「分かった、お前のやりたいようにやったらええ。ただ、もしもわしがぽしゃってしもたら、みの源の暖簾を継ぐのはお前しかおらんのやからな、そのことだけは肝に銘じておいてや」

「大丈夫や、ぽしゃるような兄貴と違う、兄貴ならそのうちきっとみの源を立ち直らせるって」

そんな励ましの言葉も、心の余裕をなくしていた私にとっては逃げ口上のお愛想にしか受け取れなかったほどのショックでした。

結局は弟の決断が正解だったわけです。もしあのとき強引に私の許に引き止めていたらおそらく彼も私と共に破産して家族たちまでも巻き添えにしていたことでしょう。

泣きっ面に蜂、信頼しきっていた弟に去られた私はますます途方にくれました。

けど、四面楚歌ともいうべきそんな中であたたかい誠意を示してくださった人たちもいなくはありませんでした。

思い余って融資をお願いしたAビールさんからは思いもかけない返事を頂きました。

「ご用立ていたしましょう。いつでもお振込みします」

びっくりしたのはそのあとです。

「なお、このお金ですがわが社の製品を長年にわたってお売りいただきお取引いただいたお礼の意味ですのでご返済頂かなくても結構です」

ビール業界も競争激化の時代にどなたの判断だったのでしょう。

ひょっとしたら当時のAビールのS社長がかって船場地区の担当セールス時代に親父とも親しく、商売のことなどよく語っていたそんなご縁での判断かとも思うんですが、いずれにしろ私の力やなく先代が守り続けたみの源の暖簾とそれを評価してくださったAビールさんの厚情に涙の出る思いでした。

それと、N酒造の社長からもあたたかい援助をいただきました。

「私も会社での立場がありますんで形だけで結構ですから返済条件など書類にしてください。それも変更されたいときはいつでもおっしゃってください。お金はすぐにでもお出しします。苦しいときはお互い様ですからね」と言われたときのあの温和なお顔は今も忘れられません。

そんな温情をかけてくださった方々になんのお返しも出来ずに今日まで過ごしてきたことには心苦しさばかりが残るのです。

人の心の表と裏、薄情さと温かさ、自分が不遇の身になったときにそれがいちばんわかるんですな。

順風満帆、追い手に帆かけて走ってるときはすべての風が自分の後押しをしてくれているように思えるんです。

ところがそれが逆風に向かいますといままで後押ししていてくれたはずの風がどれだけ行く手を妨げることか。

すべてがうまくいかず万事窮した状態を大阪弁で「にっちもさっちもいかん」といいます。こうなってから世間の風の怖さを知っても、もう手遅れなんでしょう。

上り坂に背中を押してくれた手は下り坂には突き落とす手に変るんです.

そして、更にショッキングな申し出が、それも身内から現れました。

ある日、「兄貴、話があるねん」と宝塚の支店を任せていた弟の義雄が切り出しました。

「こんなときに言い出しにくいんやけど、俺、独立させてくれへんか」

「独立?どういうことやねん。藪から棒に」

「俺にも女房や子供が居る。家族のこと考えたらいつまでも兄貴の手助けやなしに、一国一城の主でやってみたいんや」

ピンときました。

「そうか、お前このままやったらわしと一緒に共倒れすると思って逃げ出す気か」

怒りと悲しみがいきなり襲ってきました。小さい時から何事につけほんに仲の良い兄弟でした。よく二人でわるさもしましたが、いつも弟の方がうまく立ち回り私だけが叱られるという、どちらかというと私より目先のきく要領のいい性格です。

おとんぼ(長男の意味で、のんびりした性格をさした言葉です)の私よりむしろ弟のほうが商売人には向いていたのかもしれませんが、親父は別の方向へ進ませようと思っていたらしく、私ほどには厳しく商売のことを仕込んだりしませんでした。

