親父はまだ元気でしたがその当時「酒有連」という全国の酒屋が参加して贈答品の全国配送システムや、のちには共同卸しや共同発送も行うようになったいわば販売促進のための連盟を立ち上げ、その仕事に手をとられはじめたこともあって私に「みの源」を任せる気になったのでしょう。

「わかりました、お父さんから受け継いだ商売の道、しっかり守って頑張ってみます」

生粋の船場商人の父から跡継ぎとして信頼されたうれしさで胸がいっぱいでした。

「みの源五代目」が誕生したわけです。

若さもあったんでしょう「よっしゃ、せっかく五代目継いだからには親父の敷いたレール伸ばして広げたろやないか」と闘志が湧きました。

まず目標を立てました。それはそれまでの年商五千万円の年商を二倍の一億円に引き上げることでした。それにはどうするか。既存のお得意さんを守ることは勿論ですが新規の顧客の獲得です。


それまでは親父があまり好まなかったこともあって付き合いの少なかった飲食店、居酒屋、ミナミやキタのクラブ、バー、スナックなどへも積極的に売り込みを始めました。

この業界が一番お酒を必要とするお客やというのは誰が考えても分かることです。

その代り「水商売」といわれるくらいですから浮き沈みも激しく、移り気で、顧客として長い取引の出来る保証も薄く、おまけにいわゆる「掛けだおれ」の危険性も少なくありません。

今までの固いお得意様とは違う接し方をせんといかんわけです。

「価格割引などのサービスならどこでもやることや。価格以外の徹底的なサービスと信用を酒と一緒に買うて貰おう。親父に教えられてきた「心を買うて貰う」というやつや」と考えました。

ただ、サービスというてもいろんな形があります。

具体的にはどうするか。例えば、

一、年中無休の営業で、注文の多少を問わず夜間でも配達をする。

一、取引以外でのお手伝い。

  特に飲食店では「お店の買い物」「店の引越し、時には自宅の引越しの手伝い」「開店移転

  の挨拶文やチラシの作成」「厨房やカウンター内の冷蔵庫内の整理清掃、水の交換」「お客

  さんの紹介」「同業界の色んな情報の提供」などです。


一、お得意様への営業はきちんとした服装で、正しい挨拶と言葉使いで接する

といったことです。

例えばクラブやスナックなどでは、店の鍵を預かって夕刻の開店までに足りない分を補充し冷蔵庫を整理、おつまみやつきだしなどを揃えておくんです。これはどこの店からもよろこばれました。

昼間に泥棒に店内を荒らされているのをいち早く発見して警察に届けた、なんてこともありました。

ずいぶん後のことになりますがあの阪神大震災の日なども、朝自分の店の安全を確認したあとはすぐに従業員を手分けして得意先各店の点検に走らせ、すぐに「今お店の様子みさせてもらいました。これこれの被害で済んでましたんで整理と補充させてもらいました」という連絡をオーナー宅に入れたりしてあとでずいぶん感謝のご挨拶を頂いたもんでした。

新装開店のお店には、酒類を取り揃えるのは勿論のこと、案内状の作成からお客さんの送り込みまでお手伝いをするんです。

そのために費やす労力や手間賃人件費などを考えたら酒の値段を割引したほうが得かもしれませんが「みの源さんとこから買うていれば楽やし便利やわ」と思ってもらえたほうが長い目で見れば店の利益につながると信じていました

