、芸人は私が育ててやった」なんていう作家や制作者のベテラン達が時々いますが、私は逆にいろんなタレント、芸人たちによって仕事を与えられ、育てられ、今日までの本書き生活を支えられてきたのではないかと思っています。

タレント、芸人が売れるのは、まずは本人の持って生まれた才能とそれを発揮させるための自身の努力によるところが殆んどで、他人の力のみで売れるなんてことはまずあり得ません。

我々の仕事は、その手助けをすることで喜びと満足感を味わうものなのです。

そしてその頃から、今までのコメディアンと違ったジャンルのお笑いの世界である、落語、漫才の演者達との付き合いが始まりました。

前記のほかに、落語家では桂三枝、桂小米(のちに枝雀)桂朝丸(現ざこば)、桂きん枝、桂文珍、月亭八方、笑福亭鶴瓶、桂春之輔など、漫才ではかしまし娘、やすしきよし、漫画トリオ、Wヤング、ちゃんばらトリオ、横山ホットブラザースオ、カウスボタン、コメディー№1、敏江玲二、神助竜助、最近の売れっ子ではオセロ、などなど、40年の間に枚挙に暇の無いほどの顔ぶれと仕事での関わりをもってきました。

原則としては彼らのために(厳密に言うと彼らの出演する番組のために)台本を書くわけですが、それは同時に自分自身の勉強の場でもあったわけです。

それぞれの出演者のためにどんなネタを書いたら受けるだろうか、そのキャラクターを生かすためにはどんな企画を考えればいいのか、内容の展開、受けるギャグはどんなのか、常にそればかりを考えて仕事をしてきました。

放送作家というのはある意味では座付き作者でないといけない部分が大いにあります。

特に関西の演芸、お笑いの番組に関して言えば、タレントの人気、その人気を生み出したキャラクターを売り物にして作られるケースが殆んどですから、必然的に座付き作者にならざるをえないわけです。

ラジオ大阪といえば昭和39年(1964年)に大阪で始めてのサテライトスタジオを開設しました。

大阪駅前の阪神百貨店の正面にガラス張りのスタジオを設け、道行く人たちが自由に立ち止まって放送風景を見ることが出来るようにしたもので、

道路側から見ると前面ガラス張りのスタジオは丁度水族館の水槽みたいな感じ、そのなかで魚ならぬいろんな芸人、タレントがマイクにむかったわけです。

開設当初から「放送中の人気芸人の顔が見える」「放送の機械や裏方であるスタッフの姿まで見える」というのでガラスの前は黒山の人だかり。

交通妨害になると、近くの曽根崎警察から注意を受けたこともしばしばでした。

すでに行われていた「公開録音」に続いて本格的な「見せるラジオ」の始まりがこのサテスタ(サテライトスタジオの略)といえます。

見せることが目的ですから必然的に人気の芸能人、タレントの出演が多くなります。

私が係わったサテスタ番組では「即席リレー小咄、ハイ本番」というのがあります。

出演が笑福亭仁鶴、桂小米朝(現月亭可朝)桂小春(現福団治)桂春蝶(故人)の4人で、昭和40年代に入って続々と台頭、一気に上方の落語ブームを作り上げた若手落語家の代表ともいえる顔ぶれが並んで、その日の新聞からニュースを拾い上げ、即席で小咄作りを競い合うという趣向の生放送番組でした。

私と、上方の落語家との付き合いのきっかけは多分この番組だったろうと思います。

茶川一郎がラジオのディスクジョッキーをやったのを覚えている人は殆んど居ないと思いますが、ラジオ大阪で「茶ぁさんの選んだ歌謡曲」という番組で、私が台本を書いて、ポリドールレコードの歌手たち(タイガース、園まり、など)のヒット曲と茶ぁさんのコント風の喋りをつづるといったものでもつきあいました。

現在ではラジオのディスクジョッキーといえば台本などなく、殆んど出演者のフリートークにお任せですが、当時(昭和40年前後)といえばディスクジョッキーにも作者がいて台本を書いたものでした。