でも本人が望んで大学を出るなり「兄貴と一緒に商売をする」といいだしたんです。

みの源が順調に伸びたのも弟の協力があってのことです。

みの源全体の仕切りについてはすべてわたしのやるがままに従ってくれていました。ビル建設のときもなんの反対もなく共同保証人の判も押してくれました。

船場商家の長男次男の分をわきまえるのが当たり前だと信じて、中山の支店を守ることに力を注いできてくれたのです。

それが「独立したい」というのはよほどの意を決したことでしょう。

「そら、いつかはお前にも分家独立してもらう時が来るとは考えて居った。親父が生きててもそう考えたやろう。けど、今こんな状態の時にそれはないやろ。なんとかこの苦しさから立ち直るにはお前の協力なしでは出来へんことぐらい分かってるやろが」

「勿論これからも協力するがな。それにはまず宝塚の店を俺の手で守っていきたいねん。決して責任のがれのために独立するのと違うねん」

裏切りとは思いとうありません。あれほど仲の良かった血を分けた兄弟です。

けど、親父の死んだあと二人で支えてきた「みの源」の屋台柱を、傾きのはげしくなったその時に手を離されるというのは思いもかけなかったことでした。

けど、もしわたしが弟の立場であったとしても同じことを言い出していたでしょう。


不景気の風はいつしか商売人達の心まで凍らせてしもうたのでしょう、そんな問屋からの厳しいしめつけも倒産の大きな原因でした。。

運転資金を調達しょうにも、カツカツしか借りていなかったにもかかわらず銀行はもはや追加の融資には応じてもくれません。

「それだけでいいんですか、いくらでもお出ししますよ」といった数年前のあの台詞が今は「この状態では出しかねますなあ」に変わってきたんです。

なりふりかまわず、ビルの一室で近所のサラリーマンを相手の昼弁当なども売りました。妻にも手伝わせての日銭稼ぎです。これはけっこう売れました。

それでも毎日のように何十万、何百万の支払いに追われる状態では焼け石に水です。

知人、友人からの借金、ここからだけは借りるまいと思っていたノンバンクや街金(いわゆる合法的でない街の金融業)にも頼らざるを得なくなりました。   

そんな高利の金を借りたら結局利息で自分の首をしめるだけだということは私も商売人のはしくれですから重々承知していますが、さしせまった金繰りのためには手を出さざるを得なかったんです。

昨今一般の方や家庭の奥さんまでが街金、特にヤミ金といわれるところから高利の金を借りて人生までも破滅させてしまうという話を耳にします。

「そんな高利の金、貸すほうも勿論違法やけど、ヤミを承知で借りる方にも多少の自己責任があるのとちがうか?」という人もいます。

ごもっともです。けど承知で手を出さざるを得んような情況に追い込まれた人間やないとこれはなかなか判ってもらえんと思います。

そんなニュースをみるたびに私には「そんな人たちに何で銀行が気軽に正規の利息でお金を貸してやれないんだろうか」という疑問が湧いてならないんです。

もちろん銀行には銀行の理由があるんでしょうが、何百、何千億の貸し倒れ(不良債権)をこしらえるその金を、少しのお金があれば店や会社を潰さずに済む、今月のやりくりが出来る、といった人らに貸したほうがどれだけ世のためになるか、またそのほうが回収率も高いんではなかろうかと思ったりするんです。それが違法の悪徳金融をなくすのにも役立つんではないでしょうか。

私と同じように、銀行のしめつけにあって店をたたんでしまったある老舗の主人が言いました。

「銀行なんて庶民の味方やと思ったら大きな間違いでっせ、紳士づらして店張ってるけど、お上の庇護うけて弱い者いじめして、法の目くぐった悪徳金融と紙一重の商売してますねんがな」

この人もよほど手ひどい目にあわされたんでしょう。

ともあれ、その頃の私は商売のことを考える前にまずさしあたっての金策に駆けずり回らんといかんような毎日でした。

融通の頼みに対する商売仲間の人たちの返事のほとんどは「大変ですなあ、まあ考えさせてもらいまひょ」です。

この「考えさせてもらう」というのは商売人の間では「お断りします」とイコールなんです。

知らない人は「考えさせて」ときくと「そうか、前向きに考えて下さるんや」と思ってしまいがちですがそれは大間違い、ストレートに「ダメです」といって相手の自分にたいする心証を悪くさせとうないための婉曲な断り方なんです。

