第七章 「飛ぶ鳥の後始末」

「立つ鳥あとを濁さず」といいますが、倒産で飛んでしまったあとを自分の手で完全にきれいにしておくというのはなかなか出来ることではありません。

そらそうでしょう、周りをきれいに掃除出来るくらいなら倒産なんかする必要がないわけですから。

それでも出来るだけ物心ともに迷惑をかける人の数は少なくして、迷惑をかけた人にもきちんとお詫びをし、せめてもの誠意だけはわかって貰おうとしましたが、十分に果たせないまま飛んでしまうことになってしまいました。

最初にお話したとおり、身の回りのものだけ持ってのまさに「夜逃げ」です。

七月十四日。妻が言ったとおりこの日が船場の住み納めです。

K氏が迎えにきてくれた車に人目をさけるようにのりこんで、夕暮れの窓の外をながめました。

戦後の焼け野原の中から大阪商人のメッカとしてめざましい復興を遂げてきた町船場。少年時代にはいたるところがやんちゃ(腕白のこと)の舞台やった町船場。

親父から徹底的に教えしごかれた商人の心得、その教材がどこにでも転がっていた町船場。

五代目をついでからは従業員に率先して商売に駆け回った町船場。

生れ落ちてから五七年間、あの日その日のこの町での思い出が、ポツリ、ポツリと灯りをともし始めたビルの窓に現れては消えていくのでした。

ハンドルを握ったK氏もそんな私の心情を察してか、ことさらにスピードを落としてくれています。

様変わりしたとはいえよその町にはない独特のたたずまいを残している船場。

各種の問屋の集まった町ですからどの筋も通りも昼間は荷物を積んだ車でごったがえします。

今通り抜けようとしている堺筋のあたりには昔は砂糖の問屋が多かったそうで、「堺筋」というのが「砂糖」の隠語やったそうです。

本町通を御堂筋から東へ、夕方はいちばん車の混み合う時間ですがそれでもわずか五分足らずで堺筋をぬけて高速道路をくぐるともうそこからは船場の外です。

「今まで知ってるようで気がつかなんだけど狭い町でしたんやなあ船場というのは。こんな狭い町でいっぱしの商人気取りでいたのは井の中の蛙やったんかなあ」と思わず呟くとK氏がようやく声をかけてくれました。

「そんなことおません。ようやってきなはったと思います。たしかに先代からの十字架を背負った「みの源」の時代は終わりました。これからは身を軽くして貴方自信の人生を充実させてください。いつか貴方のふるさとの船場へ別のかたちで錦を飾れるように祈ってます」

涙でビルの灯りが大きくぼやけてしまいました。


世間でよく聞く直接的な危害はそんなに受けませんでしたがきびしい口調の取り立てや罵声は何人からか受けました。

「どないしてくれますねん。うちの分ちゃんと債権者のリストにのせてもらえますのやろな、なんぼかでも返ってこんとうちも困りますねん」とか「どこへ隠れようと草の根わけても探し出したるさかいな!」と電話の向こうで怒鳴った人もいます。

貸すときは「たいへんですな、お宅も」なんて優しいことばもかけてくれた人でしたが。

私としては、逃げ隠れなどする気は毛頭ありませんでした。

出来ることなら全部の債権者と直に会うてお詫びをするつもりでした。

実際お詫びをいれた何人かのなかには優しい言葉をかけてくれた方もいました。

「残念ですなあ、ええお付き合いさせて貰うてきたのに。けどこれで一旦ケリつけはってかならずまた出直しとくなはれ。私のほうは債権放棄させてもらいます。まあ立ち直って儲けはったらこんどはこっちが倍の無心にあがらせてもらいますわ」。 

倍どころか五倍十倍にしてでもお返ししたくなるような温情が電話の向こうから伝わってきて、胸が詰まって言葉が出んようになりました。

そういった人の殆どは先代、先々代から商売を通じて「人と人」のお付き合いを続けて来ていただいた方です。

狭い「船場」という地域で、狭いが故に固く結びついた商人の情を失っていない人がまだいたんです。

町の様相もビル街と変り、商売のやりかたも近代化合理化という名のもとで様がわりしてきました。

老舗の「お店(たな)」が株式会社になって「旦那さん」は社長に、「番頭はん」が専務に変ってきました。

それでも船場というところはビジネスのためだけの冷たいオフィスの町ではなかったんです。

大阪の商人(あきんど)達が、血の通った商い一筋に絡み合うそんな性根のある町やったんです。

私もそんな中で良き船場商人でありつづけたいとやってきたんですが結局はその町を石もて追われる羽目になってしまいました。

私の身を案じてとるものもとりあえず駆けつけてなぐさめや激励、そして当面の善後策に親身になって相談にのってくれた人たちもいました.

