そんななかではじめて原稿料をもらっての台本を書いたのがいとしこいしの漫才でした。

ラジオ大阪で「いとしこいしのニュース展望」という番組があり、毎朝両人が直近のニュース出来事を漫才に仕立てあげるといったものでしたが、何人かの台本作家の一人であった小松左京氏が降板し、その後釜で原稿を書かないかという話が来たのです。

それまで漫才は好きでよく聞いたりはしていたものの台本なんか書いたことがありませんでしたが4,5分くらいのネタならなんとかなるんじゃなかろうか、初めて自分の名前で放送台本が書けるチャンスなんだからと一も二もなく引き受けました。

ボクシングの矢尾板選手が世界タイトルをとったというニュースをネタにしての漫才でしたが、いま読んだらおそらく冷や汗ものの台本だったと思います。

いとしこいしの両人が私の拙い台本をそれなりにアドリブなど加えて面白く仕立て上げて喋ってくれたときは感動に近いものを覚えたものでした。

そのあと何本かの台本を書いていく過程で「成る程、漫才の台本というのはこう書くのか」とその都度勉強させられました。

つい最近喜味こいしさんと昔話になったときにその話をしたら「あんたが台本を書いてくれてたのは覚えてるけどどんなネタ書いてくれたかまでは覚えてまへんな」「そうかよっぽど印象に残らんネタばっかり書いてましたんやな」というと「そんなことはないよ、いろんな人に何百本ものネタを書いてもろたんやから、むしろ使い物にならんネタの方が覚えてます。少なくともその中にあんたのネタは入ってない」と妙な慰め方をしてくれました。


たしかに今は「タレント」としか表現のしようのない連中が放送界を席捲してますから考えてみれば便利な呼び方が生まれたもんだと思います。

でも私が放送作家として四十数年間仕事を続けてこられたのはそんなタレント達と常に関わりあってきたからです。

放送という世界は老若、職種、人種を問わず番組にひっぱり出すことで成り立っています。

放送作家の仕事はそんな種々雑多な出演者達で、硬軟とりまぜ如何なる番組を作るかを考え、台本を作ることです。

好むと好まざるにかかわらず様々なジャンルの出演者たち、つまりタレントと台本を通じての関わり合いをもってきました。

この世界に入ってはじめての芸人とのかかわり合いは先に述べた「番頭はんと丁稚どん」での出演者たちです。

デビュー早々から茶川一郎(故人)、芦屋雁の助(故人)、小雁、大村崑、それに「番頭はん」の出演者ではありませんでしたが、夢路いとし、喜味こいし、佐々十郎、藤田まことといった人気コメディアンたちといろんな番組でつきあいました。


かくいう私もいつの頃からかラジオやテレビに出るようになってからはよく「タレントでおなじみの池田さん・・」なんて紹介されることがあります。ま、それは仕方がないと思います。「タレントで・・」と言った方が分かりやすいんでしょう。

その人にしてみたらテレビやラジオによく出ているけど役者でもなければ芸人、歌手、アナウンサーでもない、スポーツ選手でもなければ政治家、会社員でもない、となると「タレントの」というのがもっとも便利な呼称なんでしょう。「放送作家」という呼称がボキャブラリーの中にない人が意外に多いんです。

「いえ、タレントはいわば副業でして、本職は放送作家でして」と正したいのですが、そうなると今度は必ず「放送作家というのは・・・」と説明しないといけない羽目になるんでたいていの場合は「タレント」に甘んじています。

第3章  タレント(芸人)たちに育てられた本書き

本当は「タレント」という言葉はあまり好きではありません。

いつの頃からか放送の世界に顔を出している者を総称して「タレント」と呼ぶようになりました。

「タレント」の正しい意味は「才能」とか「才能を持つ人」ですが放送の世界に顔を出している者全てが当てはまるかというと必ずともそうじゃない。

むしろ「タレント」でない連中のほうがはるかに多いのが現実です。

もっとも更に語源をたどれば、ギリシャ語の「タラントン」からきているんだそうで「秤(はかり)」という意味で「重さやお金の単位」を表す言葉だそうです。

それが中世の頃に、人間の能力や才能を「○○タラントン」と貨幣価値に換算して表したことから「タレント=才能」を意味するようになったそうです。

そういう意味では近頃はその値打ちを量りなおしてみたいタレントが大勢いるんでは。

そのピークが39年の東京オリンピック。この頃すでに受信台数は1千500万台を超えています。

NHKで1日10時間、民放でも1日5時間から10時間をオリンピックの中継に費やし、国民のすべてを「生中継」というテレビの持つ最大の特性である「即時性」の虜にしてしまったのです。

戦後の混乱と貧困から立ち直り、日米講和条約、安保闘争を経て高度経済成長のレールの上を走り始めた30年代の日本を象徴するのがテレビです。

そんな時代に放送作家としてスタートし、そのレールの上をただひたすらに走って、というよりは「走らされてきた」私は、考えてみれば良い時代に生きてきたと言えるのかも知れません。

いずれにしても昭和30年代にテレビの世界は驚異的な飛躍を遂げました。

受信台数も一年で百万台の割合で増えていきました。866台からスタートした受信台数が数年後の昭和53年には500万台を突破し、さらには、早くもその年にはカラー放送が開始されるまでになったのです。