第三章 「捨てる神あれど同じ数の拾う神はなし」

話は戻りますが、みの源のお得意様というと親父の代までは、船場界隈の繊維問屋、商店、商社、銀行などが殆どでした。

そういったところの普段の賄い用、正月や祭日、各店の行事のときの酒類を買うて頂くわけです。永「年のおつきあいで「酒はみの源から」と決めて頂いてるんです。

あとは新しく近所にこられた会社などに訪問しお得意様になって貰うぐらいで、そんなにガツガツとお客の獲得に走り回らなくても充分に商売は成り立っておりました。

酒の値段も正価で、売る方も買う方もそれが当たり前と思っていた良い時代やったんです。

真面目にお得意様大切にさえやって居ればそれなりに儲けさせて貰ってました。

「そろそろこのへんでお前に店任せようと思うねんけどな」

と親父が切り出したのは、私が大学を出てまだ一年余りしかたたない二四歳のときでした。

「え?そんな。まだ早いのと違いますか。たった一年ぐらいの修業から帰ってきたばっかりやのに」

大学を出てすぐに熊本にある大手の酒屋さんに修業勤めをさせられました。

いわゆる「他人の飯」を食べてきたんです。

牛島商店という酒屋さんでしたが、ずいぶん温かくそして厳しく私に酒屋の商売の実地面を仕込んでくれました。

後に親父の後をついで全国の酒屋さんの子弟を預かって修行のお手伝いをさせてもらうようになった時にも牛島さんでの修行が役に立ちました。 あの一年間の修業が後の私の商売の大きな肥やしになったのです。とはいえほんの一年間です。

「たしかに他人の飯食ったのはほんの一年やけどお前には小さい時からいろんな商売の道は教え込んできたつもりや。そろそろ任せてもなんとかやっていってくれるやろ」


「そら、お父さんがここまでレール敷いてくれてはるんやさかい」

「アホ、わしの敷いたレールの上走るだけなら誰でもできる。そのレールをどれだけ伸ばすかを期待して店譲るんやないか」

伸ばすどころか、そのレールを私が廃線にまでしてしまうなんて、親父は露ほども思っていなかったでしょう。勿論私自身も。

そしてついに平成十一年七月十一日、倒産、そして同時に個人破産を決意しました。

倒産に至るまでのくわしい道のりはこのあとお話していこうと思いますがとにかく弁護士の手続きで倒産を知らされた銀行はすぐさま駆けつけて来ました。

そのときのS銀行の担当係長の言葉も終生忘れられません。

七階の会議室の椅子にそっくりかえってあごをつきだし、完全に私を見下しながらの第一声が「急なことでしたな。なんとかならなかったんですか」でした。

けっして急なことやない、少し前から「みの源さんもそろそろ傷口を広げんうちに幕を引かれてはどうですか」などと進言してきたのはどこの誰やったのか

「なんともならんさかいに倒産しますんやがな。好きなだけ借りてくださいてな口車にのせて貸しといて、こっちの調子が悪うなったとたんに手のひらかえすような非協力な仕打ちで、いまさら無責任に「なんとかならなんだのですか」はないのと違うか。こうなった責任はお宅にもあるのと違うか」と言いかけたのをぐっと呑み込みました。

なにをいうても非のあるのはこちら。負け犬の遠吠えになると思ったからです。

「これからどうされす?」

「どないしたらええのかまだ何にも考えてまへん。というより考えるすべがわかりまへんのや」

「ごもっともですな。うちの他にも債権は抱えておられますか?」

「そんなことご存知ですやろ。お宅だけの借金やったら倒産や個人破産まですることはおまへんやないか」

「それでしたらしばらくは身を隠されたほうが得策だと思いますが、当てはあるんですか?勿論銀行は手荒いことはしませんがノンバンク辺りの取立ては厳しいですからね。倒産したからってはいそうですかではすませてくれまません。社長は勿論、奥さんやお子さんにもどんな危害が及ぶかもしれません。但し連絡は毎日銀行の方には入れてくださいよ。居場所もね」

親切めいていましたけど口調は冷ややかそのものでした。

その様子を陰で聞いていた妻も口惜しさで涙があふれたそうです。あとでいいました。

「旦那さん、なんでちょっとは言い返さなんだんですか、銀行にしてみたらうちはお客さんと違うんですか、あないにえらそうにいわれることおませんやろ」

「しょうないがな、借りて返されんようになったこっちが悪いんやから。返せんようになったら銀行にしてみたら客どころか、とんでもないやつや」

「けど、ひとことぐらいはいたわりの言葉があってもええのと違いますか。十年前には揉み手をして借りてくださいというてた人らですやろ

「十年前と今とでは銀行の事情もころっと変わったんや」

「銀行の事情が変ったら銀行の人らの態度まで変ってよろしいんですか」

まったく妻のいうとおりです。

私にしても彼等の話を半分上の空で聞きながら心の中で呟いていたんですから。

「それはないのと違うか。銀行というところは態のいい詐欺師の集団かいな」


その頃から景気は後退する一方で、本業の酒屋の方さえ今まで通り順調に行っておれば何とかやっていけたのですが、後で詳しくお話しますがこちらの方も翳りの一途。

「いくらでもお貸しします」といわれたのに「借金は少なく」、という思いからぎりぎりの額しか借りていなかったもんですから運転資金がショートするのにさほど時間はかかりませんでした