商売で駆けずり回るより、こうした金策に駆け回る方がはるかに疲れます。

ほっと気が休まるのは金曜日の夜だけです。すくなくとも明日、明後日の土、日は手形は回ってこないし集金、支払いのやりくりに悩まんでも済む、という安堵です。

ところがもう日曜日の夜には明日からのことを考えてまんじりともせん時間を過ごさんといけません。

酒の飲める人なら酔いつぶれて忘れてしまうことも出来るのでしょうが下戸の私にはそれも出来ません。

あれこれ算段を思い巡らせているうちに明け方を迎えることもたびたびでした。



そして続いてのショック、間違いなく私の生きる支えだった母恵津子がこの世を去ったんです。平成七年五月二七日です。

親父の亡き後、商売のことについては何一つ口出しはしませんでしたがただひたすら私のやることを陰で見守ってくれた母でした。

親父が典型的な船場商人なら、母もまた典型的な船場の御寮さん(ごりょんさん、奥さんのこと)でした。

母の思い出についてはあとでお話しようと思いますが、私が商売に打ち込むことが出来たのもこの母がいればこそ、いうならば私の守り神やったんです。

守り神に去られた不幸はすぐさま現実のものとなって襲ってきました。

社長の予言通り、S商店から支払いサイドをいままでの二ヶ月から一ヶ月に短縮を申し入れられたのには予期していたものの慌てました。

当方のお得意先からの売掛金の回収は殆どが一月から一月半、ホテル関係などは六十日というのが慣習でしたからとたんに資金繰りの必要に迫られます。

けど、これは最初のジャブ。続いてのカウンターパンチが二年後にとんできました。

「週に二回に分けての配送でしかもそのつど現金支払い」を申し出てきたんです。その条件でないと商品は納入せんというんです。

つまり「要る分だけを現金で仕入れろ」ということです。これには参りました。

「そちらも資金繰りの苦しいのはわかるがそれではまるっきりうちの店を信用してへんということやないか、かつての家族親戚同然の付き合いは何やったんや」という思いです。

それなら問屋をほかの店に変えようとしても当時の情況ではどこの問屋も条件はきびしく、せいぜい月の取引額は数百万単位、支払いは二十日〆の月末もしくは翌月十日というものです。

銀行へは毎月元利合わせて五百萬になるビル建築費用の返済、問屋へは仕入れのたびに現金支払い、売上はどんどん落ちてしかもその売掛金の回収は一月以上あと、となると資金のショートするのは火を見るより明らかです。

要するに、売れば売るほど金繰りが苦しくなるという、けったいな情況になってしまったんです。                  

そんなある日、「みの源さんとこ大丈夫ですか?」と親しい酒造メーカーの担当セールスマンに聞かれたことがありました。

「大丈夫て、何がですかいな」

「いえ、S商店さんのセールスの人達が、みの源さんとこそろそろ危ないでてなことを方々に言うてはるみたいですんで」

「へーさよか。そのとおり、明日ぐらいにはつぶれるかもしれまへんわ」

笑って冗談めかして答えたものの内心は煮えたぎるような怒りがこみあげてきました。

「たとえ危ないと思っても今までの付き合いからしたらかばって否定してくれるのが情というもんと違うのかいな。業界でそんな噂流されたらどこの問屋も今以上に取引を厳しうしてくるやないか。首吊りの足引っ張るようなそんな薄情な商売人にいつからなりさがったんや。わが身を守るためなら鬼にも蛇にもなるのが今どきの商売の道かいな」

取引条件をどんどん厳しくしてきた理由も判明しました。あぶない店に無条件で商品を卸していたら共倒れになるという防御策はわからんでもありません。

けど昨日や今日の付き合いやないんです。長年身内のように付き合ってきた店なら何とか助けてやろうと考えるのが、すくなくともかっての船場商人の心意気やったはずですが。



第四章 「にっちもさっちもいかん時へ向かって」

あとから考えてみたらみの源の倒産の原因にはいろいろあります。

一番の原因といえば矢張り銀行にすすめられたとはいえ分不相応な借金までしてビルなどを建てたことでしょう。

それも前に述べましたように不景気の翳りがなんとなく感じ始められるようになって、その回復策という思惑からもあったんですが、わたしの算盤ではそれまでの年商や当時の社会情勢のなかでは七億ぐらいの投資は決して回収不可能な額ではなかったんです。

