ある日の夕刻に花登氏から電話がかかってきました。「悪いけど今から家へ来てくれへんか、仕事手伝うてほしいねん」

急いで豊中の自宅へ行くと、書斎の机の上に原稿用紙が何枚かづつ束になってならんでいます。

「どれでもええわ、好きなやつあと続けてほしいねん」

見ると「番頭はん・・・」「やりくり・・」など3‐4本がいづれも途中まで書いてある。

「どれでもええいわれても・・」

「とりあえず読んでみて、これならあとの話が続けられそうやというのを引き受けてくれたらええわ。これみんな明日締め切りやねん」

「はあ、わかりました」

とりあえず原稿を読み始めるんですが、速さにまかせて一気に書いた原稿ですからその読みづらいこと、なんとか判読して「わかりました、番頭はんにします」と書きはじめます。

「番頭はんと丁稚どん」は毎日放送テレビがOTVから朝日放送との2局に分かれた直後の昭和34年にスタートしたコメディーで、放送開始直後から爆発的な人気を博し、視聴率は常に30%、最高視聴率はなんと60%を超えた、今では考えられない、言うならば「お化け番組」でした。

番頭はん(芦屋雁の助)と丁稚どん(茶川一郎、芦屋小雁、大村崑)達が、船場の「七ふく堂」(スポンサーが七ふく製薬でしたから)という薬問屋を舞台に繰り広げる笑いと、一寸した人情味のからんだ、典型的な上方喜劇でしたが、なんと行っても当時売り出しのこの四人のコメディアンのキャラクターを存分に発揮させた花登氏の台本と演出が大ヒットの大きな原因でした。

ともあれ東宝という組織の中で本書きとしてのスタートを切ったわけです。

そこで一緒になったのが山路洋平、新野新です。彼らは二人とも一年先輩で(全く偶然なんですが大学も)テレビ課の前身である演劇部の演出助手として北野劇場の舞台などで仕事をしていたのですが、北野劇場が実演劇場から単なる映画館へと変ったと共に新設のテレビ課の契約作家に転身したばかりだったのです。

ふたりとも現在まだまだ元気です。

洋平ちゃん(当時からの呼び方です)は得意の芝居やミュージカルの世界で話題の作品を手がけています。

新ちゃん(これも当時からの呼び名です)は最近まで25年以上の間私と「ペン企画」という作家集団を主宰し、いろんなテレビ番組を書き、出演し、正におなじ釜の飯を食いつづけてきました。

「東宝の若手作家三羽ガラス」などとメディアに取り上げられたこともありました。わたしにとっては、放送の世界での同期生で40数年間の戦友ともいえるのがこの二人です。

この三人の先輩として大活躍していたのが花登筐(はなとこばこ)氏でした。

同じく東宝の専属作家としてテレビ課の制作する、「番頭はんと丁稚どん」「やりくりアパート」「とんま天狗」など当時人気を集めたテレビコメディーの殆どの脚本を一手に引き受けていたのが花登氏だったのです。

毎週数本のコメディーを書きこなしていくその仕事ぶりはまさに精力的で、その筆の速さも私にとっては驚きでした。

「30分のドラマを30分で書き上げる」といわれたほどで、事務所の机で片手で受話器をもって話ながらペンを走らせている姿は何度も目撃したものでした。

教科書も師事する人もなく、まるで手探りで「テレビドラマ」なるものを何本か書いていたある日、「あんたの高校、大学の先輩で東宝映画でテレビの仕事をしている人が居るんやけど会うてみるか」と近所の友人に紹介されたのが楠美昌氏でした。

「映画作りのノウハウを活かしていろんなテレビ番組を作っていこうというのが我々の仕事なんだが、そんな中で台本の書ける人材を探している。

何か作品をみせてくれますか」

スポーツマンタイプながら温厚な口ぶりで応じてくれた楠美氏は、東宝関西支社のテレビ課でプロデューサとしていくつかのテレビ番組の制作に関わっていました。

何本かのドラマを渡してから2‐3ヶ月もたった頃楠美氏から呼び出されました。

「先日も話したように、うちも本格的な番組作りを軌道にのせていくための一環として専属の若手作家を育てていこうということになりましてね。君さえ良ければ東宝テレビ課の契約作家ということでやってみませんか」という願ってもない話に一も二もなく「お願いします」と頭を下げました。

考えてみれば良い時代だったんです。大学出たばかりの海のものとも山のものとも分からない作家志望の若造が、いきなり東宝の専属作家として契約されたんですから。

正に「台頭期」だったその頃のテレビ界で実際に番組作りに携わっているスタッフといえば殆どが映画や舞台の世界で飯を食ってきた人たちばかりです。       そのノウハウをテレビという新しいジャンルでどう活かせるか、いうならばテレビ作りは教科書のない実験の毎日だったんです。

