ところが当然のことなんでしょうが、融資について銀行側はやれ担保だの保証人だのいろんな書類を作らんといかんといってきます。

のちに、まるで米搗きばったのように銀行相手に頭を下げて融資を頼み込む日が来るとは思ってもいませんでした。

「そんなややこしい手続きがいるのならもうええわ」と思っていた矢先、かねてから営業に訪れていたF銀行のK君という青年がこの話をきいて「うちでなんとかさせてもらえますか」と言い出しました。

「いくらご入用ですか?」

「ざっと千五百万ほどや。いうとくけど担保やの保証人やのとややこしいのは無しでっせ。みの源の信用で貸してくれいうことですわ」

「わかりました。帰って上司、支店長と相談してきます。きっといい返事もってきます」

長年の付き合いのS銀行があれだけ七面倒なことをいうのに殆んど取引もないF銀行が担保もなしで貸すわけがないわと思っていましたが数日後に持ってきた返事は「オーケーです。百何十年の老舗のみの源さんが大改築なさる、それに当行がお手伝いできるというのは名誉なことです。但しうちも銀行ですから担保は預からせてもらいます。といいましても土地や建物ではございません。担保はみの源さんの暖簾です。ややこしい書類は後で結構です。いつご入用ですか、いつでもすぐにお届けします」でした。

「船場の商人は誰からであろうと暖簾担保で金貸して貰えなんだらあきまへん、それが信用というもんや」といつも言っていた親父の言葉がこれなんや、銀行かて人の集まりや、わしがぶっちゃけて頼んだら話が通じるんやと思いました。

その信用が何代にもわたっての船場商人の先人たちが築いたものだということを忘れ、自分の力と錯覚したのは私もまだまだ若かったんですな。

店も新しくなり、同時に商売の方も順調に伸び、多少は私も親父の前で大きな顔が出来るようになったと思いはじめました。

その大改築が数年後にビルの建設にまでエスカレートしたきっかけは親父の死です。

平成元年十月三十日、みの源四代目の当主瀧内源蔵が世を去りました。

典型的な船場商人で、厳格を絵に描いたような父親。同時に商人としてのあり方を徹底的に仕込んでくれた父親でした。

良い意味でも悪い意味でも私には親父の生き方がどっぷり受け継がれているように思われます。

生き方と一緒に財産も相続することになりました。

平成元年といいますとバブルの最盛期です。預貯金以外に個人名義の土地の評価額も高く、一億五千万に近い相続税がかかってきました。50%の母の無税額の残りは私が家業を継ぐということですべて相続、相続税も負担することで、すでに嫁いでいた姉と家業を助けてくれていた弟の了承も得ました。

名実ともに私が「みの源」の五代目当主となったわけです。

「親父から受け継いだこの暖簾、汚さんように、守って広げていかんと」

親父を失った悲しみの反面心地よい責任感の中で決意したものでした。  (つづく)


第一章 「船場のど真ん中にビルはどうですか?」

私の家業は酒販店でした。平とう言えば酒の小売屋。 天保八年に初代が美濃の国から出てきてこの船場に「みの源」という店を開いてからほぼ百七十年、私が五代目の主ということになります。

ちなみに、船場というのはどれだけの地域を指すのかと申しますと、大阪市内のほぼ中心、東は東横堀川、西は西横堀川、南は長堀川、北が土佐堀、今はほとんどが埋め立てられて駐車場になったり高速道路が走ったりしてその名残もみられませんが、これらの川に囲まれた、わずか東西一キロ、南北二キロの区画でして、本町通りを境に南船場、北船場に分かれ、御堂筋が東と西に船場を分けています。  

まあ歩いても一時間あまりで一周出来るくらいの町です。けどこの狭い町に、かっては大阪商人のエキスが全部詰まっていたんです。

豊臣秀吉が大阪城の築城と共に、三の丸の東横堀から西の地域に堺、平野、近江などから商人をあつめて城下町を作ったのが始まりで、いまでも本町の近所に「太閤堀」てな名前の区画があります。

