ゴルフといえば鋭ちゃんとはゴルフ番組で七年近く共演しました。

「ゴルフ丼」というサンテレビでの番組ですが、数あるゴルフ番組の中でもちょっと毛色の変わった番組なのが人気になって、もう終了してから十年以上にもなるのにいまでも「鋭ちゃんとのゴルフ番組面白かったですな。またやってください」なんていってくれる人もいます。

最初は「ゴルフ善哉」というタイトルで、私と中村鋭一とが毎回ゴルフ好きのゲストを招いてプレーとトークというシンプルな内容だったのですが、もう少し趣向のあるものにしようということで、私と鋭ちゃんの対抗戦にしてそれぞれのチームに一人か二人づつのゲストが助っ人として加わって、一人が何ホールかを受け持ち、そのトータルスコアーで勝ち負けをきめるという趣向で、タイトルを「ゴルフ丼」と名づけました。丼のようにひとつの器に、多彩なゴルフ好きのゲストという具が混ざり合って楽しく美味しい番組にしようという意図からです。この「ゴルフ丼」が何故面白かったのか。その一番の要素は鋭ちゃんも私もゴルフが下手だということです。

私も下手ですが鋭ちゃんは私に輪をかけた、それも3重くらいの輪をかけた腕苗です。(当人はさほどには思ってません。ましてゴルフ理論に関してはシングルクラスと自称しております。)

普通ゴルフ番組というのは出演者はプロ選手かあるいはシングルクラスの腕を持つ人が中心になって進めていくものなんですが、この番組はホスト役の二人共に典型的なアマチュアゴルファーです。

ゲストで出演してくれた上岡龍太郎がいいました。「いろんなゴルフ番組見て参考にしたりしてますが、この番組が日本一参考にならないゴルフ番組ですな」

正にその通りです。

結果は、中村、キダ両人はオンするどころか三球とも客席の椅子の中へ飛び込んだのでした。それでも壁面に当たったりして器具などを壊さなかっただけ我々もほっと胸をなでおろしたのです。

流石に岡本プロは、一球はわずか届かずでしたが二球は見事に舞台上のグリーンに乗りました。但し狛林氏の望んだホールインワンはなりませんでしたが・・・。

それにしても、まだ新人時代とはいえ岡本綾子があんなところでのゴルフをよく引き受けてくれたものだと、後で冷や汗かいたものでした。

「恐らく岡本綾子にとっても、あんなところでゴルフをしたなんて始めてのことと違うやろか」とのちに鋭ちゃんと話した時、彼曰く「あの生まれてはじめての経験が彼女を世界のアヤコにしたと思うね。いわば我々は世界のアヤコの生みの親みたいなもんや」。

マジでそう思ってるだけに幸せな人物であります。

けど、本番ではいやな顔もせずに楽しそうにそして真剣にABCホールの舞台のホールを狙ってショットを放ってくれた彼女の大ファンに、その後の私をさせてくれたことは確かです。

あとで聞いた話ですが、狛林氏は放送を見た上司から「なんという危険な非常識な番組を作ったんだ」と叱責を受けたそうです。

当時は「なんぞ面白い番組を作ったろやないか」といつも考えて、それを実現させてしまう職人みたいな人間が何人も居て、それを許して作らせる土壌が放送界にもあったんです。だから台本作りの我々も楽しい思いをしながら仕事が出来たんだと言うことです。

ゴルフに関しても二人はライバル同士です。二人とも正直言って腕前はイマイチです。要するに下手なりの好敵手で、お互いが「彼よりはうまい」と信じております。番組で二人を競い合わせようということになりました。

行司役に当時売り出し始めていた岡本綾子プロを招いて、ABCホールの舞台いっぱいに人工芝でグリーンを作り、客席の奥の上段にティーショットの場所をこしらえて、そこからの100ヤード足らずのニアピン競技をすることになったのです。