極端な言い方をすれば「みんな素人」だったんです。ですから「ど素人」の私がいきなりプロの世界に身を置くことが出来たわけです。

「放送作家」などという名称さえありませんでした。当然です。それまで放送作家という存在がなかったんですから。

第二章 テレビ界へのスタート


まずは、テレビドラマのシナリオは映画のそれとどう違うのか、そんなところからの始まりでした。

当時人気のテレビドラマといえば外国物では「アイラブルーシー」「スーパーマン」など、NHKの「事件記者」関西発の「部長刑事」がスタートしたのが昭和三三年、岡本愛彦演出、フランキー堺出演の「私は貝になりたい」が芸術祭賞を受賞したのもこの年でした。


31年にスタートした「東芝日曜劇場」などの人気もあって、テレビドラマというジャンルが確立されるまでにはさほどの年月を必要としなかったのです。


関西のテレビ放送もOTVが朝日放送(ABC)と毎日放送(MBS)に分かれ、読売テレビ(YTV)、関西テレビ(KTV)が開局して昭和三三年には2,4,6,8,10、のチャンネルが出揃いました。


ドラマといえばヒット番組の殆どがコメディー。

「びっくり捕物帖」「やりくりアパート」(ABC)「番頭はんと丁稚どん」(MBS)「とんま天狗」「天外の親バカ子バカ」(YTV)「あっぱれ蝶助無茶修業」(KTV)といったコメディーがつぎつぎに登場、いわゆる「関西コメディーブーム」なる現象を生みだし、ダイマルラケット、蝶々雄二、佐々十郎、大村昆、茶川一郎、いとしこいし、AスケBスケ、芦屋雁之助、小雁、藤田まこと、といったコメディアン達がブラウン管を席捲していて、のちに私自身がその世界に身を置くようになるとはまったく思いもせず、「なるほど、これがテレビコメディーなのか」と感心しながら笑いころげていたものでした。



さまざまなマスメディアのなかで放送媒体の持つ最大の特性である「即時性」が完全に人々の心をとらえてしまったのです。ましてラジオとちがって目で見ることが出来るのです。
今日本の、いや地球上のどこかで起こっている出来事がそのまま同時に居ながらにして見ることの出来るメディア。ニュース映画は勿論、新聞などが太刀打ちできないこの特性が茶の間の視聴者に迎え入れられるのは当然の結果だったのです。
力道山の空手チョップを見ようと街頭のテレビの前に黒山の人だかりが出来たのを皮切りに、野球中継、相撲中継、などその特性をいかんなく発揮したテレビは急勾配の直線で視聴者の数を伸ばしていきました。生中継の番組だけでなく、ドラマ、演芸、バラエティーなど各ジャンルの番組が作られ、人々をテレビ漬けにしていったのです。
好むと好まざるにかかわらず、スイッチをいれてチャンネルを回せばあらゆる情報やエンターテーメントが茶の間で、寝転んだままで観ることが出来るようになったんです。この現象を憂いた評論家の大宅壮一が「一億総白痴化」と表現したのは早くも昭和32年のことでした。「なるほど、テレビというものが時代をリードしていきそうだ」と実感し始めた私は、「よし、テレビドラマなるものを書いてみようか」と、少しばかり本気になったのでした。
勿論、日本映画の灯は完全に消えたわけじゃなく、その後も数々の名作、ヒット作は生み出され現在に至っているんですが、いかんせんテレビというエイリアン的モンスターの繁殖力と破壊力に抗し切れず徐々にそのシェアーを狭めていったのはまぎれもない事実です。
その危機を感じた映画各社は「5社協定」なるものを結びテレビへの俳優の流出を防ごうという対策を講じたりもしましたが、これがかえって映画界の発展的存続を妨げてしまう結果にもなってしまったんです。ともあれ、まことに短絡的に志向を変更した私は「よっしゃ、なんとかテレビで食っていける道をさがしてみよう」と意を固め(というほど固い決意でもなかったが)大阪に戻ってきたのが昭和34年の春でした。
「5年間も東京で勉強させてやったのに就職もせんと、帰ってきたら家でぶらぶらしてからに、何考えてるんやろこの子は」という両親の愚痴に忸怩たる思いをもちながらも「どうしたらテレビの世界で仕事が出来るんだろうか」ばかりを考える毎日を過ごしていました。
昭和34年といえば全国のテレビ放送局も殆ど出揃い、関西でもNHK、毎日、朝日、関西、読売の各テレビ局がそれぞれに鎬を削りあおうとしていました。受信契約数もこの年には100万を超えようとしていて、たしかに茶の間の楽しみの主導権はテレビに移りつつあったのです。その象徴ともいえるのがこの年の4月におこなわれた皇太子(現天皇)ご成婚の儀式でした。皇居の賢所にテレビカメラが初めて入り、馬車の列から皇太子、美智子両殿下の手を振る姿を全国民が茶の間の、街頭のブラウン管から生で見ることが出来たのです。
ぶらぶらしてからに、何考えてるんやろこの子は」という両親の愚痴に忸怩たる思いをもちながらも「どうしたらテレビの世界で仕事が出来るんだろうか」ばかりを考える毎日を過ごしていました。昭和34年といえば全国のテレビ放送局も殆ど出揃い、関西でもNHK、毎日、朝日、関西、読売の各テレビ局がそれぞれに鎬を削りあおうとしていました。受信契約数もこの年には100万を超えようとしていて、たしかに茶の間の楽しみの主導権はテレビに移りつつあったのです。その象徴ともいえるのがこの年の4月におこなわれた皇太子(現天皇)ご成婚の儀式でした。皇居の賢所にテレビカメラが初めて入り、馬車の列から皇太子、美智子両殿下の手を振る姿を全国民が茶の間の、街頭のブラウン管から生で見ることが出来たのです。