豊臣家の滅亡の際に殆んど焼け野原となったんですが、江戸に入って再び四散した商人たちが全国から集められ三代将軍家光の頃にはあらゆる税が免除され、そのために全国の富の八割がこの小さな町に集まったといわれています。

秀吉びいきの大阪商人たちの徳川家に対する反感を和らげるための施策だったそうですが、人工の川や堀がはりめぐらされ、商売の船が往来し、そこから「船場」の名がついたとされています。 

今でもその名残が多少は残っていますが、かつては北浜の証券街、今橋、高麗橋の銀行街、堺筋、御堂筋のオフィス街、道修町は薬屋の町、繊維関係は丼池筋、南久宝寺町には化粧小間物の店など、代表的な問屋街が集まった町でした。

「みの源」は本町通りから一筋北の安土町の通りに面した、船場のど真ん中に店を構えてました。

近所には丸紅やら伊藤忠といったこの地が出生の会社の大きなビルが立ち並んでます。

そんなビルのはざまでのわずか60坪あまりがうちの店です。

それでもあの昭和の終わりごろのバブル期には坪当たりの値段が5千万とも6千万ともいわれてましたから、今から考えたらあのときに売り飛ばしてたら今頃こんなつらい思いもせず左団扇で暮らせたものを、と思ったりもします。

勿論当時はそんなことは微塵も思いませんし、そんなこと冗談にでも言おうもんなら即座に勘当、どころか親父の手で打ち首にされたでしょう。


「わしの目の黒いうちはこの土地は絶対に離れへんで。いまどきのはやりのビルに建て替えもせん。わしはこの地、この家で死にたいんや、百年以上も続いてきたみの源の暖簾を守るのがわしの務めやさかいな」といいつづけていた親父でしたから。

根っからの船場商人だった親父は、戦時中は兵隊にとられて店は休業状態でしたが戦後シベリアから復員して、焼け野原になっていた船場でバラック建てから家業を再開して、見事に四代目として「みの源」を再興させました。

「ええか、商売は真心と辛抱が第一やで、お客さんや取引相手とは誠心誠意、心でのお付き合い、夜店の商いはしたらあきまへん」

小さいときから耳にたこが出来るほど言い聞かされてきた商人の心得です。

「夜店の商いというのは、その場限りの、その日だけその場所で儲けたらよいという商売や。いつまでも辛抱して同じ場所で、同じお客さんと末永う付き合いをするのがほんまの商売や」。

私に安心して五代目「みの源」の暖簾を継がせるべく親父は徹底的に商売の道を教え込んできました。

五代目を継ぐころには私の身体には親父の教えがぎっしり詰め込まれていたんです。


我が家では、というより船場では当主の権限は絶対です。旦さん(旦那さん)が「黒や」というたらどんな白いものでも家族従業員全部が「黒や」と思わんといかんのです。

二十歳代から後継ぎの「若ボン」として殆んど店のことは任されていた私でも肝心な決め事に関しては親父の言いなりでした。

ただ私としては、ビルとまではいかないまでも、60坪の土地をもうすこし活用させたいと思い、店舗改築、拡充を計画したこともあります。これは親父の反対もなく、その資金調達のため長年の取引のあるS銀行に融資の相談をしました。

それまで銀行から金など借りたこともなく、商売も順調、「金が要るねん」といえばツーカーで貸してくれるもんやと思ってましたし、かねがね親父も「銀行てなとこは金を貸すのが商売や。借りてくれる人はお客さん。うちが酒買うてくれはるお客さんにえらそうに七面倒なこと要求したら帰ってしまわはる。わてらが銀行に頭さげるのは預けた金に利子つけて返してくれはったときや」というのが持論でした。

酒買うのと金借りるのとでは多少事情は違いますが、理屈としては通っているように思います。


「飛んでしまった」と言う言葉を大阪弁でいうと「飛んでもうた」となります。この「飛んでもうた」がこれから書こうとする物語のタイトルです。あまりゲンのいい使い方の言葉ではありません。[飛んでもうた」というのは商売でへまをしたり何かで生活に破綻をきたした人が人知れず行方をくらましてしまうことです。また事業で倒産してしまったりすることも「飛んでしまう」といいます。