岡本プロはともかく、二人の腕ではどこへ飛ぶか見当がつきません。ホールの壁面には照明やら電光表示やらが取り付けられています。

「これはちょっとやばいかも・・」と思ったのですが、「おもろいがな、二人のゴルフもさることながら、今売り出しの岡本綾子がABCホールでホールインワンでもしてくれたら前代未聞の話題になりまっせ」と強行を決めたのが狛林利男プロデューサーです。

狛林氏といえば、ラジオ時代から上方の演芸に関しては第一人者ともいえる朝日放送の名プロデューサーで、私が構成に関った「和朗亭」とか「浪花なんでも三枝と枝雀」といったユニークな演芸番組も狛林氏の発案、制作で誕生したものです。

いろんな番組を作ってきましたが、狛林プロデューサーと一緒になって作った番組ほど忘れられない楽しい番組はなかったといえます。

退職後「ワッハ上方」の館長を勤められたりしましたが、上方演芸の最適のご意見番としてもう少し長生きしてほしかった人物の一人です。

その狛林プロデューサーの一言で、ABCホールでの岡本綾子、中村鋭一、キダタローの三人によるニアピン競技が実現したのです。

その鋭ちゃんとのつきあいは、彼が朝日放送を離れてフリーアナウンサーになってから作られた「テレビショー鋭ちゃん」という番組の構成を受け持ったのが始まりだと思います。

中村鋭一をメインに据えた最初の番組ではないかと思いますが、相手役にキダ・タローを配して二人が毎回とんでもないことや、馬鹿馬鹿しいことに挑戦するという趣向で、漫画アニメの「トムとジェリー」みたいな役柄を二人にあてはめたわけです。

性格的に少々おっちょこちょいで、気分しだいですぐに人にのせられやすいという鋭ちゃんをキダ・タローがおだてたりたぶらかしたりして喜ぶという図式で、同い年で仲がいいけどライバル意識をもったこの二人のかみ合わせは結構面白く、私の仕事は「今度はどんな仕掛けで鋭ちゃんを踊らせてやろうか」と考えることでした。

タイガースファンの彼を騙して王子動物園の虎の檻の掃除をやらせてみたり、参議院議員として政治の薀蓄を語り、政治家達との付き合いを自慢する鋭ちゃんに、いきなり時の首相である田中角栄氏からの電話をつないで、直立不動でしどろもどろの応対をさせたあとでキダ・タローが「えらそうにいうても相手が田中角栄さんではそのざまですかいな。考えてみなはれ、田中首相がこんな番組に向こうから電話かけてくれるわけがおまへんやろ。今の角栄さんの声は声帯模写ですがな」とネタばらしをして鋭ちゃんを怒り狂わせたこともあります。

田中角栄の物真似では定評のあった田淵岩夫が楽屋の隅から電話していたのです。「難しい政治の話されたらどうしょうかいな思いました」とは田淵君の感想でした。

パーソナリティー、つまり喋り手の「個性」を前面に押し出したこの番組はそれまでのアナウンサーの常識を破って、中村鋭一の個性が十二分に発揮されたものでした。

タレント、芸人はともかく、それまでのアナウンサーの喋りと言うのは、いかに正しく、中立の立場で原稿を読むかが常識だったのです。

彼はまずその常識を破ってみずから阪神タイガースの大ファンであることを売り物にしました。タイガースの勝敗に一喜一憂し、「六甲おろし」を大声で歌いました。(本人は結構歌はうまいつもりですが、下手ではないが決してうまくはないんです)これで関西の阪神ファンをつかんだのです。

しかしいかに関西と言えど阪神ファンばかりではありません。それまでなら「そんな放送では巨人ファンや他チームのファンにダイヤルを合わせてもらえなくなる」ということで、アナウンサーたるものは好きなチームの応援にかたよった放送はしてはならないというのが不文律でした。ところがこの「タイガースに偏った放送」が逆に他チームのファンにも面白がって聴かれたのです。

建前で喋るのではなく、喜怒哀楽を素直に表し、少々慌て者で陽気で元気な彼の「個性」が効を奏したわけです。タイガースが勝った翌日、負けた翌日、いずれにしても「鋭ちゃんどんなこと喋りよるんやろ」とリスナー達が楽しみにし出したのです。