私としては最後まで残って債権者との応対をするつもりやったんですが、結局はそのなかのひとりであるK氏の「どんな人がどんな手段で押しかけてくるかも知れませんからね。娘さんのとこへいってもなにかと迷惑かけるかもしれませんがな」という説得とご好意でひとまず家族全員K氏の所有するマンションの空き室へ移ることになりました。

ついに、船場から「飛んでしまう」日がきたんです。

平成十一年七月十三日。梅雨明けを待つ船場の空は私の心と同じように今にも泣き出しそうな雲がたれ込めておりました。


引き続いてそのあと会社倒産、自己破産のまきおこした波は次々に押し寄せてきました。

弁護士からの連絡を受けていの一番に来た大波は銀行の担当者です。

そのときの光景は前にも申しましたとおり、いまでも思い出すと怒りと口惜しさがこみあげてきます。

「残念ですな、なんとか打つ手はなかったんですかねえ」

「(残念なのは債権回収が出来んようになったお宅らの本音ですやろ。打つ手をいの一番になくしてしもうたのがお宅やおまへんか)もうこれ以上打つ手がなくなりました。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

「ま、我々銀行は社会的な立場がありますからそんなことはしませんが、たちの悪い債権者によってはご本人は勿論ご家族にまで危害が及ぶということも考えられますからね。安全をはかるためにどこか身を隠された方が」

「社会的な立場がなかったらお宅らもそんなことする腹ですかいな」と聞きたいのをぐっとこらえました。

私を見下すように椅子にふんぞりかえった担当マンの親切めいた言葉の裏に非難と冷笑が秘められていると感じたのは負け犬のひがみやったんでしょうか。

実際そのあとすぐに私や妻の銀行口座はロックされました。

これは当然なんですが、二、三日あとには娘の真美が「お父さん、私の口座も出し入れ出来んようになってる」といってきました。

「そんなはずはないやろ」と慌てて弁護士さんに報告しますと「それはおかしいですな。保証人にでもなっていればともかく、娘さんは関係のない第三者ですからその個人財産は守られます」ということで銀行に抗議してくれてロックは解除されました。

「親が倒産したら娘の貯金まで取り上げるのが銀行なんか。もうあんな銀行替えてしもうたる」

勝気な子だけに真美は怒り心頭だったようです。

「ご家族にも危害が及ぶかも」を実行したのがまず銀行やったんです。危害ではなく被害でしたが。

アメリカの作家マーク・トウエンという人がいうてます。「銀行というところは晴れた日に傘をかしてくれて、雨が降れば返せというそんなところだ」全く同感です。

ことばの端々に「当行の損害額も並みの金額ではありませんからね」という意味のこめられた銀行マンの態度でした。

数億円が並みの金額でないといえばたしかに我々庶民にとってはそうかもしれませんが、それでは大手の企業相手にこしらえた何百、何千億の不良債権はどんな金額なのか、「並みの金額」に代わる形容詞を教えてほしいもんです。


ともあれ早速に、債権者とその負債額、個人資産、在庫商品や売掛金などの会社資産の明細などの書類作りにかかりました。

そしてまず息子の重蔵、次女の真美、嫁にいった長女の希栄子、と子供達に順に破産宣告の申し立ての段取りをすませたことを話しました。

それぞれの反応は多少違いましたが、三人ともそろって言うてくれた言葉は「お父さんが決めたことやったら私はついていきます。いままでもそうやったけど、これからもお父さんのこと信じてます」でした。