ラジオ大阪の人気アナウンサーだった水本高志の「ギャンブルジョッキー」なんて番組もやりました。

「人生は賭けに始まり賭けに終わる」なんて語り出しで始まり、いろんなギャンブル、勝負の世界を縦横斜めから分析したり必勝法を語ったりするという内容で、この番組のおかげで競馬にも興味をもつことになりました。

かの名馬シンザンの三冠のあとで競馬が大衆的な人気を集めだした頃です。

以来40年にわたって毎週馬の走る姿に手に汗にぎって、そのかわり握った金をはきだしているわけです。この番組を書いていなければ家の一軒、とまではいかなくともベンツの一台や二台は買えていたかもしれません。けど、ベンツを乗り回す以上の楽しさを40年にわたって味わってきたともいえます。

「金儲けのためならギャンブルなんかすべきではない。負けた金は楽しみ代、

勝った金は余禄」ギャンブルをするときの鉄則は競馬によって教えられました。

そのあと、真面目に練習もし始め、クラブも揃えたりしたわけですからあの「筆おろし」で「ゴルフは懲り懲り」ということではなかったわけです。

お陰であれから40年以上の間私の「最も好きなスポーツ」になり、のちに「ゴルフ丼」という番組で中村鋭一と組んで6年以上も出演することも出来たんですから、動機は多少不純でしたが私をゴルフの世界へまず連れ出してくれた佐々やんには感謝すべきかもしれません。


ゴルフがきっかけというわけではありませんが、そのあと佐々やんとは「佐々やんのごめんください」(МBSTV)という番組でつきあうことになりました。

ガスの集金人(提供が大阪ガスでしたから)の佐々十郎が毎回引き起こす一寸した事件をコメディータッチのホームドラマにしたもので、おっちょこちょいだがさっぱりした正義感のある佐々やんのキャラクターを生かしての台本作りは、楽しかった仕事のひとつです。


茶ぁさんこと茶川一郎さんともよくゴルフをしましたが仕事でもずいぶんいろんな番組でつきあいました。前にも話した「番頭はんと丁稚どん」をはじめ「一心茶助」(関西テレビ)でも制作を担当しました。

脚本を山路洋平が受け持ち、一心太助の浪花版といったキャラクターの魚屋の茶助が主人公で、いとしこいし、トリオこいさんず、真白一平などが出演、上方コメディーではあったが、もともと東京育ちの一本気の性格の茶ぁさんには適役の芝居で、当時の人気コメディーの中でもかなりのヒット番組になりました。


ま、時代もよかったんでしょうか、それと人気絶頂の佐々十郎ということでゴルフ場も大目にみてくれたんでしょう、プレーをすることになったんですが、翌朝ゴルフ場へ行くと佐々やんには同伴の女性プレーヤーがいます。

「成る程、そうやったんか」。

読めました。彼女と二人きりでは顔がさす、といって芸人仲間を誘うわけにいかず、たまたま会社で顔を合わせたわたしをダミーにと誘ったわけです。

それでも、とりあえず私のゴルフ筆おろしは無事に(?)終わりました。

スコアーなんてまったく覚えていません。ルールもマナーもわからないままに必死でフェアウエーを走り回ったのと、結構風が強く寒かったのと、「教えてやるから」といった佐々やんが、まったく教えてもくれず、彼女とむつまじくプレーを楽しんでいた姿だけは覚えています。


ちょっと楽しい仕事を始めることになりました。7月25日からスタートの「仁鶴・心の旅、歌の旅」という番組です。

ラジオ大阪で毎週火曜日の午後8時30分からの放送ですが、構成、台本を受け持つことになりました。

童謡、唱歌、民謡、懐メロの名曲、など心に残る、また残しておきたい歌を紹介しながら笑福亭仁鶴が「日本の心」を語っていこうというものです。

千数百年の歴史のなかで育まれ培われてきた日本人ならではの心、「文化」が昨今のめざましい「文明」の進化の中で忘れられようとしてしているのではないか、日本人ならではの心情、風俗、習慣などを再発見してみよう・・というのが仁鶴さんの趣意です。

同年代の私としては構成台本の相談を受けた瞬間に「わが意を得たり」といった感じで引き受けることにしました。

といっていたずらに回顧趣味に走ったり、修身めいた「昔はよかった」といった「老い(?)の繰り言」にはならないように、アシスタントの内海裕子さんを相手に仁鶴さんならではの楽しいおしゃべりを、というのが番組のコンセプトです。