いろんなジャンルでの人気番組が続々誕生しました。

力道山の空手チョップが炸裂するプロレスや野球、大相撲の中継、アメリカからのテレビ映画では「ハイウエイパトロール」(31年)「名犬リンチンチン」(31年)「アイラブルーシー」〔32年〕、「ローハイド」(34年)。ドラマでは「事件記者」(33年)、同じ年に「私は貝になりたい」(テレビ東京)が放送され芸術祭賞を受賞し話題になりました。

「月光仮面」がスタートしたのも昭和33年、今からみればおよそ安っぽいオートバイににまたがった大瀬康一扮する月光仮面が、およそダサいマントをひるがえして走る姿に子供たちはテレビの前に釘付けになったのでした。

その他「私の秘密」、「光子の窓」「七人の刑事」など数え上げだしたらきりがありませんが、テレビという新しいメディアは試行錯誤を繰り返しながらつぎつぎにいろんな人気番組の花を咲かせた、それが昭和30年代だったのです。

「テレビの本書きというのは一つの面白いネタをいくつに引き伸ばすかが仕事やね。10個のネタをひとつの作品に詰め込んでしまうのはアマチュア、プロの本書きで飯食っていこうと思ったら10個のネタは10回に振り分けて書かんとテレビという消耗品作りの世界では続かんよ」

「テレビなんてなんぼシャカリキに力いれて書いても一回放送されたらそれで終わり、おまけに原稿料は安い、印税は入らん、効率の悪い仕事やね」

これからテレビの本書きとして頑張ろうとしていた私にとって花登氏の言葉は気力を削ぐものでしたが確かに真実を衝いています。

「けどね、テレビを馬鹿にしたらあかんよ。テレビはショーウィンドウ。

客(視聴者)はそこに並んだ商品をみてきれいとか美味しそうといって買うてくれるんやから。売れるためにはまずテレビで人気をあつめること。芸人なんか特にそうやね」

四十年も前、テレビがまだスタートしたばかりの頃に、テレビの実態をある部分言い当てた花登氏はまさに「テレビ作家の申し子」だったといえるかもしれません。


このままでは絶対に時間に収まらないとなると舞台の袖で必死に腕をぐるぐる回します。「巻き」のサインなんですがこれを横目で見ながらもお構いなしで遊び始める出演者達、それでもどういうわけか時間が来ると不思議に話のケリがついて緞帳が降りるんです。

ホッとする私に茶あさん(茶川一郎)あたりが声をかけます。「どうや、心配せんでもちゃんと芝居は納めるからね」

いろんな舞台でいろんな役者達と場数をふんできた彼らの凄さに感心させられた番組でした。

それまでコメディーなどは書いたことがなかった私にとって「番頭はん・・」などのコメディー番組に関わったこと、そして実際に代作とはいえ台本作りをしたことがその後、関西のお笑い番組や笑芸の世界に身を置く大きなきっかけになったことは間違いありません。

師弟というほどのつながりではありませんでしたが、少なくともコメディー作りに関しては花登氏から受けた影響は大きなものがあります

少なくとも半分以上は私が書いたストーリーが、花登氏によって読み合わせからリハーサルの間にどんどん変えられて行きます。

出演者達のノリ具合やアドリブ、ギャグ、自身のアイデア次第で融通無碍に内容が変えられていくのです。私に書かせたのも台本の締め切りに間に合わせるためだけだったのかと思ったものでした。

その方法の良し悪しはともかく、コメディーづくりのコツや面白さを花登氏から教えられたのは間違いありません。

まだVTRなどなかった時代ですから勿論生放送。それも大阪ミナミの「南街シネマ」という映画館で映画の上映の合間を利用しての公開放送です。

演出助手兼舞台監督(というよりは雑用係ですが)として番組に関わっていた私の本番中の最大の仕事は「いかに30分の時間内に芝居を終わらせるか」ということでした。

番組のスタートは、「丁稚だって、丁稚だって、夢があるんだ丁稚だって・・」というマヒナスターズのヒット曲「好きだった」を替え歌にしたオープニングを茶川一郎、芦屋小雁、大村崑の三人の丁稚が歌います。そこから舞台の緞帳が上がるんですが、なにしろ生放送ですからなにがなんでも時間内に結末がついて緞帳が降りないといけません。ところが芸達者な出演者達は興がのってくるとアドリブの連発はおろか話までもが横道へそれていくのです。

わが町夙川公園の桜がようやく満開を迎えました。ところが私自身はこういった春爛漫の季節があまり好きではないのです。

まさに「春眠暁をを覚えず」で、朝の寝覚めもシャキッとしない、暖かいのか寒いのかわからん、桜も派手に咲き誇っているわりにはすぐに散ってしまってそのはかなさが悲しさを誘います。

1年中で一番はっきりせんぼやーっとした、気力の湧かない季節です。

こんな季節にいろんな年度替わりをきめたやつの気が知れません。

というわけで「放送の世界を・・・」はおやすみ。

わたしのやっている「池田幾三の旅にいくぞう」〔KBSラジオ)が明日7日から毎週金曜日PM3時から1時間半の生放送でスタートします。

なんとか気合をいれて、とは思っていますが前述の理由からどうなることやら。