[○○さんしばらく見んけどどないしてるんやろ」「え?知らんのかいな商売で仰山借金こさえてとうとう飛んでもうたがな」といった具合です。

この物語は十年前のバブル崩壊の波に呑まれて正に飛んでしまったある老舗船場商人の実録です。

大阪の経済の象徴でもあった船場は今はすっかり様変わりしています。商都大阪の現在の地盤沈下を如実に物語っているのが船場商人の消失ともいえると思います。

主人公は私の二十年来の友人です。飛んでしまうに至った顛末やエピソードをメモにして、あるいは直接語ってくれました。当人の独白の形で伝えていこうとおもいます。


              「飛んでもうた」(船場商人倒産記)



プロローグ。「わが町船場を去る日」

「倒産」「破産」。そんなものは他人のことやと思ってました。

しばしば耳にするいろんな企業の倒産なども「それは経営がずさんやさかいや、真面目な商売さえしてたら会社なんかつぶれるかいな」と他人事に思いながらながめておりました。

ましてや、天保年間から五代百七十年も続いてこの大阪船場で店を張ってきた老舗「みの源」がつぶれるやなんて、こんな夜逃げ同然に船場の地を出て行く日が来るやなんて、夢にも思っていませんでした。債権者や借金取りの連中にわからんように、とりあえず身の回りの物だけ持ってしかるべきとこへ。「夜逃げ同然」どころかまさに夜逃げですわ。

口惜しさ、情けなさ、後悔、みんないりまじって、窓からみおろす船場の町がぼーっと曇って見えたのは、いつしかにじんできた涙のせいかもしれません。

ようやく暮れなずんできた安土町の通りはそれでもまだ車の往来も仰山で、店の前の市営駐車場から出てくる車のクラクションが私に向かって「アホー」と呼びかけてるんです。

たしかにアホなことになってしまいました。

「時代の波にながされて」と言うてしまえば一言ですし、なんとなく格好ええみたいですがそんなもんやありません。

私自身の経営の甘さ、時の趨勢を見る目のなさを痛感すると同時に、今日にいたるまでの私を取り巻く様々な状況と、その中でのいろんな人たちとの関わりなどが走馬灯のように頭の中をかけめぐるんです。

信頼と裏切り、謙虚さと思い上がり、賞賛と怨嗟、愛情と憎悪、人の心の表裏をこの倒産劇の舞台のなかで思いっきり見せてもらいました。

そんなエピソードをいまから思いつくままにお話してみようと思います。

「旦那さん、晩御飯どないしはりますか」背中から妻が声をかけてきました。

古臭い呼び方ですが妻は私のことをずっと「旦那さん」と呼んでいます。

今でも船場の旧家ではそう呼んでいるとこが多いみたいです。

谷崎潤一郎さんの「細雪」なんかでご存知でしょうが娘さんのことを「とうさん」と呼ぶのも船場の言葉です。私も一両日のうちには嫁いだ娘のもとに身を寄せることになってます。

「倒産してとうさんのとこに厄介になるわけか。しゃれにもならんな」というと妻は笑いながら目頭をおさえました。

「しもた、しょうもないこというてしもた」。

慌てて「そや、今夜はどこぞその辺へうまいものでも食べにいこか、船場もこれで見納めになるかもしれんしな」というと妻が淋しげに答えました。

「いえ、見納めやおません。住み納めです」

こんどは私の胸がぐっときました。生まれ育って五十五年、町の全部が自分の家みたいに暮らしてきた船場に住み納めの日が来たんです。またクラクションが「アホ!」と鳴りました。

「わかっとるわい。けどな、アホはアホなりに必死こいて頑張って来たんじゃ」と言い返してやろうと思いましたが、よう考えたら「必死こいてもアホはアホ」で終わってしまったわけです。

忘れもしません、平成十一年七月十四日梅雨がまだ明けきらん蒸し暑い日でした。

                                     (つづく)