少なくともこの家族達のためには破産を決めたほうがやっぱりよかったんや、とあらためて思いました。

「さしあたって行くとこなかったらうちへ来てくれたらええねんよ」と長女の希栄子が言うてくれます。

「あほな、旦那がおるやないか」

「ううん、うちのひとかてきっと喜ぶと思う」

結局その言葉どおり、のちに長女の家に身を寄せることになったんですが。

続いては家族同然に寝食をともにしてきた従業員たちへの通告です。

翌朝一番の朝礼で全員を集め、破産の決意を述べました。

「みんなそれぞれ一生懸命頑張ってくれたのに、私の不徳の致すところでこんな結果になって、本当に申し訳のう思ってます」

日頃の仕事の情況からなんとなくこの日のくるのを感じ取っていた者もいたかもしれません。

意外にみんな冷静に私の説明を聞いてくれました。

けど、その沈黙が私には余計つらい思いにさせるんです。

親父の代からの方針で、全国の酒屋さんの子弟を預かって「修業生」という名で商売のノウハウから商人の心得などを教え込み、一定期間が過ぎたら親元へ帰すということをはじめました。

考えようによっては昔の「丁稚奉公」のようですが、「実践を通じて本物の商人を育てたい」という親父のポリシーから生まれたこの制度は厳しい修業生活から「みの源道場」とも呼ばれて新聞やテレビなどでも紹介されました。おかげで全国の酒屋さんから「是非息子を預かってほしい」の依頼が後を絶ちませんでした。

江戸の昔から全国の商売人の手本やと自負していた船場商人気質を学び取ってそれぞれの家業へと巣立っていった修業生はのべにして百人は下らんと思います。

「優しさを下敷きにした厳しさ、これが人を育てる基本や。本当にその子を思う優しさがあれば少々厳しゅうしても最後にはわかってもらえます」というのが親父の教育方針でした。

修業生だけでなく従業員に対しても同じことが言えると思います。

「給料とそれに見合うだけの労働力の提供」ではない人と人との結びつき、それを私も守ってきたつもりです。

そんな従業員たちへのこの朝の詫びと説明は身を切るようなつらさでした。

「最後の仕事をお願いします。今日一日手分けして得意先を回ってこの結果をお伝えして、今までのお礼とお詫びをきちんとすませて頂きたい。「みの源」の最後のけじめですよって」

今日までの給料や退職金は出来る限りと思いましたが、破産申告の時点から会社の金は一切左右できません。

こんなことならもう少し前からやりくりして多少なりとも払ってやっておくべきやった、とそのことに思い至らなかったのが悔やまれました。

「給料のほうは債権としては最優先で支払われると聞いてます。すこし遅れますが心配しないで」としかいえないのがつらいんです。


私瀧内氏重個人と、その背中に背負ったみの源の看板を信用して取引や交際を続けてくれた人たちを裏切ってしまった「借り」はもう償いようがないんです。

簡単に自己破産する人たちにはその「心の重荷」はないんでしょうか。

事務的に説明を続けるM弁護士にもうひとつ気になっていることをたずねました。

「ところで、破産に関するもろもろの費用ですが、幾らぐらい用意したらよろしいんですやろ」

業界では「葬式費用」ともいうたりしているそうです。

説明によると、弁護士への依頼報酬、これが着手金と成功報酬の二回にわけてお払いせんといけません。両方で五十万~六十万円。裁判所への予納金、これは管財人などを選任したときの費用に当てられるんでしょう、大体五十万円前後やそうです。

ところが後で知ったんですが、管財人への報酬はこれよりはるかに多いそうで、しかも回収した債権の中から差し引いてまず受け取るんやそうです。

負債の額や件数に応じてこれらの額も変ってくるそうで、わたしの場合では会社「みの源」と私、妻の三件分で三百万円を用意するようにいわれました。帰って話をしましたら妻もびっくりしました。

「へえ、葬式代ですか。死ぬのは簡単そうやけど、葬式代は高うつくもんですな」

「金につまって死ぬというのにそこからまだ金とるんかいな」とふたりで苦笑いをしたもんでした。

けど、こんな会話で夫婦が笑い合えたのも久しぶりのことでした。

つらかったのは弟義雄への連絡です。

「そういうわけで、お前にもなにかとしわよせがいくと思うけど覚悟決めてほしいねん」という説明に、電話の向こうで弟の絶句する表情が感じられました。

「なんやて?兄貴、わしに何の相談もなしにいきなり破産はないやろ」

「いきなりやない、家族のことやらいろいろ考えた揚句に・・・」

「家族?わしが家族のこと考えて独立させてくれ言うたとき、兄貴何ていうた。覚えてへんとはいわさへんで。家族のためにみの源を見放すのかいうたやないか。あのとき兄貴は俺の事を裏切り者やと思ったやろ。けど、独立してもみの源の息子としての協力と責任だけは守るつもりでいたんや。兄貴のほうがずっと無責任に俺を裏切ったンと違うか?」