ところが、お話したとおりバブルが去りビルのテナントは埋まらず不景気と共に売上は減る一方、銀行のしめつけは厳しさを増すばかりで月々の借金返済に追われ、そのために肝心の本業の運転資金がままならんようになったことです。

しめつけといえば問屋からのそれも考えてもいなかった仕打ちでした。

過去の殆どの小売店がそうであったように、私どもで売られる酒もメーカーから問屋を経て仕入れるわけです。

特例としてみの源のような古い小売店でメーカーと直取引の口座を持つところもありますが、それも安く仕入れられるというものではなくより新しい品を提供して貰えるというのと、メーカーからの直取引ですという一種のステータスだけのもので殆どは問屋からの仕入れになります。

かっては問屋と小売店の関係は商売の取引を超えた結びつきがありました。

担当セールスの人たちとも家族付き合いをし、新年会忘年会はもちろん、バーべキューや魚釣り大会などを開いたりしてつねに交流を深めておりました。

私の結婚に際しての仲人をつとめてくれたのも、親父の代からそんな付き合いをしていた大手の問屋S商店の社長なんです。

取引上でもサイド(支払期限)をゆるやかな条件にしてもらうなどにも応じてくれていました。

みの源の暖簾に対しての信用という人間同士の付き合いやったんです。

平成七年頃からでしょうか、当方の営業不振も加速度を増してきましたが同時に問屋の経営も消費の落ち込みからどんどん厳しくなってきました。

店をたたむ問屋、メーカーの傘下に取り込まれる問屋、何社かの統合で生きる道をはかる問屋などが相次ぎました。

S商店も大手のメーカーの傘下に組み込まれ、社長もメーカーからの出向役員にその座を明渡してしまわれました。

「みの源さん、長いものには巻かれろ、ですわ。これからはもう今までみたいな家族的なとか、人間同士の信用とかいうような商売の付き合いだけでやっていける時代でなくなってきましたなあ」

淋しげに言われる社長に言葉を返しました。 

「けど信用というのは時代に関係なく商売の基本的なありかたと違いますやろか」

「基本的な商人道はそうですやろ。けど商売の方法が変ってきてますがな。時代遅れの商法というと怒らはるかも知れませんけど、手握り合うてツーカーの取引が出来た、そんな今までの船場商法がもう通じんような時代になってるのと違いますか」

感じてはいたことですが、社長の口から聞くこの思いは、まさに実感として伝わってきたものでした。

「商いは損と元手で蔵が建ち」なんて昔からの川柳がありますが、損を承知で律儀な取引さえ続けていればそれが信用となって「損して得」となる、というのがかっての船場商法でした。

昔から大阪商人の間では口約束だけで殆んどの取引が成立し、手付金といった類のものを渡したりせんでも「手打ち」だけで「末永うよろしゅうお付き合い頼みます」でした。

借り越しで手形を振り出す場合でも「根抵当」を入れるなんてこともなく、その代わりその信用に対してどんなことがあっても不渡りにはしないというのが商人気質やったんです。

けど、今はS社長のおっしゃる通りかもしれません。

「申し訳ないけどこれからは、うちとの取引も今までみたいなわけにはいかんようになりますやろなあ。今の私の立場ではたいしたバックアップがしてあげられないのが残念ですわ」

またひとり、私の心の支えともいえた船場商人が消えていこうとしていました。


こんな具合に窮状を話し合える間はまだましです。

呼びつけられていきなり「来月からこれこれの値に下げてください。出来なければ残念ですが取引は中止ということに」という所や、なんの話し合いもなくある日いきなり取引中止をいってきたりする所も現れ出しました。