銀行も最初のうちは当座の貸し越し枠の拡大にも応じてくれました。それもビルの担保価値がまだ残っていると判断できた間だけです。景気の落ち込みでテナント賃料も保証金も値下げせざるを得ない状況になり、地価の下落で担保価値も下がってくると、再度の貸越し枠の拡大にも口裏をあわせたように「NO」の返事です。

年利8%の金利すら返済に苦しくなってきたときに銀行からの提案がありました。「保証協会からの借入という手がありますよ。土地を二番抵当に出されるんです。協会へはこちらからも後押しをしますから」というものでした。

ご存知の方も多いと思いますが、保証協会というのは中小企業救済の目的で作られた公的機関で、銀行からの借入の保証をしてくれます。お金は銀行から出るんですがもし払えない場合は文字どうり保証協会が保証してくれるんです。

つまり銀行はまったく損害をこうむらなくて済むんです。

なんのことはない、保証協会からの借り入れを勧めるのはこれ以上貸し出し枠を増やしたくない銀行の責任逃れみたいなもんなんです

そして、借りた金は今までの返済遅れの分として右から左へと銀行へ払わんといけません。まさに自転車操業です。

平成七年から八年、バブルは完全にはじけ散って銀行も多額の不良債権を抱えて自行の存亡に慌て始め、世間からの非難をかわすのに汲々とし出した頃です。

そんな中での銀行との話し合いは人間同士ではなく、ロボット相手に話してるようなもんでした。

かって「みの源さんの暖簾を信じてます。お役に立てれば光栄です」と言った銀行マンの面影は微塵もありません。

バブルのツケを払うのに必死になり始めた銀行とはもはや人間同士の信頼の上に立ったやりとりなど望むべくもなくなっていたんです。

預貯金は勿論のこと、生命保険の解約金、妻、子供、母の貯金もすべて会社につぎ込みました。

忘れもしません、平成十年の春、かねてから売りに出していた別荘に買い手がつき、受け取った千五百万の現金を、一緒についてきたF銀行の担当者が何の感情も示さずに「ではいただいて帰ります」と右から左へ持ち帰ったときは、「ああ、これで私は勿論、みの源との信頼関係もゼロになったんや」としみじみ感じたものです。あのときの情けなさと口惜しさは終生忘れられません。

同情のそぶりすら見せずに若い担当者は冷たい目つきで親ほどに年の離れた私に言いました。

「社長、このあとも資金繰り表は忘れんように毎月かならず出してくださいよ」

「判ってま。けどわしが金借りてるのは銀行からやで。あんた個人から借りてるのと違うんや、そらあんたも銀行の立場で言うてるのやろうけどその冷たい態度は人間としてなにか勘違いしてるのと違うか」と思わず口走ったものでした。

返さん私が彼にそんな態度をとらせていることは重々承知していながら、木で鼻くくったような対応が許せなかったんです

ところがです、年明け早々につまづきがやってきました。

テナントの全室を借りてくれるはずの会社からいきなり「事情が変化して、借りることが出来なくなった」といってきました。

まだ契約も交わしていなかったもんですから文句のいいようがありません。とりあえずF銀行へかけつけ「どないなりますねん」とねじこんだのですが、間の悪いときは重なるもんで、今までの担当だったS氏は社内移動で転勤してしまっているんです

「お宅がテナントはすべて紹介するからというんでスタートしたんでっせ。なるほど紹介はしてくれたけどそれがオジャンになったからいうてほったらかしはおまへんやろな」といきまく私に新任の担当者は「前任者がどんなお約束したかつかみかねるんですが、勿論努力はします。けどお宅の方でもテナント募集のはたらきをしていただけませんか」と他人事のような対応です。これにはびっくりしました。