かくして「おはようパーソナリティー中村鋭一」は毎朝のラジオワイド番組ではダントツの人気を集めたのでした。

それ以来各局ともアナウンサーやタレント、或いは様々な分野からの出演者を起用して「パーソナリティー」としてワイドの帯番組を作るようになりました。私などもそのパーソナリティーとして起用された中の一人なわけです。


ラジオの音楽番組の案内役のことを「ディスクジョッキー」と呼びます。アメリカから輸入された呼び名ですが番組の形態そのものは日本で始まったものだそうです.NHKが戦前外国向けの放送で、レコードを流してその間をアナウンサーがトークで綴っていくというやりかた、これがアメリカでとりいれられて「ディスクジョッキー」という呼び名で戦後の日本に逆輸入されたんだそうです。

この場合のジョッキー(騎手)は原則的にはレコードの紹介役ですが、そうではなくて番組全体をトーク中心で進行していく「パーソナリティー番組」というのがあります。

現在のラジオ番組(特にAМラジオ)の大半はパーソナリティー番組でしめられていますが実はこの「パーソナリティー」という呼び名は純和製でして、その始まりは中村鋭一の「おはようパーソナリティー中村鋭一です」という番組なのです。

1971年(昭和46年)にはじまった朝日放送のこの番組はアナウンサーである中村鋭一を全編フリートークの進行役として起用し、これを「パーソナリティー」と名づけたわけです。誰が名づけたのか、まさに「云い得て妙」の呼び名です。

「中村鋭一とのこと」

参議院選挙がはじまりました。今回も多士済々・・と言えるかどうかは別として色んな顔ぶれの候補者が選挙戦に突入したようです。いわゆる「タレント候補」も何人か見当たります。私自身はタレント候補に関してはさほどの興味も関心もありません。まして明らかに票集めのためだけに出馬をしていると思える人物には疑問を抱かざるを得ません。

人気による得票だけが頼りと、与党野党を問わずそんな連中を公認したり推薦したりする見識のなさ、自信のなさには政治に対する不信感を助長させるだけではないかと思います。

その候補者に本当に政治に対する信念、意欲、資質があるのかどうか。大事なことは選挙に当選することではなく、そのあと、政治家としてどれだけのことが出来るかということなのは我々以上に本人達が分かっていなければいけないはずなんですが。

どうしても立候補というならせめて無所属で出馬してほしいものです。

そして当選したら本当に政治にたいして真剣に取り組んで「ああ、この人は本当に政治をやる気なんだ」と一票を投じた人たちの期待に応えてほしいのです。過去何人のタレント候補がそうだったでしょうか。

政党の「票寄せパンダ」にはなってほしくないのです。

前項の主人公の横山ノックも、そしてこれから私との関わりのエピソードを書こうとしている中村鋭一も「タレント候補」で「タレント議員」を長く勤めました。最初の立候補は共に政党には属さずに立候補した点ではまだ許せますし、その後何度か再選されたのは有権者にもある程度政治家として認められたんではないかと思います。

ただし、横山ノック同様中村鋭一についても私は政治家としてよりタレントとしての才をはるかに大きく評価します。

そんな中村鋭一、鋭ちゃんとの思い出を・・・

「また一緒にどこかへ旅行したいね」といつも言っていたノックさんがたった一人で帰らない旅に行ってしまうなんて信じられません。

一緒に旅したときの写真を引っ張り出して眺めています。家内がぽつんと言いました。「優しい人やったわね」。

カナダの旅行中に一日、体調を崩して、家内一人でホテルで横になっていることになりました。「あんたは「まあゆっくり寝とき」とさっさと見物に出かけたのにノックさんは「ママ、大丈夫か?なんぞ薬貰ってきまひょか」と親身に気遣ってくれて、帰りにはサンドイッチまで買ってきてくれて、あんたとどっちが旦那かと思ったくらいやった」と今まで何度も聞かされました。「女性には手当たりしだい優しいのがあの人の性分なんや」なんて言ったりしましたが、ほんとは女性に限らず全ての人に優しい人でした。