明日は母の日。家内は東京に住む息子夫婦からの恒例の花の鉢が届くのを心待ちにしています。

先日金田一春彦著の「ことばの歳時記」という本を読んで面白いことを知りました。

「お母さん」という言葉は今では標準語というか共通語として定着しているがこの「お母さん」という言葉が生まれたのはそんなに古い時代ではなく明治三十年頃なんだそうです。その頃作られた文部省の国語の教科書ではじめて使われたそうです。当時東京では士族階級では「おかかさま」町人階級では「おっかさん」とよぶのが普通だったそうでその中間をとって「お母さん」という共通語(標準語)が作られたわけで「お母さん」はそんなに古い歴史をもった呼び方ではないんです。

もともとは上流の家庭で主婦や女主人を「北の方」と呼びました。北の政所などが有名ですが、その北の方の「方」に「お」をつけて「お方様」と呼んだのがおかかさまやおっかさんになったんだとか。

時代劇で子供が「お母さん」なんて呼んでいたりするのは嘘だということになりますな。

そこで[母」についてちょっと調べてみました。

「母」という言葉は本来の意味のほかに「何かを生み出した基のもの」という意味があって、「母なる大地」「母なる川」といったりすることはよくありますが「父なる大地」「父なる川」というのは聞いたことがない。「母国」「母校」「母音」「母屋」「母体]「酵母」これらはいずれも「父」に置き換えた表現はありません。

出身が男子校なら「父校」のほうが正しいというのは屁理屈ですかね。

もっとも学校という名詞はフランス語では女性名詞だそうです。でも国は男性名詞ですから母国より父国のほうが正しいといえます。

要するに子供をはじめ何かを生み出すのは母であって父はその手伝いをするだけなんですな。

ひょっとしたら手伝いしたつもりでも本当は別の男が手伝っていたのかもしれない、知っているのは母親だけなんてことも・・・。[母は強し」なんてことを実感させられました。

土谷多恵子のRADIO DAYS


「アメリカへの片道切符」 ONE WAY TICKET TO AMERICA

4月1日に文芸社から出版しました本


19歳でアメリカ男性と恋に落ち、家を捨てて駆け落ちした里美という日本女性の、
アメリカでの恋の遍歴と仕事での浮き沈み・・・・・・・・。
里美のアメリカでの40年を綴った、「人生のドキュメンタリー小説」です。


価格は1500円+75円です。


紀伊国屋、ジュンク堂など全国の各書店はじめ、
アマゾン、楽天ブックスなどネットでも購入も出来ますので、
是非ご一読ください。

このところある女性の伝記の執筆に追われています。

アメリカのミネソタ州ミネアポリスに住む日本人女性なんですが、静岡の裕福な家に生まれ育った十九歳のときに、ホームステイのアメリカ青年と恋に落ち、家出をして独りでアメリカに渡りました。結婚生活6年で夫は麻薬に溺れ離婚。その後マフィアの男に殺されそうになったり、新しい夫と始めた事業も騙されて倒産。50歳の半ばの今は成功してミネトンカの湖畔に豪邸を、フロリダやモンタナ州にも別荘を持つ身分ですが、その波乱の40年にわたるアメリカでの人生を綴っています。

春には、といってももう暦では春ですが、完成の予定です。出版の節は是非読んでみてください。

ところで、この物語を書いていくうちに「失敗したな」と感じることがあるのです。

というのは、最近の習慣でワープロを使って書き始めたんですが、どうもワープロで書いた文章は、読み返してみるとどこか「よそよそしい」のです。

本書きというのは、自分が書こうとする世界に自分自身を置きます。書いているうちにストーリの中の人物になって喋ったり行動したりして、それがごく自然にペン先を走らせてしまうのです。

ところがワープロで文章を作るとなかなかストーリーの中に自分を没入させることが出来ないのです。大きな原因のひとつは私の技術の拙さゆえなんですが、ブラインドタッチが出来ないものですから、文章よりもキーボードを見ている時間のほうが長いのです。

もうひとつは漢字変換です。変換のたびに幾つか並んだ漢字のなかから正しい漢字を選び出す作業をしないといけません。そのたびに「我に返ってしまう」のです。物語の世界から、単に機械を操作するという現実に引き戻されるのです。