「酒の値段は一定」というそれまでの常識が崩れてしまったんです。

毎月大量の仕入れをしてくれていたある大手の老舗料理店などでは、毎日営業時間の終わる頃に店へ行き各階の空き瓶を回収、地下の大型冷蔵庫から各階の冷蔵庫へ足りない分の酒、ビール、調味料などの補充、あくる日の営業時間までに不足分を納入、と最低二人の従業員の労力をサービスに当てていたんですが、そんなことは全くといってよいほど評価してもらえず、再三の値下げ要求の末取引中止ということになりました。

不景気のあおりをいの一番に受けるのはいわゆる「水商売」です。

高級クラブやラウンジ、スナック、料亭などを支えてきた、昔でいう社用族、接待族の足がバブルがはじけてからは日に日に遠のき、キタやミナミの灯がひとつひとつ消え始めました。

ショッキングな報告が従業員からはいってきます。

「社長、ミナミの〇〇さん、集金に寄せてもろたら店閉めてはりました」

「へえ、ママの具合でも悪いんかいな」

「違いますねん、具合の悪いのは店のほうらしいんです。近所の店で探り入れたら、こないに客足落ちたらやっていけんいうて四、五日前に店閉めてしもうたそうです。うちのほかにも何軒も集金の人が来てるそうですけど、どこへ行かはったか行き方知れずやそうです。どないしましょ」

「どないしましょて、行方が知れんでは金の貰いようがないがな。開店のときから面倒見させてもろて、ずいぶん客も送り込んだり、女の子が足らんときはその世話までしてきた付き合いやったのに、殺生やで」

「うちの分ぐらい始末つけてほしかったですわ。けど、最近はそんな不義理して店閉めるとこが増えてきてるみたいですね、」

「ああ、お前等も気いつけてチェックしといてんか」

水商売とは流石にうまいこというたもんです。景気の波に合わせていつどこへ流れていくかわかりません。

それは分かっていたつもりなんですが、こっちの真心に応じる誠意まで水のように薄いとは。

考えの甘さを思い知らされるそんな事態がつぎつぎに起こったんです。

こうした傾向は平成五年あたりから一層きびしくなり、平成十年の決算ではかって十億まで伸ばした年商は五億を切るところまで落ち込んでしまいました。

売り上げに応じて広げた屋台の収支ラインをはるかに割り込んだ数字です。

「品物を売る前にまず自分を買うてもらえ」親父からきびしく教えられた商いの心得を従業員達にも身をもって実践させてきたのが「誰にでも出来る安売り」と「不景気による客離れ」に対抗出来なかった口惜しさにさいなまれる日々でした。

「お客様は神様です」はそのとおりです。「捨てる神あれば拾う神あり」ともいいますが、あの頃からの不況の風にさらされ始めた神様方には「みの源を拾うてやろう」という余裕もなかなかお持ちになれなんだのでしょう。

結局は「心をつなぐ橋桁は銭」やったんですな。



ディスカウントストアーは店頭での現金売りですから請求書の発行や集金の手間がかかりませんし掛け倒れはゼロ、配達、集金のための人件費が要らない、などで営業コストを下げ、その分を小売価格で安くするという商法です。さらには大量仕入れでの商品のコストダウンが計れます。

例えばビールの場合ですと、メーカーは大量に仕入れたからといって単価を下げるわけではないんですが、仕入れの量に応じて決められた「バック」を問屋を通じて現物あるいは金額に換算してその店に与えることになってます。いわば報償制度です。

我々小売店の仕入れの量と量販店のそれとではそれこそ「月とすっぽん」ほどの開きがありますから「バック」の量も全然ちがいます。当然小売値をぐんと下げることが可能になってくるわけです。

こういった具合でふつう小売店での約二割の利益をぐんと下げての薄利多売商法を行うわけですから、我々のような限られたお得意様相手の商売ではいくら「値段にまさるサービス」とか「暖簾を信用して貰うて」というても太刀打ちは出来ません。

とくに酒の場合は「安かろう悪かろう」がありません。

一般の消費者にしてみれば、同じビールや酒なら値段が安くなったからといって味が変わるわけやありませんから一円でも安い方がというのが人情でしょうし、景気もよくしたがってゆとりのもてた時代ならサービスを金額に置き換えてもくれていたんですが、不況の風が吹きはじめてきますと余計サーなビスよりも(ほんとは余計やないんですが)「まず安い物を」となるのも致し方のない成り行きでしょう。