あんな事件で、知事の座は勿論あれだけの芸人としての存在を失ってしまったのが残念でなりません。しかし先日開かれた「横山ノックを天国に送る会」には千数百人もの人たちが集まったというのはその人徳が失われていなかった表れでしょう。

お通夜のときに会ったノックさんはおだたかできれいな顔でした。

「まあ、けっこうやりたいことやってきたからね、この辺でピリオド打ってもええかもしれまへんな、あとはゆっくり向こうで旨いもんでも食うて過ごしますわ。先生来るまでにええ店探しときまっさ」と語りかけてるようでした。

ま、そんなわけでカルガリーでレンタカーを借りました。両家の家族8人が乗り込める大きな車ですが荷物までは積み込むスペースがありません。屋根に積もうということになったんですが縛るロープが無い。

「ロープ買いにいきまひょ」「どこに売ってるんですか」「まかしときなはれ」とノックさんが探し出したのが電気屋でした。「太目の電気コード、これがいちばん丈夫やねん」「成程、そんなことよう気がつきますな」「これも進駐軍時代の経験ですわ」

とにかくその行動力には感心させられます。朝早くに部屋に電話がかかってきます。「先生、近所にうまそうなパンケーキの店見つけましたんや、行きまひょ」。寒いカルガリーの街でいつのまにかそんな店探し出して来ているんです。

バンフまでの道は高速道路並の快適なドライブでした。雪につつまれたカナディアンロッキーの山あいを走ります。

我々の行く半年ほど前にコメディー№1の前田五郎が同じようにレンタカーで走って、スリップで重傷を負う事故の現場も確認しました。「パパ、お願いやからもうちょっとスピード落としてちょうだい」と横から奥さんがうるさく注意するんですが結構ノックさんの運転は荒っぽくはないんですがダイナミックです。ときどき野生の鹿だのんびりと道路を横断したりなんかしています。随所に鹿の絵がかかれた標識が立っています。「この辺は鹿が多いみたいですな。気いつけんと、あんな大きなのにぶつかったらたまりませんで」「イエス、しかと了解」てなこといいながらバンフへ向けて一直線のドライブは今でも忘れられない楽しい旅でした。

ようやくノックさんのことについて書く気になってきました。やたらノックさんの思い出の部分が長くなってしまいそうです。しょうがないですな、新聞やら雑誌やらから取材をされて話しているうちに彼との思い出がつぎつぎに思い出されてきたのです。

一緒に方々へ旅行をしました。その一番最初がカナダだったと思います。もう30年以上前になりますが、どういうはずみか我が家の家族4人とノックさんの家族4人での旅行でした。

いつの場合でもそうなんですが、道中のコーディネートは殆んどやってくれます。当時「変な外人」といわれて冷蔵庫のコマーシャルで売れたウイックリーというカナダ人がいました。ノックさんと親しくて、かれが向こうでのスケデュール

なんかを手配したりしてくれたんですが、当方はいわれるままのお任せ旅行でした。

バンクバーからカルガリー経由でバンフへ行って再びバンクーバーへという7日間ぐらいの旅でしたが実に楽しいものでした。

特に思い出に残っているのはカルガリーからバンフまでカナディアンロッキーの山あい数百キロをレンタカーで走ったことです。

まずカルガリーの町でレンタカーを借りました。借りる交渉もすべてノックさん。ご存知の方も多いと思いますが芸界に入る前は進駐軍で働いていましたから多少は英語が喋れます。といっても全くのブロークンです。娘さんのけいこちゃんがカナディアンかなんかの外国語学校へ行ってましたから彼女のほうがはるかに会話は確かなはずです。「パパの英語聞いてたらはらはらする」というんですが不思議なことに私が聞いていてもはらはらする英語が十分に通用するんです。17歳から進駐軍のなかでしゃにむに働いて体で覚えた会話です。これはすごいもんです。

とにかくその気になってやったらはたが危なっかしいと思うようなことでもやってみる、芸界でも政界でもそんなスタイルでやってきた彼のバイタリティーは恐らく進駐軍時代に培われたものだと思います。