「ということは、前任者のSさんはお宅の銀行の人と違うたんかいな。私はSさんの約束は銀行を代表しての約束やと解釈してたんですが」というと担当者も当惑したような表情でした。

それでも返事は「努力します」のくりかえしです。

「努力します、努力しますて、政治家の国会答弁やあるまいし。テナント全室紹介というのがそっちのサービスやというのはわからんでもないが、こっちはそれを信じて新築の話にのったんやないか。S氏のあの約束は何やったんや。。ビルさえ建てさせたらそれまでというのはちょっと無責任やないか」と怒鳴りつけたいのをぐっとこらえて銀行をあとにしました。

平成三年、すでにバブル景気に翳りの見えてきた時期です。借り手からのキャンセルもそのあらわれだったのでしょう。

慌てて入居者の募集パンフレットを作ったり、不動産屋への依頼なども始めましたがいっこうに借り手はつきません

結局ビルの完成した時点での入居者は二軒という有様でした。それもこちらで探した借り手で、F銀行の紹介は一軒もありませんでした。

担当者の台詞はきまって「努力はしてるんですが、なにしろあのスペースではなかなか借り手もなくって」の繰り返しです。

「あのスペースでは?。S氏の話やとあのスペースやからなんぼでも借り手があるということやったやないか、あれは嘘やったんでっか」

「いや、あの頃と今ではずいぶん事情が違いましてね」

あの頃というてもほんの二年前です。自分が言うた本人でないだけに担当者の返答も事務的というかクールなもんです。

ともあれ、当初の計画はガタガタにくづれた状態で営業が始まりました。

結局その後五年ほどの間一度も満室になったことはありませんでした。

勿論F銀行の紹介もゼロです。

昔の人たちは「オショガツサン」というたそうですが、船場の商家のお正月といいますと慣習として元日の朝は家族全員はもとより従業員(昔は奉公人)もみんなが揃います。

家長である私が、神棚、台所の火の神様、仏壇に灯をいれて昨年のお礼と今年一年の家内安全、商売繁盛を祈願しお福茶を頂きます。お福茶というのはご存知の方も多いと思いますが梅干、結び昆布のはいったお茶で、お屠蘇や雑煮、おせちの前にゲンを担いでまず頂きます。

そのあとが全員でのお祝いになります。

まず私が母に「新年あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。本年も相変わりませずよろしゅうお願いいたします。」と挨拶をします。

続いて妻が母と私に同じ挨拶を、こんどは長男から始まって子供達が祖母両親へ、さらには奉公人達が目上の順に家族全員に同じ調子での挨拶を述べるのがしきたりなのです。

大所帯の家なら部屋中に飛び交う挨拶が終わるのにずいぶんの時間がかかります。しきたりとはいえ正直「ええかげんに済ませてくれんと雑煮が冷めてしまうがな」なんて思うこともありました。

けどその年の元日は違いました。「みの源ビル」は完成、借り手も満杯。いうなれば一国一城の主がさらに新しい城を築いたような気分でしたから、皆からの挨拶も快く耳にひびきました。

お屠蘇、お雑煮、おせち料理の食事のあとご祝儀(ボーナスにあたります)を受け取った従業員たちがそれぞれ帰宅します。住み込みの者達にとっては昔でいう薮入りになるわけです。