みの源ビルの立ち上がった平成三年頃には船場やミナミの繁華街にも数軒のディスカウントストアーが出来ていました。

お得意様から「あんたとこちょっと値段高いのと違うか?」という声がかかりだしたのもこの頃からです。

新規のセールスにいっても「そんなサービスなんか要らんさかいに値段安う見積もってえな」というところがどんどん増えて来はじめました。

帳簿を調べてみると、月の仕入れが今までより極端に減っている店が何軒か出てきました。

「やっぱり不況で売上が落ちてはるんやなあ。いっぺん元気付けにのぞいてあげんと」と訪れて話し込んでいるうちに「ごめんな、ちょっとさしあたって足らん分なんかは近所のディスカウント店で買うたりしてるねん」などと洩らす人もでてきました。

「それはおまへんやろ。値段でサービス出来ない分どこにも負けん誠意とサービスでみの源への信用を買うて貰うてたのと違いますか。さし当たって足らん分でも電話一本ですぐにお届けしてきましたやろ」

「それはわかってるけど、お客も減ってきて売上減ってきたら、ちょっとでも安いお酒仕入れようと思うこっちの気持ちもわかってえな」

行く先々でこんな会話が増え始めました。


有為転変有為転変は世の習い、てなことをいいますがそんな順風満帆の商売にかげりが見えはじめてきたのが昭和六十年代に入ったころからでした。


かげりの原因はいろいろありますがその大きなひとつが「コンビニでの酒類販売」と「ディスカウントストアーの出現」です。

ご存知のように酒屋というのは酒税の関係で大蔵省(いまは財務省)の管轄による免許事業です。

昔のたばこ屋さんと同じで、地域の人口からアルコールの消費量を割り出し、それに見合う数の小売店を何軒と決められていました。我々酒店はある意味でその規制によって存続が守られていたわけです。

ところが規制緩和がつぎつぎに行われ、まず酒類の自動販売機が街角に置かれ始めました。

最初は酒屋の店先にだけ置くことが認められ、お客はわざわざ酒屋まで買いに行かなくても今飲む程度の酒なら手近の自販機へ小銭もって走れば済むようになりました。

「ビール一本でも電話くれはったら配達させてもらいます」というのがうちの売りでしたが、買う方にしてもビール一本ぐらいでわざわざ配達までさせるのは気がひけるのが当然です。

ですから小売店にとっても店先に自販機を置いておけばそんな思いをさせずに買うてもらえるんでむしろ有難いことでした。

勿論どこへ設置しても良いというわけではありません。よくお見掛けになる街角やビルの中などに備え付けられている自販機もすべて酒屋が「移動販売免許」という許可を得て設置し、集金管理を行っているわけです

ただし、自販機の酒は午後十一時までしか買えません。理由は「未成年の非行を防ぐため」らしいのですが、ところがこんどはコンビニにも酒類の販売免許が下りるようになりました。

ここでは二四時間好きなときに好きな量の酒が買えます。このへんが理解に苦しむところでして、「未成年の非行を防ぐため」ならコンビニでも販売時間は規制せんといかんはずなんですが、それとも十一時すぎたら未成年はコンビニへは行かないという判断かいなと思ってしまうんです。

ま、それはともかく、私が酒屋でなかったら確かにコンビニというのはその名のとおり便利やと思います。

ところが今まで一本の酒でもうちの店へ買いに来たり、注文の電話をくれてはったお客をどんどんそちらへ取られていく当方の打撃は思った以上のものでした。

ただ、値段のほうは酒屋もコンビニもみんな同じ価格が守られてましたから、まえにお話したようなプラスアルファーのサービスで多少はお得意様を確保することにつとめることも出来ました。

ところが、なんというてもこたえたのが、価格破壊の先鋒ともいえる「ディスカウントストアー」の出現でした。




私が「みの源」を継いで二十年足らずの間に売上も右肩上がりを続けました。

途中からは弟も商売に参加するようになりました。この弟とのことについては後ほどお話しますが、彼の協力を得て宝塚の中山に支店も開店、船場の店との両店あわせて十億の年商になりました。当初の目標の十倍です。