1回目のテーマは「海」でした。「我は海の子」「海」「砂山」といった懐かしい唱歌、童謡をとりあげました。

2回目(今日8月1日放送)では「夏の風物詩」をテーマに「津軽じょんから節」「花火」「明治一代女」(何故夏の風物詩でこの歌なのか、聴いてもらえばわかります)「金魚の昼寝」といった曲が流れます。

夏の風物詩といえばそれぞれ何をまず思い浮かべるか、一緒に考えながら聞いてみてください。


こいしさんとはよくゴルフもいきました。

当時(昭和30年代)は、日本で開催されたワールドカップで中村寅吉プロが優勝したのがきっかけで、それまで裕福な階層のスポーツだったゴルフが一般の人たちの間でも人気を集めだした頃。関西の芸人仲間でいちはやくゴルフを始めたのが南都雄二、喜味こいし、佐々十郎、茶川一郎、藤田まことといった人たちで、私がゴルフを始めたのは佐々十郎(佐々やん)に誘われたのがきっかけです。

ある日、東宝のテレビ課で顔を合わせたときにいきなり「池ちゃん、明日ゴルフに行こうよ」と声をかけられました。

「ゴルフ?そんなもんようしませんわ」というと「出来る出来る、誰だって出来るんだから、教えてやるよ」

「そら無理でしょう、クラブも握ったことないのに、第一道具も持ってませんがな」

「道具は俺が用意してあげるから、練習はコース回りながらやりゃいいんだから、コースは茨木カントリー。結構いいゴルフ場なの」

あとでわかったんですが、茨木カントリーといえば関西では名門のコースです。しかも練習もせずにいきなりコースで、借り物のクラブでプレーしろという、ゴルファーの風上にもおけないことをケロッとした顔でいうんです。

NET(日本教育テレビ・現在のテレビ朝日)で「ベルベ・・・」の収録があり、誰がいいだしたのか「折角東京まできたんやから帰りに箱根の温泉で遊んで帰ろう」ということになりました。

いとしこいしの両人に二人の所属する大宝芸能(東宝傘下のプロダクション)の斎内支配人、山路洋平氏と私の5人で箱根の強羅へ繰り出しました。

ずぼらなもので、斎内氏が「行ってから適当な宿を探したらよろしいがな」というので男5人が強羅の山道を旅館を探してぶらぶら歩く羽目になりました。

初夏の頃だったと思います、道の両側には葉桜が緑をしたたらせていました。

「この辺は桜がきれいやろな」というといとしさんが「強羅ちゅうとこはさくらんぼでも有名やね、歌にもうたわれてるくらいやから」と言い出しました。「え?そんな歌ありましたか」「知らんか?強羅強羅黄色いさくらんぼ・・て」。

当時大ヒットした「黄色いさくらんぼ」という歌の「ほらほーら黄色いさくらんぼ」の駄洒落でしたが、少し照れながら済ました顔であのいとしさんがそんな馬鹿馬鹿しい洒落をつぶやいたシーンが何故かいつまでも忘れられないのです。

いとしさんが亡くなったと知ったとき、いろんなエピソードのなかで、あの強羅の山道での駄洒落がいの一番に思い出されたのが不思議でなりません。

いとしこいしさんとはその後「ベルベ憧れのステージ」「一心茶助」「まげもの一一〇番」といった番組でのつきあいが続きました。

いずれも「番頭はん・・」と同じく南街シネマという映画館での公開放送でしたが「ベルベ憧れのステージ」というのは私が構成を担当した視聴者参加の音楽番組で、中沢寿士とМJBジャズオーケストラのフルバンドをバックにアマチュア参加者やゲスト歌手のどを競うといったもので、司会がいとしこいし。

番組半ばでの生CМで藤田まこととトリオこいさんずというOSK出身のコーラスグループが登場、“ベルベチュチュチュ・・のコーラスのあとの「(ドンドンドン)あ、利いてきた」という藤田まことの決まり台詞が大ヒット、このキャッチコピーのおかげで番組提供の亜細亜製薬の栄養剤アンプル「ベルベ」がバカ売れしたものでした。