「さあ、今日からは三日間、家族水入らずで過ごせるなあ」

母恵津子、妻の百々代、長女の希栄子、次女の真美、そして長男の重蔵、家族全員が揃っての食事なんてこんな時しかありません

「三日間で今年一年分の馬力を蓄えんといかん」

「馬力出すのもええけどお父さんは働き蜂やからね、もうちょっとおばあちゃんやお母さん大事にしたげんとあかんよ」と希栄子が言います。

「ほう、お前社会人になったと思ってお父さんにいっぱしの(一人前の)説教かいな」

二年前からある洋酒メーカーに就職し、多少はこの業界のことを見聞きしてきた娘です。

「うちの会社もこれからだんだん厳しゅうなりそうやて先輩が言うてたんやけど、みの源かて影響するのとちがう?」

「いつの時代でも商売てなもんは厳しいもんや、それを乗り切るためにビルも建てて頑張ろうとしてるんやがな」

「頑張りすぎてお母さんら悲しませるようなことにならんといてね」

小さなときから心根のやさしい娘です。

「正月早々から縁起でもない事いわんといてんか」

というと横から母が言いました。

ほんま、健康がなによりや。商売繁盛も結構やけど私はこないして元気な皆にかこまれて暮らしてるのが一番しあわせや、百々代さんもそうやおませんか?」

「そうです、あとは真美と重蔵が一人前になってくれたら」と妻も笑って答えます。

「重蔵ちゃんはええなあ、今度出来るビルもいつかはあんたのものになるんやから」と真美がいつもの明るい口調で言いますと母も「そうや、あんたは「みの源」の六代目になるんやさかいな」。

「そんな先の話せんといてんか」

大学に入ったばかりの息子には船場の跡取がどんなものか、まだ実感出来ていないようです。

「そうか、この子にもそろそろ商売の事教え始めた方がええのかなあ、私が親父に教えられたように」と考えながらおせち料理の数の子を噛みしめました。

数の子は子宝に恵まれるといわれる縁起物なんです。


結果、一階二階はみの源直営の飲食店と本業の酒販店に薬局店、三階から六階までが八室のテナントスペース、七階に事務所、従業員の宿舎、会議室、八階全室を家族の住居、というみの源ビルが建てられることになりました。

テナントの家賃は一坪あたり二万三千円、保証金が坪当り五十万という現在の相場では考えられない値段でした。S氏の言う通りテナント全室が埋まれば建築費などは将来息子に店を継がせるまでには全額返済できる計算でした

その費用は、建築費、建築中の仮住まい費用、店舗移転費、内装費、など合わせて七億円余りでした。

母の個人預金の殆どがS銀行との取引だった関係で、一,二階と八階の住居部分は母名義での借入、残りをF銀行から私名義の土地建物を担保にして「みの源」が借り入れる、という内訳で融資を受けることになったんです。

同時に代表取締役の私と弟二人の個人保証もさせられました。

七億の借金なんて私にしてみれば空恐ろしい金額です。なにしろ担保を入れての借金なんてこれがはじめてのことでしたから。

ところが両銀行とも曰くは「こんな額でよろしいんですか?おっしゃって下されば幾らでもご融資させていただきますよ」です。

「幾らでもといわれても、タダで貰えるのとちがいますやろ、返さんといかん金ですやろが」

「勿論ですが、多少は余裕をみておかれたほうが運転資金に回されるとか出来るんじゃないですか」

「今のとこ運転資金には不自由してまへん。それにお宅らの出してくれはった計算ならテナントの家賃を全部返済に充てたら十年もしたら完済出来るのと違いまっか」

「勿論です。ま、ご入用の節はいつでも仰って下さい」

[へえおおきに。けどこれ以上の借金はこしらえるつもりはおまへんな」

銀行にしてみれば時価にして四十億に近い土地が担保ですから目いっぱい貸したかったんでしょう。

えらそうに啖呵を切ったものの、今から思えばどうせ返せない借金なら銀行の言うとおりもっと借りとけばよかった、なんて思ったりもします。

あの頃の貸し放題、借り放題の何百億の借金を不良債権として今に残し、それでも倒産もせずおまけに債権放棄までして貰える大手の企業や、なんとそんな大手の企業には債権放棄までしていながら、中小零細企業からは非情に取り立て、貸し渋り、おまけに国からの公的資金を受けて大きな顔している銀行の姿を見ていると、「それはないやろ」と怒りすら覚える昨今です。

ともあれ計画はレールの上を走り始めました。

平成二年六月建築開始、約束通りにテナント部分の全室借り入れの申し出もあり、竣工予定の平成三年の年が明けました。いうなれば「希望に胸のふくらむ」正月を迎えたんです。


「八階建てでこんなビルになるんですが」

高さはともかく、思っていたよりはるかに狭いビルです。それはそうでしょう、たった二間半(5メートルたらず)の間口なんですから。

建物は道路からかなり後退し、各階の非常階段や非常口のスペースが広くとられています。

「これでは各フロアーの実際に使えるスペースがえらい少のうなりますな。」というと「建物の後退は、この周辺では「船場後退線」という建築基準がありましてやむを得ないんです。それに非常口の数や広さについては昭和六五年尼崎の長崎屋デパートの火災以来消防法が厳しく変わってこれだけは設けないといけないんです」という説明です。