のちに私が「ビル建設のために借金しても」という気になったのもこれだけの売り上げを経験したからでしょう。

その売り上げをさらに伸ばすために私自身もシャカリキに働きました

といっても私はべつに石部金吉の働くことだけが趣味の男でもありません。

付き合いもふくめて遊びごとも決して嫌いではありません。一時はゴルフにも熱中して「みの源杯」といったゴルフコンペなども主催して毎年大勢のお得意さんなどを招待したりもしました。

嵩じて幾つものゴルフ場の会員にもなりました。

半ば投機目的の助平心もあってめったに行くこともないオーストラリアのゴルフ場の会員権まで買ったりもしました

業績の良さから来た多少のおごりと気のゆるみだったかもしれません

けど、それ以上に働くことが大好きで楽しかったといえます。

商売は順調、私も自分のやりかたに自信をもち得意にもなっていました。親父も殆ど口を出さず、すべてを任せてくれていました。

けどある時一度だけ真顔でいわれたことがあります。「氏重、商売の調子がええのはよろしいが、ちょっと慢心してまへんか」

「なにいわはりますねん、私はお父さんの教えどおり、実るほど頭をたれる稲穂・・・」と言うのをさえぎって親父が言いました。

「それや、私の一言にすぐそうやって理屈で口答えしょうとするのは自分に思い上がりの心があるさかいや。まず素直に人の意見を聞いてから、ということが出来んでどこが頭たれてますねん。自分では真面目にやってるつもりでも他人さんはどう思ってるかわからん。まして商売というのはいつ、どこで、誰に、どんな形で足すくわれるか分からんのやで、常に謙虚に世の中、世の人と接して居んとあきまへん」。

「いつ、どこで、誰に、どんな形で足すくわれるか分からん」、親父のこの言葉を思い知らされる日がいつのまにか忍び寄っていたんです。


右肩上がりの好景気の時代でしたから、キタやミナミの飲み屋街も繁盛、今の閑古鳥の鳴くような情況からは想像も出来ないほどの活気がありました。

私自身も、お得意様へのフォローや新規のお店の開拓のために連日連夜ミナミのクラブやスナックを回りました。ときにはメーカーの営業マンと一緒に一晩で二〇軒の店を飲み歩いたこともあります。

傍目には「結構やな、商売がらみとはいえ毎晩はしご酒ができて」なんですが、実は、私は酒屋のくせにほとんど飲めません。

下戸が一晩に二十軒の店を飲み歩くというのは一種の難行みたいなもんです。

行く先々の店にボトルは置きますが私が飲むのはウーロン茶とかノンアルコールの飲料です。

ただし、酒の売上は上げんといけませんから連れや店の女の子達にはじゃんじゃん飲んでもらいます。

わっと騒いで次の店へ。帰り際には店のママなり責任者なりに「そろそろお酒のほう入れさせて貰ってよろしいな、明日にでも配達させてもらいますわ」といった挨拶を残します.

これが連日連夜ですから結構なことは全くないんです.。買うてくれはった酒代より飲み代のほうが高くついた店もあったくらいです。

家族らからも「なんぼお酒飲まないからというてそないに毎晩飲み屋さん回りしてたら身体壊すのと違いますか」と何度もいわれましたがその頃の私には自分の体も家族との団欒すらふりかえる余裕はなく、というより頑張れば頑張るだけ成果の上がっていくのが楽しうて仕様がなかったんです。

ときには資金繰りの苦しいお店には僅かばかりでしたが用立てしたり、支払いの延期に応じさせてもらったりすることもありました。そういう付き合いをしていれば絶対にお客さんは離れることはないと確信してましたから。

「血の通うた商いをしなはれ」「夜店の商いはしたらあきまへん」という親父に教えられた船場商人の心得を実践したんです。

ほんとうはそれ以上に「時代の良さ」が私だけやなく商売人全部に味方をしていてくれたんです