「すまん」

その一言しかいえないほど義雄の怒りが電話口からつたわってきました。

結果的には義雄のほうが正解やったんです。宝塚の店は彼の物として残ることになりました。

ただし、共倒れこそまぬがれたものの、かなりの債務保証をしてくれていたこともあって物心ともに大きな迷惑をかけてしまったことは、弟だからといって許されるものではありません。

「兄貴、それは無責任やろ」この本音の一言は今でも私の胸に突き刺さったまま残っています。今、一番詫びたい相手といえば弟の義雄だともいえます。

兄弟のつながりがその日からプツンときれてしまったんです。

その後も何度か侘びの手紙も書きましたが返事は貰えませんでした。

けど幼いころから仲のよかった、血をわけた兄弟です。いつの日か、かれの怒りも解けて、子供の頃一緒に遊びまわった船場の町を二人で歩いてみたい、そんな思いがいつまでも消えません。


「自己破産したからといって個人の生活には殆どデメリットはありませんね。よく選挙権なんかの公民権が停止されるなんて思う人がいますがそんなことは一切ありません。戸籍にも出ませんし、サラリーマンの場合でも自己破産したから会社を首になるなんてこともありません。官報に記載されるだけで、黙っていたらだれにも気付かれずに済ますことも出来るんです。もっとも瀧内さんの場合は会社が倒産していますからそうはいかんでしょうが」

当たり前でしょう。黙ってるどころか、明日にでもお得意様や迷惑をかけた方々のところを回って事情の説明とお詫びをしなければと思っているくらいですから。

「デメリットといえば、自己破産した人は何年間かはローンが組めませんし、クレジットカードは使えません。免責後の銀行の預金、出金は勿論自由ですからキャッシュカードは利用できます。その後どれだけ大金を稼ごうがすべてあなたのものです」

「そんなことはまずないと思いますが、もし宝くじでも当ったら全部迷惑かけた方々にお返ししますな」

「それは自由ですが、法的には一銭の返済義務もなくなるわけですからね」

一般の人で、わずか数百万の借金で簡単に自己破産をするケースがどんどんふえている理由がわかりました。昔の徳政令みたいなもんで、まるで手品をあやつるような仕組みなんやと感じました。

それまでの「破産」ということについての私のイメージでは人生のすべてを無くしてしまうことのように思っていましたが実際はそんな悲惨なものでもなさそうなんです。

無くしてしまうのは「借金」と「信用」だけのようです。もともと信用のない人間や信用される気のない連中にとっては「破産」はいうならば格好の「駆け込み寺」のようです。

噂にきくと簡単に自己破産をすすめる弁護士もずいぶん多いそうです。

弁護士としては破算の手続きだけをして報酬を貰えば、ややこしい係争に関わるよりずっと楽なんでしょう。

けど、なんとなく釈然としないんです。破産の当人としてはたしかに借金はすべてチャラになったとしてもいろんな人々から受けた「心の借り」は死ぬまでチャラにはならないんですから。

私瀧内氏重個人と、その背中に背負ったみの源の看板を信用して取引や交際を続けてくれた人たちを裏切ってしまった「借り」はもう償いようがないんです。


第六章 「飛んでしまうのも一苦労」

商売につまって店をたたんでどこかへ消えてしまうことを「飛んでしまう」なんていいます。

「〇〇さん最近どないしてはります?」「あの人やったら店たたんで一家ともどもどこかへひきこもってしまわはりましたがな」「へえ、とうとう〇〇さんも飛んでしまいましたか、お気の毒に」といった具合です。

すでにその頃、船場のいわゆる「老舗」と呼ばれた何軒かの店も「飛んで」しまっていました。

ところが私はこの言葉があまり好きではありません。なんとなく「飛んでしまう」という言葉のうらには野次馬的な、面白がっているような目が感じられるんです。

姿を消したどのお店も船場商人の誇りと意地で頑張ってきた人たちです。

かっては簡単には飛び上がれないほど船場の地に足をつけての商売を続けてきた人たちなんですから。

けど中にはバブルの泡の中で、簡単やけど慣れない金儲けに手を出して失敗した人たちも少なくありません。「あんたもそうやろ」といわれれば返す言葉もありませんが、乱立する船場のビル群のほとりにはそんな人たちの墓石が立ち並んでいるはずです。