こうして出来上がった物語の中には、作者である自分の存在が非常に希薄になっているのです。

ある人は「ワープロで打った文章は流れてしまう」といいますが、私の場合は「途切れてしまう」のであります。

パソコン使用は事務的な文章か、せいぜいこのブログ程度のものに限りますな。

大阪の地盤沈下が叫ばれて久しくなります。一番大きな原因は大阪が「商業の町」というアイデンティティーをなくしてしまったことです。

先日所用で船場界隈を歩くとになったのですが、その様変わりをみて実感しました。

船場というところは昔から大阪商人の拠点だったところです。商売の町大阪の象徴でした。

大手の企業も、もともと船場を基点に全国へ伸びていったところが数多くあります。

豊臣秀吉が大阪城築城の際に今の地に、堺、平野などの近郷から商人たちを集めて商人の拠点にしたのが始まりで、大阪落城と共に離散したのですが、江戸時代になって秀吉を慕う大阪人をなだめる政策として「船場」が復興されました。近江、岐阜をはじめ全国から商売人が集まり、税も免除され、全国の富の大半が、わずか面積8平方キロのこの船場に集まるほどの繁盛を遂げた町となったのです。

明治になって「廃藩置県」で大名がなくなり、各藩に用立てていた融資がいわば不良債権になってしまった大阪商人が次々に倒れ、船場によって支えられてきた大阪が衰退の危機に見舞われました。

その時に登場した救世主が五代友厚です。薩摩藩士で、明治政府に入ることを勧められたのを断って「我大阪の土にならん」と大阪の復興に力を注ぎました。

初代大阪商工会議所会頭となり、造幣局の開局をはじめ、江戸時代の諸藩の蔵屋敷に紡績、鉄工などの工場を誘致し、大阪の財政の基盤を作ることに成功したのです。そして船場を中心とする商人の町、煙の町大阪が甦ったのです。

橋下新知事、平松新市長ご両人に是非お願いしたいのは、共に平成の五代友厚を目指してほしいことです。「福祉、教育を手厚く」といった政策も大いに結構ですが、何をするにも財政が逼迫状態では絵に描いた餅で終わってしまいます。

5兆円にも上る赤字借金をなくすには「無駄をなくして」程度では追いつきません。大阪を「お金の入る儲かる町」にしないといけないのです。大阪を見限って東京なんぞへ行ってしまった、本来の大阪商人の企業を呼び戻せるような策を講じてもらうとか、きれいごとの政策は選挙の時だけにして、是非「大阪の土」になっていただきたいものであります。


「放送の世界を旅して」をひとまず終了して休筆してたのは、一つは何を書いたらいいのかいいのか分らなかったことがあります。日記を書く習慣のない私には自分の身辺雑記を他人様にお知らせするのは面映いし、それほど刺激的な毎日を送っているわけでもありませんので・・。

もう一つは、今ある原稿に追われていることが理由です。それはアメリカミネソタ州に住むある日本人女性の半生記です。静岡の裕福な家庭に育ちながら19歳でアメリカ人と恋に落ちて親からは許されずに家出をしてアメリカミネソタ州に行きそこから波乱の人生を送ってきた女性です。最初の男性はベトナム戦争のとき反戦運動に参加、マリファナに溺れ離婚。次の男性はマフィアがらみの男で、別れ話の口論から殺されそうになり、それでもアメリカで無一文の中からビルのトイレ掃除までして頑張って今の夫と事業を起こし、成功を収めた・・・という女性です。

年明けには出来上がって出版の方向です。その節は読んでみてください。


というわけで何かこの欄のネタが・・と思っていた時大阪市長にアナウンサー時代に付き合いのあった平松邦夫氏が選ばれました。そして今度は橋下徹氏が立候補。もし当選したら大阪も少しは変わるかも、但し良い方向にかわるかどうかはわかりませんが、面白いなと思います。

とにかく近年の大阪のどうしょうもなさは情けないの極みです。大阪の地盤沈下の最大の原因はかっての「商都」といわれたアイデンティティーをまったく失った、というか放棄してしまったことです。