「まるで四角い鉛筆立てたようなビルですがな。各階の広さがこれだけでは矢張りうちの土地でビルは無理ということですか」と腕組みをする私にS氏が間髪を入れず切り出しました。

「大丈夫です。これだけの部屋数があったら十分ペイできます。資金面は勿論のこと、入居テナントに関しても任せてください」と真剣な顔つきです。

「しかしこんな狭い部屋に入るテナントなんかありまっか?」

「任しといて下さい。当行の方で全室一括して借りてくれるところを用意します。じつはそんな有力なところが現在あるんです。かりにそこがダメでも今のこの景気で地方の会社が必死になって出張所のためのスペースを探してます。むしろ最近の大きなビルの広いスペースよりはるかに需要は多いんですましてここは御堂筋と堺筋の間で船場のど真ん中、足場としては最高ですからね。竣工前に満室契約は当行が保証します」

「竣工前に入居者が全部決まるんですか。それやったらその家賃だけで毎月の返済分がまかなえるのと違いますか?」

「勿論ですよ、ご融資の額にもよりますが、充分ペイできる範囲の見積もりになるんじゃないですか?」

自信満々のS氏の口調に又ぐらっときました。

「そこまで保証してくれはるんなら、とりあえず建築の見積もりとビル経営のシュミレーション出してもらえますか。そのうえで決断させてもらいますわ。ただ、死んだ親父の意思に逆ろうてまでしてビル建てよういうんですよってね。失敗して私の代でみの源つぶしたとなったらご先祖に申し開きがたちませんよってな」

半分は言葉のあやで言うた台詞が本物になるとは。 

先頭切ってバブルに踊った銀行もさることながら、その口車に乗って踊らされた私の軽率さは責められても致し方ないと思っています。けど、私だけやなくその当時は誰もがうなぎ昇りのバブル景気に我を見失って踊り狂っていたんです

本来ならこんな計画は、同業他社何社かに見積もりを競わせしかるべき専門家にも相談すべきやったんでしょうが「取引ちゅうもんは人と人の間の信用でするもんや。商いは心の売り買いや」という単なる格好よさにしかすぎないかもしれん船場商人気質が、単純に一銀行の勧誘に応じさせたんでしょうな。

「お宅がみの源の暖簾を信用してくれはるんならうちもお宅の銀行を信用させてもらいます」というのがそのときの心境でした。




第二章 「銀行はん、それはないやろ」

「肝心の岩谷産業さんがなかなかウンと言うて下さらないんです。この土地は岩谷の創業の地やから他社と一緒の総合ビルにしてしまうことには、ということで会長さんが反対なさっているんです」

隣接の数軒が集まっての約700坪の総合ビル建設の計画は最も広い敷地をもつ岩谷産業さんの同意がなければなる話ではなかったものでしたから、S氏のこの報告で計画は頓挫という始末になりました。

「なんや、そんなことやったんか。それなら最初に岩谷さんの承諾をとりつけてから我々のとこへ話もってこんかい」とも思いましたが内心は私も、相続税対策とはいえこの結果は「せんでもええ借金こしらえようとしてからに」と親父に草葉の陰からどなりつけられたような気がしましたんで、「わかりました、話は白紙に戻しまひょ。またなんぞおもしろい話があったら聞かしとくなはれ」とお愛想のつもりでいうたんですが、その後数日もしないうちににS氏がやってきました。

切り出されたのは「いかがでしょうか、いっそのことみの源さんのところだけで独自のビルをお建てになるというのは」という提案でした。

「そら無理でっしゃろ。そんなこと考えなんだ事もないけど、ご承知のようにうちは間口二間半のうなぎの寝床みたいな土地でっせ、こんなとこにビルなんか建ちまへんやろ」というとS氏はちょっと得意げな顔でいいました。