「飛んでしまった〇〇さん」が「みの源さん」になることを決断した私は翌日七月十二日かねてから異業種交流の会で面識のあったM弁護士のもとを訪れました。

現在の窮状をひととおり聞き終えたM氏が説明してくれました。

「なるほど。そこまでの情況なら倒産はやむを得んでしょうな。ただし、会社を倒産させるだけじゃなくて、瀧内さん、奥さんのおふたりも同時に自己破産せんといけませんよ」

「みの源」の抱える負債はすべて経営者である私の個人保証ですし、その私個人の借金の殆どは妻が保証人になっていますからその二人ともが保証能力ゼロとなれば必然的な処置だということです。

「自己破産したらなんぞ法的に制裁をうけるとか・・」

「ありません。もちろん債権者からは恨まれるのは覚悟せんといけませんが、破産の申し立てをした時点で債権者もあなたへ直接の取り立て請求は出来ないことになってます」

「その筋の者がうるそうやってくるとか」

銀行はともかく、街の金融業者のなかには脅しまがいの暴力的な取立てをするという話は耳にしていましたからまずそれが心配になりました。

「ないとはいえませんが、最近はそういった暴力行為などにはきびしくなりましたからね。申し立てのあと何度か裁判所での審尋に足を運んでもらいます。そのあと、破産宣告が出されます。本人に財産や債権がない場合、つまりすっからかんで債権者に返す能力がゼロと判断されれば、同時廃止といってあとは免責の決定を待つだけなんですが、瀧内さんの場合は在庫商品や未回収の売掛金、それに個人資産がありますからそれらを債権者への配当にあてないといけません。そういった始末をしてくれるのが管財人です」

「その管財人は誰が決めるんですか、先生にお願いするとかは」

「出来ません。貴方にも私にも打算的なつながりのない第三者を裁判所が任命します。その資格をもった弁護士ですね」

「成る程、私はどうしたらいいんですか」

「あとは管財人の指示に従って債権者会議などに出てもらったりしないといけません。最終的には免責決定です。それまで約一年あまりかかると思いますが、その時点からは天下晴れての自由の身、すべての借金は棒引きということになります。貴方の方で債権債務の明細書類さえ作ってくだされば手続きは弁護士である私がいたします」

裁判所へ足を運んだりするぐらいのしんどさは、今までの金策に駆けずり回り厳しい催促に頭を下げつづけてきた身も心もすりへらすような苦労にくらべたら、なんてことはなさそうです。

親父が私に教え込んだほどには息子には船場商人の気構えは教えませんでした。

時代が違うというのは私自身も感じていたからです。

「暖簾をおろす」というのは私だけの悲しくも無念の感慨なのかもしれんのです。

けど、大阪弁でいうと「のうれん」という発音になるんですが、これがかっては大阪商人にとって命より大事に守られてきたものなんです。

江戸時代、町人は特別な場合を除いては苗字を名乗りませんでした。

何とか屋何兵衛といった屋号でお互い認め合ってきました。家名、屋号をなによりも大切にし、その象徴が屋号を染め抜いた「のうれん」やったわけです。

もともとは店先の日よけ塵よけのために吊り下げられた木綿の暖簾なんですが、もうひとつ面白いのは昔は大阪の商人の間では家を明るくしておくと福の神が逃げ出すという迷信があったそうで、家の中が明るい商売人は金が溜まらんといわれてそのために暖簾をかけて明かりをさえぎったとも言われています。

これも大阪商人独特の「始末」の精神から生まれた迷信でしょう。

家の中が明るすぎるとそれだけ汚れも目立つやないか、となると余分な掃除もせんといかん、汚れた着物も着替えんといかん、家具調度も良いのを置かんといかん、おまけに店先の商品のアラも目立つやないか、手間と金がかかる、というわけです。