いきなり「テレビドラマに進め」といわれても「はいわかりました」というほどの知識もなにも持ち合わせていませんし、私自身にも「テレビなんて」という思いもあって「はあ、そうですか」という返事しかできませんでした。


そのすぐあとのことです、たまたま松竹大船撮影所で助監督の採用試験があり、最終面接を受けることになっていました。

ところが、その前夜に徹夜麻雀をやり、仮眠のつもりがすっかり寝込んでしまって面接はパー。


生来どちらかといえば楽観的な性格で、「これは多分神様が映画界へ進ませないために寝坊をさせたんじゃなかろうか」てな勝手な解釈でなぐさめたものであります。


はるか後に、毎日放送の「いかにもスミにも」というテレビ番組で一緒になった大島渚監督にこの話をして「もしあのとき寝過ごしていなければ、ひょっとしたら松竹の助監督になって大島さんにしごかれていたかもしれませんね」というと

大島監督いわく

「よかったですね、よくぞ寝過ごした、ですよ。私にしごかれる前に多分ほかの職さがしをしていたでしょう。丁度その頃からですよ、映画で食っていくのが難しくなり始めたのは」。


                                                 ~つづく~

思わずずっこけながら「そんなら最優秀作なんかに選ぶなよ」と言いたかったんたんですが、

面談のとき


「あのシナリオを読んだ限りではきみにはドラマを書く才能がありそうだ。ただ、今も言ったようにこれからは映画は斜陽、代わってテレビドラマというジャンルの需要が増えるだろうね。テレビ作家というのも悪くない選択じゃないかな」


というサジェスチョンを聞いて、一応シナリオ作家としての資質は認めてくれていたんだと、

再び内心ほくそえんだのでした。


その頃のテレビ界といえば、NHKのテレビ開局が昭和28年、当時の受信契約数は886、1日4時間の放送時間でスタートしたとされています。


続いて30年代に入って民放各社が次々にテレビ局を開局させ、受信契約数もわずか二年で10万台へと伸び、街頭のテレビの前には力道山のプロレスをみる人々が集まり、少し余裕のある家庭にも受像機が置かれるようになってはいましたが、まだまだテレビなどは「電気紙芝居」ともいわれ、少なくとも映画の世界の人たちからは完全に蔑視されていたのです。


テレビが映画に取って代わる時代が来るとは、日本映画全盛の時代に思春期から青春期を過ごした我々には実感出来なかったから、まさに「先見の明をもった教授だったんだ」と知ったのははるかに後のことです。

                        

                           ~つづく~

関西の放送界に身をおいて45年、「思えば遠くへきたもんだ」の感があります。

そんな45年をポツポツとふりかえってみようと思います。

どこまで思い出せるか、どこまで続くか、つれづれなるままに。

第一章


映画からテレビの時代

「君、これからはテレビの時代が来るよ。悲しいかな映画はテレビに押されて斜陽の道をゆくだろうね。シナリオ作家志望の君にこんなこというのは酷なことだが、これからは映画で食っていくのはむつかしい時代になっていくだろうな」。

昭和34年の年明け早々、卒業を間近にひかえての進路相談の面談で、ゼミ担任の印南喬教授は私にいきなりの先制パンチをあびせかけたのです.。

早稲田大学文学部演劇科での五年間、ほとんど無為に過ごした学生時代だったんですが、なんとなく映画界に進みたいという志向だけは持ちつづけ、できれば映画監督かシナリオライターにと、仲間達とシナリオの同人誌を作り何本かの作品を書いたりもしました。

「早稲田演劇」という雑誌があって、毎年一度「戯曲」「シナリオ」「ラジオドラマ」の三部門の懸賞募集があり、応募投稿したのがどういうわけか最優秀に選ばれたこともシナリオライター志向をより強めるきっかけになりました。

「青春の谷間」といういささか甘い青春ドラマでしたが、

表彰式で審査員の一人でもあった印南教授の作品評は

「この作品はいますぐ日活で石原裕次郎主演で映画化出来そうな内容です」というコメント。

一瞬ほくそえんだのですが、そのあとの台詞が「本当はこんなプロ的なものより学生らしい新鮮でアカデミックな作品を求めていたんですが」。

~つづく~

「去年今年(こぞことし)貫く棒のごときもの」は高浜虚子の句。


貫くというほどの立派なものを持ち合わせていないのがチトつらい。

その代わり去年から「引きずっている」ものが多々ありますな。

「去年今年引きずる体調不良かな」

「去年今年引きずる書斎の乱雑さ」

せめてこの二つはとりあえず引きずるのを止めたいもんです。


初詣のおみくじは「吉」。