関西の放送界に身をおいて45年、「思えば遠くへきたもんだ」の感があります。

そんな45年をポツポツとふりかえってみようと思います。

どこまで思い出せるか、どこまで続くか、つれづれなるままに。

第一章


映画からテレビの時代

「君、これからはテレビの時代が来るよ。悲しいかな映画はテレビに押されて斜陽の道をゆくだろうね。シナリオ作家志望の君にこんなこというのは酷なことだが、これからは映画で食っていくのはむつかしい時代になっていくだろうな」。

昭和34年の年明け早々、卒業を間近にひかえての進路相談の面談で、ゼミ担任の印南喬教授は私にいきなりの先制パンチをあびせかけたのです.。

早稲田大学文学部演劇科での五年間、ほとんど無為に過ごした学生時代だったんですが、なんとなく映画界に進みたいという志向だけは持ちつづけ、できれば映画監督かシナリオライターにと、仲間達とシナリオの同人誌を作り何本かの作品を書いたりもしました。

「早稲田演劇」という雑誌があって、毎年一度「戯曲」「シナリオ」「ラジオドラマ」の三部門の懸賞募集があり、応募投稿したのがどういうわけか最優秀に選ばれたこともシナリオライター志向をより強めるきっかけになりました。

「青春の谷間」といういささか甘い青春ドラマでしたが、

表彰式で審査員の一人でもあった印南教授の作品評は

「この作品はいますぐ日活で石原裕次郎主演で映画化出来そうな内容です」というコメント。

一瞬ほくそえんだのですが、そのあとの台詞が「本当はこんなプロ的なものより学生らしい新鮮でアカデミックな作品を求めていたんですが」。

~つづく~