そんな大阪商人の象徴やった「のうれん」も息子の世代の者たちにとってはけっしてしがみつくほど値打ちのあるものではないのかもしれません。

ずっと黙りこんでいた息子がやっと口をひらいてくれました。

「僕は僕でこれから頑張るがな」。

考えてみたら息子には商売人としては殆どいい思いをさせることが出来ませんでした。大学を出るなり店を手伝わせ、不振のレールの上を私と一緒に走らせてきたんです。

「僕なりの形でいつか六代目継いでやるわ」

「おおきに・・・」

こみあげてくるものをぐっとこらえながら、わざとあかるく食べ残した鱧をほおばりました。

「この鱧よう脂がのってるなあ。やっぱり大阪の夏は鱧やで。そや、今年はひとつみんなで天神祭り見に繰りだそか」

なんでそんな呑気な台詞が口をついたんでしょう。私自身にも無意識のうちに安堵の気持ちが働いたんでしょうか、今まで気もつかなかった蝉の声が耳に入ってきました。

また無言を続ける家族たちの思いに耐え切れず呟きました。

「こんな船場のど真ん中でも蝉が鳴きよるんやなあ」

今度は妻が応じてくれました。

「昔はもっと仰山鳴いてたように思いますけど、蝉もだんだんここには住みにくうなってきたのと違いますか」

蝉だけやない、古き良き時代の船場商人が時代の流れのその波間にひとつひとつ消えていく、その一人に私もなってしまうんです。

涙は見せまいと自分にいいきかせました。私以上に泣いているのが「みの源の暖簾」に違いないと思ったからです。


実は、その一月ほど前から「ここまで弓折れ矢尽きたら、あとは迷惑かけた人たちへのお詫びは死ぬしかない」と考えはじめ、遺書も書いていたんです。

死んだら長年かけてきた保険金が入る、多少は借金の返済にも充てられるやろ、なんてことも考えていました。

けど、考えてみたら自分が死んだら他人に迷惑を及ぼす以上に妻や子供達を不幸に陥れることになるんです。

商売の道を走りつづけるあまり殆どかえりみてやることがなかったのに、私のことを夫として父としてついてきてくれたかけがえのない家族やったんです。

天保年間から百七十年守りつづけてきた「みの源」の暖簾を私の代でおろすなんてことは親父はもとよりご先祖様への不孝のきわみです。

しかし、いたずらに暖簾にしがみついていて愛する妻や子供達との絆までなくしてしまうのがはたして正解なのでしょうか。

長い沈黙の時間が流れました。

「すまん、ちょっとトイレや」といって立ち上がりました。

なんでトイレなんかに立ち上がってしもうたんでしょう。いたたまれない気持ちがさせたんでしような。

トイレの鏡にうつる私の顔は妻や娘の言うとおり自分でもぎょっとするほど今までのものとは違いました。

頬がこけ、目は落ちこみ、精気のない顔色です。いつのまにか白髪もぐんと増えています。

「そうか、こんな顔を毎日、家族にも他人さんにもさらしてたんか」

鏡に親父の顔がWって現れました。

「仕様おませんな、見切りのときを家族が教えてくれのかもしれまへんで。有為転変は世の習い、あかんときは引き際の決断を思い切ってするのも商売人の心構えや。時流を見損なったとはいえ、あんさんもここまで良う頑張ったのと違いますか」と言っているようでした。

どうやら決断の時が来たようです.。食卓に戻って言いました。

「すまん、わかった。あした弁護士さんのとこへ行って店畳む相談してくるわ」

三人とも何も答えません。けど、はりつめていた肩がホッと落ちるのがわかりました。たぶん私自身もそうだったと思います。

「わるいなあ重蔵、お前に六代目の暖簾継がせることが出来んようになってしもうた」

はたして「暖簾」というものについて息子がどれだけの重みを感じていたのかわかりません。

ひょっとしたら「のれん、のれんてそんなに大事なものなのか、古くさいプライドだけのものやろ、そんなもんにしがみついてるさかいにこんな具合になってしもうたんと違うんか」と思っていたかもしれません。


第五章 「おろす暖簾が泣いている」

平成十一年七月十一日。日曜日でした。

関西の七月といいますと、十七日の京都祇園祭の本番前後に梅雨が明け、そして夏休みに入って二五日の天神祭り。我々酒屋にとっても夏の商戦の火蓋が切って落とされる、おおわらわの季節です。