その象徴が「商人の町船場」の消滅です。かっては大阪の商業の中心だった船場に大阪商人がいなくなっています。変貌をとげた船場で何百年も前からの老舗が次々に姿を消していきました。そんな中のある老舗の倒産劇を語ってくれた友人がいます。あのバブルの時代の波に呑み込まれ流された一人の船場商人の回顧録を綴っていくことにしました。今の大阪を考えるよすがになればと思っています。




「日本一参考にならないゴルフ番組」の面目躍如たるところでして、そんな我々につられて錚々たる腕に覚えのあるゲストたちが信じられないようなミスショットを連発したりするのです。

「上手なところを見せる番組ではない。どんな下手でも真面目にやればゴルフは楽しいものだ」というのがコンセプトですからどんなミスショットをしようが「撮り直し」はしないという約束になっていました。そこで鋭ちゃんの1ホールで「21オン2パッと」という記録的なスコアーが放映されたわけです。

伊勢湾カントリーだったと思いますが、グリーンの手前が100ヤード余りの池越えになっています。打てども打てどもボールは池の中へ。確か10発ぐらいは放り込んだと思います。一打放り込むごとに一ペナルティーがつきますからやっとグリーンに乗ったのが21打目でした。

後のゲストの連中はみんな横にすわりこんで「五つ、六つ・・・」と数えたり、中には「弁当食べようか」なんて言い出す始末(たしか春やす子ちゃんかレッツゴーじゅんちゃんだったと思います)。

あるゴルフクラブのクラブチャンピオンにもなった人がカメラの前で緊張したせいでしょう、ミスの連続で、「頼むからもう一度打たせてもらえませんか。これが放送されたらクラブの連中がみて何を言うかわかりませんので」と泣きつかれたこともありました。

そのときのもう一人のゲストが口の悪さが売り物のキダタローで、ミスをする度に「お宅ほんまにクラブチャンピオンでっか」なんていうもんですから余計に頭に血が上ったんでしょう。

「この番組は世のアマチュアゴルファーに安心と希望を与える番組です」というのが売り物でした。沢山居る下手な人たちに「ああ、俺よりもっと下手でもゴルフは楽しめるんだ」と思ってもらう番組というのが負け惜しみも混じった我々の理屈だったのです。

かっては私もシングルを目指したこともありました。目指したことは目指しましたが生来の練習嫌い、打ちっぱなしの練習場に行ってもものの100発も打ったらもう飽きてくるタイプ。2,3発いいあたりが出ると「よし、これでわかった」とすぐに目からうろこがおちます。

練習場にはこういう手合いが沢山います。何発かナイスショットが出たとたんに目からうろこがおちた気になるんです。練習場へ行って打席のまわりを見回してみてください、「よっしゃ、わかった」の声とそんな人たちの落としたうろこが一杯ちらばってます。そしてその落としたはずのうろこが本番のゴルフコースへ出たとたんにまた目に張り付いてしまってるんです。

そんなことのくりかえしで、、それでもオフィシャルハンデは17までいったんですが、いつのまにかシングルへの望みは自ら消してしまいました。

ゴルフがうまくなるにはまず基礎的な体力、そしてたゆまぬ練習と努力(どんなスポーツについてもいえることですが)そして場数をふむこと、ゴルフに関するセンス、これらがそろってないとシングルクラス入りは無理です。

失礼ながら鋭ちゃんには、いえ私にもこれらの条件が殆んど欠けてます。ただ鋭ちゃんは、どこで仕入れたのかゴルフに関しての理屈だけは人一倍で、「球聖ボビージョーンズ曰く」だの「○○のコンパクト打法はトップスイングでどうの・・」とかの御託をプロやシングルクラスのゲストの前で臆面も無く披瀝してそのあとのショットは見事に30ヤードのてんぷらという具合。

そのせいにするわけではないがどいうわけか私もつられてミスショットを打ってしまうんです。特に池越えのホールになると鋭ちゃんが大きな声で

「池だ!いくぞー」とさけぶのです。きっちりボールが池の中に吸い込まれていきます。