「建つんですよ。じつは東京の業者でこういう土地に有効的にビルを建てる専門家がいるんです。是非話だけでも聞いてみてください」

銀行にはもうつぎの段取りが出来てたみたいです。

話ぐらいは聞いてみてもええか、と思っていましたら次には建築業者がやってきました。

たまたまその営業マンは以前から面識があり、かねがねうちの土地の有効利用を勧めていた人物やったんです。

「とりあえず私のところで設計させてもらえませんか、いえ料金は頂きません」

こんな狭い土地にどんな風にビルなんか建てるんやろという興味がわきましたし、無料(ただ)やったらというセコイ気持も手伝って「まあいっぺん考えてみとくなはれ」と話にのってみたんです。

ところがなんと、わずか数日後に設計図が私の前にひろげられました。

そんなある日、F銀行のK君のあとの営業担当に赴任し、しばしばうちへも出入りをはじめていたS氏が話を切り出してきました。

「このままでしたら二次相続のときにまたえらい税金がかかってきますよ」

「二次相続といいますと?」

「つまりお母さんがお亡くなりになった時に再びその財産を相続されるることですね。いえ、社長はまだそんなことお考えじゃないでしょうが、アドバイスとして申し上げてるんです。折角のみの源さんの資産を相続税で目減りさせるなんて馬鹿馬鹿しいじゃないですか」

「そらそうです。今回の親父からの相続でもなんでこないに仰山の税金もっていかれるんやと腹立ってますねん」

「そうでしょう。ですから今のうちにお母さんの名前で借金をこしらえといたほうが」

「え?母親はべつに借金なんか必要おまへんがな」

「だからかねがねお考えになっていたビルをお建てになるんです。お母さんが融資を受けたことにして。お母さんに負債があれば相続税の対象から負債分は差し引かれますからね。つまり相続税対策のひとつなんです。」

「へえ、そんな手がありますのか。たしかに私も将来はうちの店をビルに広げて、てな夢を描いたりもしてますが今のところまだまだそこまでの甲斐性は」

「いえ、みの源さん一軒だけのビルじゃないんです。幸いご近所の何軒かのお店や会社も乗り気になっておられますんで、合わせればかなり大きな総合ビルになります。勿論みの源さん自体の資産価値もぐんと上がるというわけです。ま、ごらんください」

いつのまにこしらえたんでしょう、総合ビルの計画図に完成模型までみせたのです。

「ほう、手際のええことで」

親父が生きている間はおくびにも出せなかった山っ気が巧みなS氏の説明で首をもたげてきました。

「勿論必要なだけの融資はさせてもらいます。なんでしたらお母さんの預金先のS銀行さんからも融資を受けられたら如何ですか」

「総合ビルか、そんなこと今まで思いもつかなんだが、おもろい話ですな。一丁のらせてもらいまひょか」

と返事をするまでにさほど時間はかからなかったように思います。

「私が借金やて?そんな怖いことかないまへん」と母は言いました。

「そやから説明しましたやろ。その借金はみの源の店を守るためにするんですがな。もしお母さんになんぞがあった時、また相続税でえらいことになりますねんがな」

S氏からの受け売りの説明を半分も聞かずに母がいいました。

「そら、お父さんがなくなった今はこの店の事すべて五代目のあんたが取り仕切ったらよろしい。わてにはむつかしい商売の才覚はわからんし、それに女子供は店のことには口出さんのが船場のしきたりやさかいな」

「お母さん、これをきっ所に、親父から継いだみの源の屋台をもっと大きくして、死んだ親父に五代目かてやるときはやるというとこ見せとうおますねん」

この短絡的な思い込みと意気込みが後の禍根のきっかけになるとはまったく思いもしませんでした。

「わかりました。いずれお父さんの所へ行ったときに、あんたの手柄話きかせてあげられたらよろしいねんけど。」

「ああ、たっぷり聞かせてあげられるように頑張るわ」

「おおきに、けどあんまり頑張りすぎんようにな。蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘るといいますよってな。分不相応なことは考えんように」

いつの日も、私のことを目いっぱい案じ可愛がってくれた母のことばが深く胸に刺さったのははるか後のことでした。

どこまでが「分相応」なのか自分ではなかなかつかみ切れんのが人間の浅はかなところなんですな。