この頃の旬の食べ物といいますとなんというても鱧です。

梅雨の水を吸うた瀬戸内産の鱧は脂ものって、さしみ、湯引き、あるいは鍋にして、料理屋のメニューから家庭の食卓までを「上方の夏の味」として飾ってくれるんです。

値段もこの季節にはピンと跳ね上がりますが。

その日の我が家の食卓にも鱧のおとし(湯引きのこと)が並んでました。

「ほう、鱧か。えらいぜいたくなことで」。ケンのある一言のあと私は黙々と箸をすすめました。

久しぶりに妻と息子、次女の娘と一緒に囲む食卓です。旬の味をさかなに話が弾んでしかるべきなんでしょうし、かってはそんな団欒も出来るだけ作ってきました。

けどその頃には、たまに家族が揃ったときぐらいとの妻の気遣いの鱧料理を味わうそんな余裕ももう無くしていました。

明日からのやりくりのことを考えたら頭の中はジクソーパズルをひっくり返したような状態なんです。

「〇〇さんからの集金の分を当座の手当てに回して、〇〇さんへの支払いは先延ばしをお願いして、そうや〇〇さんにいっぺん金策の相談してみよか」

そんな算段ばかりが頭の中で渦まいてますから、鱧の味はもとより妻や子供達との会話を楽しむ気にもなりません。

無言のままの時間が流れました。

「お父さん、ちょっと話があるんやけど」

ポツリと娘の真美が口をひらきました。

目を上げて見た娘の表情は思いつめたものでした。

社会人になってもう五年あまり、そろそろ姉に続いて嫁に出さんといかん年になってます。

「なんやねん、話て。好きな人でも出来たいうんかいな(ひとが明日からの算段で思いわずらってるときに頭いためるような頼みごとはあかんで)」。

わずらわしそうに返事をする私に娘が言いました。

「そんなんと違う。お父さんのことや。最近のお父さんはわたしらのお父さんと違う」

藪から棒に何を言いだすんやと娘の顔を見つめました。

「どういうことやねん、わてはお前らのお父さんやないか」

「違う。お父さん自分では気ついてへんやろけど、今までのお父さんなら久しぶりにわたしらとご飯食べるときにそんなこわい顔せえへん。わたしの仕事のこと聞いてくれたり、面白いこというてわたしやお母さん笑わせたりしてくれたやんか。それが顔つきまで変ってしもて。声かけるのも怖いくらいになってる。最近のお父さんはまるで他人や。お母さん、重蔵ちゃんもそう思わへんか?」

息子はただ黙っています。おそらくおなじ思いやったんでしょうが、商売を手伝っているだけに私の様変りの原因が何であるかを充分承知していたんです。

「わたしもそう思います」

妻の百々代が思いきった顔つきでいいました。

「真美のいうとおりです。怒らんと聞いてください。たしかに最近の旦那さんの顔はふつうやありません。夜中にわたしが目をさましたらいつも起きてはります。それも目をぎょろつかせて鬼のようなこわい顔で。今まで旦那さんのなさることなら商売のことは勿論どんなことでも口出しはしてきませんでした。今のお店の苦しい情況もある程度承知してますし、これからでもついてこいといわれればいつまでもついていくつもりです。けど今のままやったら真美のいうとおり、旦那さんはますますわたしの旦那さんでもなければ真美や重蔵の父親でもなくなっていくように思えるんです」

結婚して三〇年、こんな妻の口調ははじめてでした。忙しさのために途絶えがちになる夫婦の会話を文通で埋めようと続けてきた、その手紙のなかでもこんな私にたいする非難や愚痴はいちどもありませんでした。

いままでなら「なにをえらそうにわしに説教するねん。こんな顔つきにならざるを得ん今の苦しさがお前らには判らんのや」と一喝したんでしょうがその台詞が喉の奥でつかえたまま出てこないんです。

母のことばに力を得たのか、あるいは母の思いを代弁しようとしてか、堰を切ったように真美が私の顔をみつめて話し出しました。

「お願い、今までのお父さんにもどってほしいねん、そら私かてお父さんが店の状態のことで苦しんではるのは分かってます。そやからいうてお父さんが私らのお父さんでなくなっていくやなんて耐えられへん。私や重蔵らはいつかは独立するかも、けどずっとお父さんの後ついていくしかないお母さんがいちばん可哀相や。私らはみの源の店なんかどうなってもかまへん、家族の幸せのほうが大事や!」

小さいときから勝気で快活な娘でしたがその目にはいっぱい涙があふれています。

妻も、だまってうつむいたままの息子も、ひたすら涙をこらえているのがわかりました。

必死の思いで訴える妻と娘の言葉が胸を突き刺しました